アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(182)尾崎秀樹「上海1930年」

尾崎秀実(おざき・ほつみ)については、以前に尾崎を描いた篠田正浩監督の「スパイ・ゾルゲ」(2003年)という映画が劇場公開され、その時に尾崎が一時的に再注目されたことがあった。映画公開当時、獄中の尾崎が妻子に宛てた書簡集「愛情はふる星のごとく」(1946年)がよく読まれたらしい。尾崎秀実に関し最低限の概要を確認しておくと、

「尾崎秀実(1901─44年)は日本の評論家、ジャーナリスト、共産主義者である。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。近衛文麿政権のブレーンとして政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争から太平洋戦争開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織『ゾルゲ諜報団』に参加し、スパイとして活動。最終的にゾルゲ事件として1941年に発覚し、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された」

尾崎秀実がコミンテルンの活動家となったきっかけは、幼少の頃、台湾に住んでいたときに感じた日本人による現地の人々へのあからさまな差別や不当な扱いの反感からであった。1928年、特派員勤務先の上海にてジャーナリストでありコミンテルンの工作員でもあったアグネス・スメドレーに出会い、尾崎はコミンテルン本部機関に加わり諜報活動に協力するようになる。さらにスメドレーの紹介で、共産主義者であるリヒャルト・ゾルゲと出会う。彼を通じてモスクワへ渡った南京政府の動向についての尾崎のレポートが高く評価され、ゾルゲから「自分はコミンテルンの一員である」と告げられ協力を求められて尾崎は承諾する。

しかし、その一方で尾崎秀実は、1937年から近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する後の大政翼賛会の前身となる政策研究団体である昭和研究会に参加。第1次近衛内閣の内閣嘱託となり、日本の政権中枢にまで入り込んでいた。さらに1939年、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に所属しゾルゲ事件にて逮捕されるまで同社に勤務した。

中国・上海駐屯など長期の海外経験が豊富な尾崎秀実は、現地のことをよく知る事情通として彼への高い評価とともに日本政府に重宝されていた。海外で尾崎が評論活動をしていた当時、「最も進歩的な愛国者」「中国問題の権威」「優れた政治評論家」と評され、世評での評論家としての尾崎の権威と評判は実に高いものがあったのだ。それだけに実は共産主義者でソビエトのスパイである尾崎の正体を後に知って、自身の内閣組閣時に尾崎秀実を側近中枢に重用していた近衛文麿は驚愕したという。

同時代人の京都学派の哲学者であった三木清が尾崎秀実と同様、近衛の政策ブレーンとして昭和研究会に参加し、しかし日本共産党とも関係を持ち後に治安維持法で検挙され戦中に獄死する。三木清の生涯は尾崎秀実のそれに似ている。尾崎秀実を読むと、いつも私は三木清のことを思い起こす。思想史研究に際し、ファシズムとスターリニズムの同質性、右翼と左翼は表層の主義主張は正反対で全く異なるが、思想信条の原理的構成にてどこか同質なものがあるのでは、と私は思っていた。尾崎秀実にしても三木清にしても、天皇制ファシズム下にて国家主義を志向しながら同時に共産党コミンテルンへの傾倒をも示す二義性の立ち振舞いには誠に興味深いものがある。

この左派の共産主義者と右派の国家主義者との同質性の問題は、日本思想史研究における「転向論」解明の重要な手がかりになるに違いない。例えば、学生時代にマルクス・レーニン主義に熱中して共産主義青年同盟に加わり、治安維持法での逮捕・投獄を経て、後にマルクス主義者から天皇制国家を支持の右派への「転向」を果たし、今度はガリガリの復古で保守な「日本浪曼派」になってしまう亀井勝一郎、彼の極左から極右への両端を行く異常な「転向」はスターリニズムとファシズムの両者の原理的同一性を指摘しなければ到底、合理的な説明はつかないのである。

