アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(524)富岡儀八「塩の道を探る」

岩波新書の黄、富岡儀八「塩の道を探る」(1983年)のタイトルにある「塩の道」の概要はこうだ。

「塩の道とは、塩を内陸に運ぶのに使われた道のこと。また反対に内陸からは、山の幸(食料や木材や鉱物)が運ばれた道でもある。製塩が化学製法に代わり専売法による規制がかけられる以前は、海辺の塩田に頼っていたことから日本の各地で海と山を結ぶ形で、塩の道は数多くあった。塩の道は日本全国にいくつもあり、内陸地へは場所によって様々なルートで運ばれてきた。特に雪深い内陸地域に住む住人にとって冬場は漬物や味噌を作って保存するなど、塩は生活に欠かすことのできないものであることから、重要な生活路であった。また近世に入ると宿場町やその周辺は藩によって重点的な開発が行われた。これらの街道沿いには、宿場町、城下町、神社・寺院がある場合が多い。日本各地で盛んだった塩の道での往来は、後の鉄道建設に反映され、1960年代以降に道路が整備されて現在も物流の主要なルートとして残っている。

塩の道は各地に存在しているが、日本の塩街道は特に中部地方(北陸道─東山道─東海道)の連絡線に多く、日本海側からは、例えば姫川沿いの千国街道が代表的な塩の道である。日本海側の越後国と信濃国を結ぶ千国街道(糸魚川 ─塩尻)は、塩の運搬に関する遺構も比較的残されていて、よく知られている。地名になっている『塩尻』とは『塩の道の尻』で、海で採れた塩運搬路の終着点の意味である」

もともと遠隔地の街と街とを結ぶ街道は、目的用途のはっきりした合理的なものである。そうした合理的な目的用途の確固としたものがなければ道は新たに切り拓(ひら)かれないし、後々まで長く存続しない。また街道があるためには、常に人や馬や車の一定の交通量があって道の整備保全が定期的になされなければならない。そうでなければ、やがて街道は廃れてしまう。それゆえ、街道(整備の行き届いた交通路)とは目的用途が明確にあって継続的に整備保全がなされる極めて合理的で人為的なものである。

日本の街道といえば、古代の律令国家体制、近世の江戸幕府下における各地の伝令統治や租税徴収や参勤交代らを円滑に行うための政権所在地につながる政治的道路や、軍事の兵站(へいたん・兵の移動や物資の輸送)のための軍用路、参拝・参詣のために寺社に連なる宗教的な道(熊野古道や伊勢街道が有名)など、様々な街道がある。それらの中で「塩の道」は各地域同士の物資の交易のためにある産業幹線道路の典型であった。

さて一般に塩に関して、普段から自身で調理したり、家人や外食先で出される食事を無自覚に食べている限りでは、あまり気づかないけれど、塩というのは人間の生存にとって極めて大切で必要不可欠なものである。例えば「敵に塩を送る」という故事成語がある。この語は「敵の弱みにつけこまずに、逆にその苦境から相手を救う」、さらには「争いの本質ではない所で、相手に援助を与える公正(フェアプレイ)精神の発露」といった意味である。これは戦国時代の武将同士の戦いで、武田信玄が敵側から塩の供給経路を断たれ、塩が入手できない兵糧攻めの塩不足で苦しんでいた時に、別の敵方の上杉謙信が「武士道に反する」として敵対する武田側にあえて塩を送ったという逸話が元になっている。

このように塩の供給を一時的に断たれただけで、人は生きていけない。それほどまでに塩とは人間の生存にとって欠くことのできない重要なものであるのだ。そして日本では、塩は海辺の塩田にて主に生産されていたため、海から遠い内陸地へ生活に必要不可欠な塩を供給し運ぶために全国各地で海と山を結ぶ形での、いわゆる「塩の道」が様々なルートにて昔から数多くあったのである。

