近年、放映のNHK大河ドラマに「光る君へ」(2024年)があった。本作は、平安時代の摂関政治期が舞台であり、紫式部が主役、藤原道長が相手役の準主役となっている。紫式部、藤原道長ともにこの時代の代表的人物として有名だが、実のところその全貌にはいまだ不明なことが多い。残された同時代の本人自筆(とされる)史料(「紫式部日記」「御堂関白記」)を最大限駆使しても、紫式部と藤原道長のことははっきりしないのである。また彼らの没後に記されたもの(「栄華物語」「大鏡」など)には、人々の耳目を無駄に引こうとする歴史物語的な面白さの語り記述に流されやすい脚色・虚構があって、史料批判を介して慎重に読まれなければならず、書かれてある事をそのまま素朴に信じるわけにはいかない。
NHK大河ドラマ「光る君へ」の脚本担当である大石静は、制作発表会見で次のような旨を述べたという。「藤原氏が摂関家として権力を誇った平安王朝というのは、山崎豊子『華麗なる一族』と映画『ゴッドファーザー』を足して3倍したような権力闘争の面白い話がいっぱいある。…平安王朝の権力闘争といった『セックス・アンド・バイオレンス』を描きたい」と。
言い得て妙である。確かに、平安王朝の摂関政治全盛期は「性と暴力」が満載だ(笑)。自身の娘を天皇に入内(皇后・中宮になる人が宮中に入ること)させ皇子の誕生を望み、外祖父(母方の祖父)の立場から天皇の外戚として摂政・関白の高位高官を独占し国政を左右した藤原氏の摂関政治には、藤原一族による他氏排斥に加えて、藤原氏内部における「氏の長者」をめぐる一族内での熾烈(しれつ)な争いがあった。父子、兄弟、伯父・叔父と甥らの間での過酷な権力闘争である。藤原氏の摂関政治での藤原北家(「一の家」)の官位独占下にて、さらに一族の首長である「氏の長者」が摂関を兼ねる慣例になっていた。そのため摂政・関白に補任される(「一の人」になる)には、何よりも藤原氏の中で他の兄弟や伯父・叔父や甥ら肉親を抑えて自身が「氏の長者」の頂点に立つ必要があったのである。
藤原道長が藤原家の中で甥の藤原伊周(道長の兄・道隆の子)と争い伊周を失脚させ、やがて一族の長となり、さらには娘を天皇の后妃に入れて自らは外祖父となる、いわゆる「血縁の正統性」に依拠する形で天皇の後見役として君臨する生涯出世の過程は、なるほど、山崎豊子「華麗なる一族」(1970年)での血のつながりがある親密であるはずの家族なのに、万俵(まんぴょう)家という銀行頭取一族内での父子間の憎悪の誤解や、正妻と愛人執事との対決での、「跡継ぎの子の有無」をめぐっての権力の正統性誇示の一連のやりとり(「あなたも子供を作っておけばよかったのに」のセリフなど)を思い起こさせる。また道長の上には父・兼家の後継と目され摂政・関白を歴任した長兄・道隆と三兄・道兼の有力な兄が二人いた。ところが二人の兄は相次いで突然早くに亡くなってしまう。それで最後は道長が父の藤原兼家の跡を継いて「氏の長者」となるわけだが、この話の筋は映画「ゴッドファーザー」(1972年)とほぼ同じである。あの映画でも劇中、長兄や次兄ではなく三男のアル・パチーノが、最初はコルレオーネ家のイタリア系マフィア一家を継ぐつもりなど全くなかったのに、抗争の過程で一族内での愛憎を経て最後は父のマーロン・ブランドの後継者としてファミリーのドン(首領)になり、一家を束ねていた。
確かに大河ドラマ「光る君へ」は、「小説『華麗なる一族』と映画『ゴッドファーザー』を足して3倍したような」見心地がする。本ドラマでは、他氏排斥ならびに一族内での対立の藤原氏の権力闘争で歴史的に明らかになっている事柄はよく描かれている(例えば、花山天皇が兼家の藤原一家にだまされて出家し退位する「寛和の変」の顛末など)。だが、紫式部と藤原道長の私的なことは文献史料が少なく不明であるため、かなり大胆な脚色がなされている。下級貴族の紫式部は摂関家の藤原道長に召出され、中宮である道長の娘・彰子に仕える以前に、実は幼少の頃から道長と知り合いで二人は以前に恋仲であったとか(笑)。比較的信頼できる史料、紫式部自筆の「紫式部日記」を読んでも幼少時から紫式部と藤原道長が知り合いであったとか、二人が密かに相思相愛であった可能性は低い。しかも紫式部の早世した母親が道長の、冷酷な兄・道兼に通りすがりの辻斬りで無残に殺されて、紫式部にとって愛する藤原道長は母の敵(かたき)の憎むべき因縁人物の弟だったなど、どう考えても史実として到底ありえない現代的な相当に俗っぽい話になっている。ただ軽い気持ちで日曜の夜にツッコミを入れながら冷やかし半分で視聴して、それなりに面白いけれど。
