アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(493)堀尾輝久「教育入門」

私は教育学部出身ではないが、大学で教員免許取得のために「教育学概論」「発達心理学」ら教育系統の科目を履修していた。その際に講義を聴講しながら、また大学卒業後も「教育とは何か」「教育の本質とは!?」について、自分なりによく考えていた。教育学系の講義にて「教育とは何か」「教育はどうあるべきか」の試験やレポート提出を求められた際、どのように答えて書けばほぼ満点の完答となるのか、仮に私が学生に課題を課すとして、どういった採点基準で評価を下すか考えていたのである。「教育とは何か」「教育はどうあるべきか」の理念定義に関し、以下の内容要素ないしはそれらに類する語句を欠落なく書き入れていた場合、ほぼ満点の完答になると思われる。

「教育とは、対象の人間の心身を望ましい方向に変化させることを目的とした活動」の総称であり、教育推進の主体と教育の場(テリトリー)には「家庭教育」「学校教育」「社会教育」があることを踏まえた上で、

(1)教育は学科の知識教授、スポーツや専門職種の特定技術技能の訓練・習得を促す。またそれらが他者からの強制による他律的教授・訓練ではなく、ゆくゆくは各自が自律して主体的に「学び」に取り組むよう誘導する。

(2)教育は各人の人権保障や反戦平和の主張、暴力や抑圧差別の排除、貧困格差の是正、自然環境の保護ら人間尊重の普遍的規範、ある種の人道的正義への理解と行動を深める。

(3)教育は人間とは独りではなく他者との社会関係の中で生きていることに気付かせ、集団行動の中での協調や社会のマナー・ルール遵守への理解を深める。また自身が生まれ育った地域や社会、民族伝統や国家を尊重の感情意識を高める。

(4)教育は自尊感情や自己肯定意識、自己と他者への慈(いつく)しみや共感の感情意識を高めて、個人の情緒安定の情操教育の役割を持つ。快活で前向きな生活態度や合理的で建設的な生き方の姿勢をはぐくむ。

これら4つの項目を柱とし、各項目の具体例を挙げながら「教育とは何か」「教育はどうあるべきか」の理念定義を詰めていけば、その論述はほぼ満点の完答になるであろうと思われる。

例えば(1)に関して、教育心理学でのブルームによる「完全習得学習」などは昔からある教育学での古典的定番テーマであるし、その他にも小学算数の教授法の工夫として「水道方式」の理論などがあった。それらは公的な学校教育の場だけでなく、昨今ブームの自己啓発にて「効果的な勉強法」「学習のコツ」としてよく引用され便宜強調されている。また現代の教育時事にて、過酷な詰め込み教育の末の進学主義(極端な学歴社会)批判や「ゆとり教育」是非の議論.、学校の部活動指導での体罰の問題などは、いずれも(1)の「学科の知識教授、スポーツの特定技術技能の訓練・習得を促す」教育内容に関係する事柄である。

(2)には、例えば時事的ニュースを取り上げた討論授業や、社会見学・修学旅行などを絡めた戦争遺跡訪問の課外活動らの教育実践の事例が挙げられる。同様に(3)に関しても、自民族や自国の伝統歴史を学ぶ授業や地域での奉仕活動(ボランティア)、学校行事や課外活動を通しての集団訓練の教育カリキュラムがこれに当たる。

戦後日本社会にて伝統的によく見られる、教育をめぐる議論の革新左派と保守右派との政治的立場の違いから来る激しい対立の論戦は、この(2)と(3)のどちらを重んじ、どちらを軽んじるかの決定的相違に由来している。学校現場の教職員組合や新聞・放送のマスコミの主要ジャーナリズム、戦後民主主義を標榜する知識人ら左派革新陣営の人達は(2)の「人権保障や反戦平和の主張、暴力や抑圧差別の排除ら人間尊重の普遍的規範、ある種の人道的正義への理解と行動を深める教育」を非常に重んじ強調すると同時に、(3)の「集団行動の中での協調や社会ルール遵守への理解を深め、自身が生まれ育った地域や社会、民族伝統や国家を尊重の感情意識を高める教育」には、「戦前よりのかつての国家主義的教育の復活反動の危険性の兆候」を見て警戒批判する傾向にある。