さて、尾崎秀実の話に戻って岩波新書の赤、尾崎秀樹(おざき・ほつき)「上海1930年」(1989年)である。本新書は尾崎秀実の弟・秀樹の執筆であり、尾崎秀実が新聞記者の時代、1928年11月に上海支局に転勤し特派記者となり三年あまり上海に在住する、その間に中国共産党とも交流し、アグネス・スメドレーと出会い、コミンテルン本部機関に加わって諜報活動に協力するようになり、さらにはリヒャルト・ゾルゲと出会う、そうした尾崎秀実の上海時代、いわゆる「上海(での)1930年」を描いたものだ。

本書には尾崎秀実に関係する人が多く登場する。例えば羽仁五郎、魯迅、アグネス・スメドレー、夏衍(沈端先)、陶晶孫、山上正義、川合貞吉、王学文、リヒャルト・ゾルゲなど、彼ら・彼女ら友人や同僚や同志たち。本書記述によれば「(当時1930年の)上海は、列強の帝国主義と外国資本の特権と利害が交錯する最大の拠点であり、また中国の労働者階級がその力を発揮しつつある国際都市でもあった」「(殊に)上海は左翼の立場からいえば帝国主義的諸矛盾の巨大なる結節とも云い得られた」。1930年代の中国・上海には世界中の各国から様々な人が自身の故国と各自の思想を背負い集まって来ていた。それら人々と内山書店や公啡珈琲館(喫茶店)にて尾崎は交流を重ねた。そうした上海の時代の熱気の渦の中に日本人の尾崎秀実もいたのだ。

岩波新書「上海1930年」に関する書評やレビューにて、「尾崎秀実の思想内実を明らかにできていない」や「1930年代の中国をめぐる列強帝国主義の情勢が客観的に描き切れていない。つまりは左派的視点が強すぎる」の時に痛烈批判の文章を見かけるが、本書は厳密な尾崎秀実研究や尾崎秀実評伝、1930年代の世界史研究の書籍ではないのだから、そこまで酷評して激怒するほどのことではない。また著者の尾崎秀樹が秀実の弟であり、身内ゆえに尾崎秀実のことをあからさまな称賛肯定のみで書くこともできず、かといって批判し否定的評価にのみ収めることもできない、身内が直に書く尾崎秀実像の難しさも読み手側は、あらかじめ考慮すべきであろう。

尾崎秀実の43年間の生涯の中で上海で過ごした三年あまりの歳月は、魯迅やスメドレーやゾルゲらとの刺激的な出会いと交流を持った欠けがえのない、尾崎秀実にとっての、まさに「青春の時代」であったに違いない。本書「上海1930年」を読んでいて「尾崎秀実の青春」という思いが、ずっと私の中で去来していた。

私など尾崎秀実の「上海1930年」時代の青春スケールに比べたら実に小さなものだが(笑)、まだ学生だった頃、九州・小倉に一時期、住んでいて行きつけの食堂兼飲み屋の小さな店があって、そこによく出入りしていた。その店に行くと、だいたい常連客がいて一緒に飲んだり、時におごってもらったり知り合いから別の知り合いを紹介されたり、少しだけ背伸びして自分とは同世代ではない歳上の様々な職種の大人と話す機会があった。なかには職業不詳の、もう見るからに明らかにアル中寸前な怪しい大人もいたが(笑)。その店はカウンターだけの小さな安い食堂兼飲み屋だったけれど、そこに行けば若い頃の自分には刺激的な何かしらの楽しみがあった。何より安くて食事が美味しかった。

人には、そういった青春の時代の懐かしく幸せな年月や場所が少なからずあるものだ。そうした自身の過去も思い返しながら私は尾崎秀実にとっての青春、「上海(での)1930年」をなぜか懐かしい、さわやかな気持ちになりながら読んでいた。これは尾崎秀実にとっての懐かしくて輝かしい青春時代の記録なのだ。

「1928年11月、ひとりの新聞記者が中国・上海に赴任した。後にゾルゲ事件によってスパイとして処刑される尾崎秀実は、混迷の只中にある中国の現実に直面し、魯迅、スメドレー、ゾルゲ等の知識人たちと交流しながら、中国の民族的解放やアジアの自立の途を探る。兄・秀実の生と死を追跡してきた著者が魔都・上海を舞台に描く」(表紙カバー裏解説)