さて、大河ドラマ「光る君へ」で主役の紫式部と共に主要人物になっている藤原道長に関しては、昔の岩波新書に青版の北山茂夫「藤原道長」(1970年)があった。本書はフィクションの歴史小説ではなく、学術的な人物評伝であるため、道長について歴史的に明らかになっている確定的なことしか書かれていない。不明なことは、はっきりその旨を記しており、著者による推測や仮説の記述はほとんどない。書き出しから結語まで「藤原道長には不明なところが多い」「道長という政治家の正体は茫漠(ぼうばく)としてとらえにくい」など、結局のところ藤原道長その人に関してはよくわからないとする一貫した立場からの慎重な書きぶりである。そのため、(かの大河ドラマとは異なり)内容は地味で一読して即座に面白みを感じる要素に乏しいが、その反面、慎重で堅実な評伝記述にて、序章に「ある日の道長」の人生の一場面を置き、その上で誕生から死去までを時系列で読んで藤原道長という人が、それなりにジワジワと分かってくるといった所である。
藤原道長には国政や外交における公的な改革政治よりも、手近な私的権力闘争の政争の方がよく似合う。道長と伊周の抗争、道長と三条天皇の確執など。よく指摘されるように、藤原道長の存命時(966─1027年)は律令国家のいよいよの崩壊時期であるにもかわらず、以前の平将門と藤原純友による東西での地方反乱(承平・天慶の乱、939年)や道長没直後の東国での平忠常の乱(1028年)などの目立った地方反乱は不思議と起こらなかった。政権担当時に、こうした大きな内乱勃発に遭遇しなかった点でも藤原道長の生涯は誠に運が良かったといえる。
藤原道長が晩年、莫大な財と多数の人手の手間をかけて造宮したのが法成寺であった。晩年には浄土信仰に傾倒し、つらい病に長く苦しんだことから出家した道長が阿弥陀堂を建立し、無量寿院と名付けたのが始まりとされる。後に法成寺に改名された。法成寺は「御堂」とも呼ばれ、法成寺は藤原道長のニックネーム「御堂関白」の由来になった。法成寺は道長の子・頼道が後に開いた平等院の範となった寺院で一望の様子は平等院に似ており、造宮規模は平安当時の寺院としては最大級、内部の伽藍は壮麗を極めたという。しかし、法成寺は後の時代の度重なる出火により焼失し現存していない。藤原道長に関する事柄で法成寺が現代に残っていないのを、いつも私は残念に思う。
岩波新書「藤原道長」には「道長の生き方は、白河・後白河らの法皇たちの原型である」(216ページ)とあって、著者の北山茂夫が、摂関政治全盛の藤原道長の政治を後の時代の「院政の原型」と見ている点が興味深い。だが、本書を通じての著者による道長評価は、「マナリズム(註─マンネリズム。慣例の形式的踏襲に終始して新鮮味がないこと)の政治家」と厳しく断じて全体に低調である。例えば以下のように。
「藤原道長は、古代史のどこにいかなる位置を占めたのか。その家系からいえば、鎌足の後裔の一人である。かれは、古代国家がいちじるしく衰頽(すいたい)した一0世紀の終末に権力の座につき、以後三0年にわたって、政界を支配した政治家である。衰頽期もこの時代までさがると、中央政府による政治指導は活気を失ってマナリズムにおちいりがちで、政治家のタイプも、がらりと変わってくる。道長は、そうした時代の大権勢家であった。道長は、そのマナリズムに抵抗することなく生きた政治家である。かれには、これといった国策上の事績はみられない。積極的な政策をもたぬ大権勢家とは、まことに奇妙な存在である」(2ページ)
(※岩波新書の青、北山茂夫「藤原道長」は近年、岩波新書評伝選から改訂版(1995年)が復刻・復刊されています。)