アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(181)大江健三郎「あいまいな日本の私」

ノーベル文学賞受賞記念講演たる川端康成の「美しい日本の私」(1968年)には、果たして「美しいのは日本」なのか、それとも「美しいのは私なのか」の修飾の係り方による意味相違の問題があった。この答えは、本講演の英訳にて「Japan・the・Beautiful・and・Myself」とあることから、川端の「美しい日本の私」は「美しい日本と私」であって、「日本のなかの美しい私」といった「私が美しい」という意味ではなく、「美しいのは日本だけ」であることが後に明白になるわけだが。

川端康成のこのノーベル賞受賞記念講演のタイトルに関係づけて、中島義道「醜い日本の私」(2006年)という書籍が後にあった。本書は、街の外観にて無節操に乱雑に看板広告や呼び込み騒音が氾濫し、店員がマニュアル通りの紋切り型接客に終始する日本社会をヨーロッパの歴史的都市と暗に比較して、「現代日本の醜さ」を著者の中島が怒りまくり斬りまくる内容であった。「醜い日本の私」にて、中島義道は主観的には「醜いのは日本の方」であって、自身の「私」は日本の醜さに怒り心頭であり、何ら「私」は醜いはずはなかったに違いないが、少なくとも本書を読んで、また他著にて中島義道の哲学思索と現代評論の力量のなさを知っていた一読者の私にとっては、むしろ「醜い日本の私」をして「醜いのは日本ではなくて、他ならぬ中島義道の『私』の方」と率直に思えた。「日本(のなか)の醜い私(中島)」である、と。ちょうど川端康成の「美しい日本の私」とは「美しい」の修飾の係り方が逆になる、中島義道の「醜い日本の私」である。

さて、川端康成「美しい日本の私」に関し、以上のような「美しい」の修飾の係り方を問題にしている人は他にもいた。川端康成に続いて後にノーベル文学賞を受賞した日本の文学者、大江健三郎である。事実、大江健三郎のノーベル賞受賞記念講演は、川端のパロディ的タイトルたる「あいまいな日本の私」であった。そうして大江健三郎において、「あいまいであるのは日本、そして同様に、あいまいであるのは私」と、あいまいさが「日本と私」の両方に修飾し係っていた。それは大江健三郎その人が「あいまいであること」を現実として認識し、時に「あいまいさ」を是とし肯定的に捉えて、「日本も私もあいまいである現実から逃げることなく、日本と私のあいまいさを直視すること」を戦略的に主張しているように私には読み取れた。

岩波新書の赤、大江健三郎「あいまいな日本の私」(1995年)は、ストックホルムでのノーベル賞受賞記念講演「あいまいな日本の私」を冒頭に置き、その受賞の流れで主に1990年代に世界各地で行った大江の講演を収録したものである。ノーベル文学賞受賞を受けて、大江は自身の講演や公的な発言が世界的に注目され多くの人々に聞かれる好機を自覚し相当に戦略的に、この機会を利用して政治的発言を意識してやっている。それは岩波新書「あいまいな日本の私」に所収の各講演記録を読むと如実に分かる。何しろ、巻頭のストックホルムでの受賞記念講演「あいまいな日本の私」の中でも、文学創作に関する一般的言辞ではなく、非常に状況的な政治的発言を大江はしていた。

その状況的な政治的発言とは、受賞当時の1990年代、終戦後50年が経過して、いよいよ露呈してきた日本の戦後民主主義に対する大江の危機的意識に支えられていた。「日本も私もあいまいである現実から逃げることなく、日本と私のあいまいさを直視すること」を川端康成の「美しい日本の私」に掛けて、「あいまいな日本の私」としている当時の大江健三郎の発言から「あいまい」に関する言説を引いてみると、

