アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(171)斎藤美奈子「日本の同時代小説」

岩波新書の赤、斎藤美奈子「日本の同時代小説」(2018年)の概要はこうだ。

「メディア環境の急速な進化、世界情勢の転変、格差社会の深刻化、そして戦争に大震災。創作の足元にある社会が激変を重ねたこの50年。『大文字の文学の終焉』が言われる中にも、新しい小説は常に書き続けられてきた!今改めて振り返る時、そこにはどんな軌跡が浮かぶのか?ついに成る、私たちの『同時代の文学史』」(表紙カバー裏解説)

本書は文字通り「戦後日本の同時代文学史」である。1960年代から始まり、10年刻みで2010年代まで全六章の構成にて戦後の日本文学を概観する趣向だ。各時代の各章タイトルは以下である。

「1・一九六0年代・知識人の凋落、2・一九七0年代・記録文学の時代、3・一九八0年代・遊園地化する純文学、4・一九九0年代・女性作家の台頭、5・二000年代・戦争と格差社会、6・二0一0年代・ディストピア(暗黒郷)を超えて」

例えば1980年代タイトルの「遊園地化する純文学」は、「なるほど」と私は思う。1980年代、私が10代の高校生の頃には、まさに小説ブームであり文学自体に今よりもまだまだ勢いがあって、現在の2000年代以降よりも小説ははるかに多くの人に読まれていた。当時は村上春樹が注目され始めた時代で「羊をめぐる冒険」(1982年)や「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年)や「ダンス・ダンス・ダンス」(1988年)の作品を私は熱心に読んだ。斎藤美奈子の昔からの文芸評論の定番持ちネタ・フレーズに「たまたま同世代デビューで、たまたま同じ『村上』の名字であったため全く文学志向は異なるのに、なぜか事あるごとに気の毒なまでに比較されセットで論じられる二人の両村上、村上春樹と村上龍」というのがあるけれど(笑)、村上春樹と並んで村上龍も、1980年代に10代であった私ら高校生の若い世代を中心に人気だった。村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」(1980年)や「69」(1987年)や「愛と幻想のファシズム」(1987年)は当時、よく読まれていた。

1980年代にリアルタイムで村上春樹や村上龍の小説を読んで、確かに基本は純文学なのだけれど、表層は都市消費文化の華やかな装飾や砕(くだ)けた斬新な文体を凝(こ)らして、「これまでの近代日本文学とは明らかに違った」新興の純文学の台頭という感触の心待ちが当初より強くあった。斎藤美奈子「日本の同時代小説」の1980年代の章「遊園地化する純文学」というコピーは実に言い得て妙で、まさに「遊園地化する」そうした読み手を楽しませようとする80年代文学の新しい感覚を見事に言い表している。私は本新書を読んだ際に非常に懐かしく言外に納得してしまった。1980年代の日本文学には「遊園地化する純文学」の様相が確かにあったのだ。

巻末の「本書に登場する主な作家」一覧を参照すると分かるが、260ページほどの新書なのに異常に多くの文学者と時代の文学作品に触れている。そのため一つの作品に関する斬り込んだ深い考察批評はなく(一人の作家の一作品に触れるのに1ページも使っていない。せいぜい数行程度の言及である)、かなり足早に進む。これは「日本の同時代小説」の戦後文学史を論ずるにあたり、日本の戦後文学として外せない、その時々の時代を象徴する作品や後の文学史の流れで確実に転機になった小説を厳選し数少なく挙げて詳細に論じる方法とは異なる。例えば同じ岩波新書でいえば、篠田浩一郎「小説はいかに書かれたか」(1982年)のように全体で八編ほどしか小説を挙げず、それらについて集中的に掘り下げて論じるような日本文学史では本新書はない。

著者の斎藤美奈子は本論にて述べている、「自分の生きている時代の性格を知りたい」「本書がこの半世紀余の社会と小説を考える一助になれば幸いです」。岩波新書「日本の同時代小説」には、1960年代から2010年代までを10年ごとに時代区分し、時代ごとの特徴を裏付ける同時代文学を便宜、引用参照することを通して日本の戦後社会の各時代の特徴をあぶり出していくような回路が、まずある。その上で個々の文学者の同時代小説に出来る限り数多く触れ、かつ出来るだけ少ない字数の一言批評にて連続して容赦なくズバズバ斬っていく爽快さが魅力な、戦後日本の同時代文学史だと思える。

と同時に、本新書の帯に「きっとある!あの時、あなたが読んだ本」とあることから、「懐かしい。以前に私は、この小説を読んだ。本新書を契機に懐かしい気持ちで、ここに掲載されてある日本の同時代小説をもう一度、読み返してみよう」とするような再読の読書行動を読み手に促す、そうした効用が岩波新書の赤、斎藤美奈子「日本の同時代小説」の読まれ方の落とし所であるような気もする。いわば戦後日本文学の商品総カタログのような読まれ方、使われ方だ。

同じく本新書の帯にある「ついに出た、純文学もノンフィクションも、ケータイ小説も、1冊でわかる!みんなの『同時代文学史』」というような軽妙な(?)コピーを眺めていると著者の斎藤美奈子も編集販売の岩波新書編集部も、そうした「戦後日本文学の商品総カタログ」のような本の作り方をあえてやり、読者からのそうしたカタログ的読まれ方を暗に望んでいるようにも私には思えた。