ところで、「塩の道」といえば今や有名で定番の話題(トピック)であり、日本経済史や産業交通史や特定地域の郷土史にて頻繁に言及される人気のテーマである。今日のように「塩の道」の話題がここまで注目され、人々の耳目を広く集めて知られるようになった契機は一体何であったか、以前に私は調べてみたことがあった。「塩の道」という語やそれについての歴史研究は昔からあったが、それが人々に一気に拡散したのは、どうやら民俗学者の宮本常一が晩年にやった「塩の道」の講演(宮本「塩の道」の初出は「日本の海洋民」1974年)が書籍となり、これが広く読まれての影響であるらしい。「なるほど宮本常一の影響か!」と私はその時に痛く納得した次第である。宮本常一という人は地道で膨大な現地調査(フィールドワーク)に裏打ちさせて、学術的で本格的な民俗学をやる人であったけれど、他方でこの人は大学や専門学会の「象牙の塔」にこもらず、なぜか不思議と専門の学者・研究者以外の一般の人に人気のある民俗学者であった。宮本常一の著作は一般読者に支えられた人気の裾野が幅広くあって、宮本民俗学のファンは昔から多くいたのだった。

岩波新書の富岡儀八「塩の道を探る」も、「塩の道」の定番人気のテーマに即した一冊である。本書は古代よりあった「塩の道」に関して、あえて近世江戸の日本各地の塩街道に内容を絞り論じている。すなわち、近世江戸以降、「日本の塩」は以下の七つの変革期を経て今日に至ったとされるのであった。

「(1)塩業地の基礎作り(第一変革期、正保三─五年)。(2)商品経済への発展(第二変革期、寛文年間─元禄年間)。(3)生産の合理化(第三変革期、文政六年ごろ)。(4)国家専売制の実施(第四変革期、明治三八年)。(5)工場生産の開始(第五・六変革期、昭和一三年─二八年)。(6)化学製塩への大転換と塩田の廃田化(第七変革期、昭和四二年─四七年)」

本書で扱われているのは、(1)(2)(3)の三つの変革期の「日本の塩」および「塩の道」である。この時期の「塩の道」について、地図や図表や写真を掲載して北は北海道・東北から南は四国・九州までの日本各地の塩街道の詳細をそれぞれ具体的に、非常に細かく記述している。

私が「塩の道」関連の書籍を重ねて読んで昔から強く思うのは、塩は実は人々の日々の生活に欠かせないものであって、沿岸部の塩田生産に主に依拠していた日本の製塩事情から特に内陸山間部に暮らす人々に塩は大変に貴重なもので、その流通経路として日本には昔から「塩の道」が数多く存在した、と単にするような表面的な常識的理解にとどまってはいけないということである。海と山とを結ぶ形での生活基幹物資である塩の輸送路たる「塩の道」を介して、沿岸部からの行商人による塩の振り売り、ないしは山間部住民の塩の買い出しの双方向からの交易にて、沿岸から内陸に塩が運ばれた「塩の道」は、同時に内陸から沿岸に山の食料や木材や鉱物が運ばれた「山の道」でもあった。また「塩の道」にて人や牛や馬の背に乗せて塩が日常的に運ばれ人々が頻繁に往来することで人と物が自然に集まり、その街道沿いには市場や商店、宿場町や城下町、神社・寺院ができて地域として栄えた事例も多い。

この道を往来した人々は塩を主とする物資の交易を媒介に、単なる物の売買交換の商売だけでなく、食べ物の味つけの食文化に関しての生活嗜好や地域特有の伝統習俗や特徴的な物の考え方らが共通の一大地域文化圏に属し、そうした地域文化圏形成に、かの「塩の道」は強く影響を及ぼしていた。こういった点にまで留意して深く丁寧に、「塩の道」関連の書籍は読まれるべきであると思う。

最後に、岩波新書の富岡儀八「塩の道を探る」の概要を記しておく。

「塩は、日々の生活に欠かせない必需品であり、むかしから、どんな山奥へも万難を排して運びこまれた。そのルートは、同時に、さまざまな生活物資を運ぶ道となり、人と人とをつなぐ道ともなった。日本列島全域におよぶ調査研究をもとに、塩の生産と流通がどのようにおこなわれ、それが地域の生活や文化とどうかかわってきたかを探る」(表紙カバー裏解説)