「私が自分について『あいまいな日本の私』というほかにないと考えるからなのです。開国以後、百二十年の近代化に続く現在の日本は、根本的に、あいまいさの二極に引き裂かれている、と私は観察しています。のみならず、そのあいまいさに傷のような深いしるしをきざまれた小説家として、私自身が生きているのでもあります。国家と人間をともに引き裂くほど強く、鋭いこのあいまいさは、日本と日本人の上に、多様なかたちで表面化しています。日本の近代化は、ひたすら西欧にならうという方向づけのものでした。しかし、日本はアジアに位置しており、日本人は伝統的な文化を確乎として守り続けもしました。そのあいまいな進み行きは、アジアにおける侵略者の役割にかれ自身を追い込みました。また、西欧に向けて全面的に開かれていたはずの近代の日本文化は、それでいて、西欧側にはいつまでも理解不能の、またはすくなくとも理解を渋滞させる、暗部を残し続けました。さらにアジアにおいて、日本は政治的にのみならず、社会的、文化的にも孤立することになったのでした」(「あいまいな日本の私」)

大江健三郎における「あいまいさ」とは、二極への引き裂かれである。大江において「日本と私」があいまいであるのは、開国後の明治以来の日本の近代を振り返り、アジアの日本が西欧の近代を摂取して「日本はアジアに位置していたにもかかわらず、アジアにおける侵略者の役割」を果たした分裂の、そのあいまいな進み行きであった。そして当の日本にとって、「日本の近代化は、ひたすら西欧にならうという方向づけのものであったが、西欧に向けて全面的に開かれていたはずの近代の日本文化は、それでいて西欧側にはいつまでも理解不能の、またはすくなくとも理解を渋滞させる暗部を残し続けた」あいまいさ、西欧の理念的近代と日本が現実に摂取して形成した日本的「近代」との二つの引き裂かれであった。

こうした日本の近代の二つの引き裂かれの「あいまいさ」を指摘した上で、さらに大江は、

「ポスト・モダーンの日本の、国家としての、また日本人の現状も、両義性をはらんています。日本と日本人は、ほぼ五十年前の敗戦を機に、『戦後文学者』が当事者として表現したとおりに、大きい悲惨と苦しみのなかから再出発しました。新生に向かう日本人をささえていたのは、民主主義と不戦の誓いであって、それが新しい日本人の根本のモラルでありました。…日本は、再出発のための憲法の核心に、不戦の誓いをおく必要があったのです。痛苦とともに、日本人は新生へのモラルの基本として、不戦の原理を選んだのです」(「あいまいな日本の私」)

と述べて、「日本国の良心的兵役拒否」たる不戦の誓いの日本国憲法の保持(護憲)を強く主張するのであった。

このような「日本と日本人の私のあいまいさ」の日本近代の認識理解の上に立ち、現代日本の不戦の原理保持の主張にまで昇華させる大江健三郎「あいまいな日本の私」を1990年代に初読の際、私は「これはノーベル文学賞受賞者の受賞記念講演では、もはやない、ノーベル平和賞受賞者のそれだ」と率直に違和を抱いて思えた。大江の発言が小説創作に関するような文学者のそれではなくて、非常に時事的で政治的な発言であったからだ。

ところで、川端康成「美しい日本の私」は道元や「源氏物語」を引用しつつ、西欧人には理解されにくい、ともすれば「西洋流のニヒリズム(虚無)」と誤解されがちな「日本の美」の観念を述べたものだ。ノーベル賞受賞に際し、当の川端が「日本の美しさ」を現地の人達に殊更(ことさら)に解説し直さねばならなかった事態に象徴されるように、川端康成のノーベル文学賞受賞は、西欧人にとっての新奇なオリエンタリズムの東洋美として、かつてのジャポニズムにて日本の浮世絵が西洋で突然にブームとなったように鑑賞され消費され、ゆえに誤解の無理解のまま何となく称賛されて受賞に至る、そうした実質も持ち合わせていた。事実、川端康成の小説を読むと「雪国」(1937年)であれ「古都」(1962年)であれ、作品として優れているには違いないが、川端康成という人は日本の四季や古都(京都)の伝統美など、想定されて流通している日本の伝統的美しさの紋切り型イメージに乗っかって安易に小説を書いてしまう所があった。それゆえ日本の川端康成は、「ジャポニズムのリバイバル」として西欧のノーベル文学賞に該当した面もあった。

ところが、川端康成のノーベル文学賞受賞の1968年から26年後の1994年の大江健三郎のノーベル文学賞受賞になると、川端のそれとは内実が違っていた。もはや1990年代の世界にて、「ジャポニズムのリバイバル」による日本的なものの再評価は通用しなくなっていた。例えば「芽むしり仔撃ち」(1958年)であれ「万延元年のフットボール」(1967年)であれ、大江文学の特徴として密閉された空間での人間同士の派閥形成の争いの不毛や人間存在の実存的意味を追求する作品を、初期から大江健三郎は連続して書き貫いてきた。そうした意味で大江の文学は同時代文学として世界的に読まれてきた。だからこそ、「ジャポニズムのリバイバル」のような新奇なオリエンタリズムの読まれ方をした川端康成のように「日本の美しさ」ではなくて、大江健三郎は「日本のあいまいさ」を強調することが出来た。大江が志向する「密閉された空間での人間同士の派閥の形成争いの不毛や人間存在の実存的意味を追求」な文学課題には、安易で明快な解答などなく、真摯(しんし)にやればやるほど「あいまいさ」に突き当たって常に「あいまい」に終わるからだ。

思えば、大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」も「万延元年のフットボール」も「あいまい」であり、「あいまいさ」に耐えることを最後まで読み手に強要するような「あいまいな」文学であった。「芽むしり仔撃ち」では、感化院の少年逹は村人の大人らに隔離され見棄てられて一時的に自分逹だけの共同体を作れたように見えて、ラストは村人が戻ってきて少年逹は屈服させられる。しかし、主人公の「僕」は独り反抗して山に逃亡し村人らから山狩りをかけられる場面で小説は終わる。最後は「僕」の最愛の弟は、彼が可愛がっていた犬と共に行方不明のままだ。「万延元年のフットボール」でも、弟の鷹四は妹とのことを告白して最後は死んでしまう。小説の最後は、自身にとっての時に理解を超えた偉大な他者の弟・鷹四の死を噛(か)みしめながら、主人公の蜜三郎は、脳に障がいを持って生まれた我が子と生きる決意をする。決して簡単に正解の答えが出ない、弟・鷹四の生と死の意味を反芻(はんすう)しながら。

大江健三郎の小説は分かりやすい勧善懲悪とか、一方的なハッピーエンドないしはバットエンドでは決して終わらない。いつも解決不能な人間の生と死の意味について考え続けさせる、絶望と希望とが入り交(ま)じった「あいまいな」読み味が残る。このあいまいさに耐えることが出来ない力量の読者は、もともと大江文学を読めないし許容できない。

前述のように大江健三郎は「あいまいな日本の私」にて、同じアジアに位置しているのに西欧近代に乗っかって近隣アジア諸国を植民地支配した近代日本の引き裂かれと、日本が摂取した日本的「近代」が当の西欧人には理解不能で、西欧近代の本筋とは別物であった引き裂かれの二つの「あいまいさ」の認識理解の反省の上に立ち、現代日本の不戦の原理保持の主張にまで昇華させたのだった。大江健三郎の「あいまいな日本の私」から数十年経過して2000年代以降の時代状況の中で、私なら大江健三郎がいう「あいまいさ」を、他者への寛容や党派・派閥を越えた普遍性への志向と重ねて、特定他者への攻撃性や過激な他罰感情に多くの日本人が安直に陥りがちな現在の危機的状況への対抗として肯定的に読み込む。

あいまいであることは、自己主張を明確にしないことや物事をはっきりさせないことの難点では決してなく、すぐさませっかちな善悪二元論にて敵味方を判別しない、何でも功利や損得や優劣や勝敗で思考しないところの、それら決め付け回避の非決定性という意味での他者への寛容、多様性の確保、普遍的権利規範の構築という文脈にて「あいまいであること」を肯定的に私は捉え直したい。かつて大江健三郎が「あいまいな日本の私」をして、日本国憲法の不戦の誓いにまで昇華させ戦後民主主義的なものを守ろうとしたのと同様に。