これとは逆に保守右派の活動家・知識人、学校現場にある程度の上からの国家や時の政府による統制が必要とする自民党保守政権の政治家やそれに近しい思想立場の人々は、公教育における学校式典での国旗掲揚・国歌斉唱の一律義務化の主張など、(3)の「集団行動の中での協調や社会ルールの遵守、自身が生まれ育った地域や社会、民族伝統や国家を尊重の感情意識を高める教育」にかなりの力を入れて重んじると同時に、(2)の「各人の人権保障や反戦平和の主張ら人間尊重の普遍的規範、ある種の人道的正義への理解と行動を深める教育」を相当に軽く見る。時に人権観念を「西洋近代由来で日本社会には馴染まないエセ思想」と見なしたり、反戦平和の主張を「暴力紛争がはびこる現実世界にて有効性を何ら持たない単なる理想論」と一刀両断、嫌悪して教育現場から積極的に排除しようとする傾向が強い。これらの事からも(2)と(3)が「教育とは何か」「教育はどうあるべきか」の理念定義にて欠かせない、主要要素の柱になっていることはよく分かる。

(4)は、人が生まれてからの母子密着など「家庭教育」から来る根本的な教育課題である。人は幼少時より自尊感情や自己肯定意識が充足していなけれぱ、その人の生活ないしは人生はうまく行かない。後の公教育たる「学校教育」にて、校内暴力や不良非行、いじめや自傷・自殺、無気力・引きこもりらの様々な教育上の問題は実のところ、この自尊感情や自己肯定意識、自己と他者への慈しみや共感の感情意識欠如の問題にほぼ由来しているといってよい。そのため昔から青少年の家庭内暴力や不良非行問題、今日のいじめや引きこもりの問題に処するに当たり、(4)の教育における個人の情緒安定の情操教育の役割はこれまで頻繁に議論され言及されてきたのであった。

岩波新書の赤、堀尾輝久「教育入門」(1989年)は、これから教育学全般を本格的に学ぼうとする読者、将来教職員志望の人に向けてのまさに「入門」的な内容である。「教育入門」なるタイトル書籍であるので、教育の理論や歴史や今日の教育問題らに幅広く均等に触れ、その語り口は間口(まぐち)が広く特定の特殊テーマや著者独自の教育持論に特に偏(かたよ)ってはいない。初学者向けの公平記述が「教育入門」の入門書として読んで好感の読後感を確かに残す。

このように様々に広く教育の教育の理論や歴史や今日の教育問題に幅広く触れ言及していながらも、いくぶん手前味噌ではあるが、先に私が挙げた「教育とは何か」「教育はどうあるべきか」の理念定義の4つの主要要素に本論記述のほぼ全てが属していること、逆に言えば本論記述のほとんどがこの4つのいずれかの論点要素にほぼ回収できることを、岩波新書「教育入門」を読んで確認してもらいたい。またこの手の教育学原論らの書籍には、だいたい著者による「教育とは何か」の理念定義の記述があるので、その記述部分を最初に押さえておくことが定石(じょうせき)である。堀尾輝久「教育入門」では、第二章の第一節に当たる「2・教育とは何か・(1)教育の本質とは」(90─107ページ)の箇所で集中的に述べられている。よって岩波新書の赤、堀尾輝久「教育入門」を読む際にはこの部分を決して軽く読み流すことなく、しっかりと押さえて読み進めなければいけない。

ただ著者の堀尾輝久が教育学の中でも教育思想史を専攻の人で、教育勅語(1890年)から大日本帝国崩壊時(1945年)までの近代日本の公教育の全体像を、近代天皇制国家による上からの国家主義的教育注入の「教化」と一貫して批判的に理解する方なので、先の4つの教育に関する要素からいって、(2)の「人権保障や反戦平和の主張、暴力や抑圧差別の排除ら人間尊重の普遍的規範、ある種の人道的正義への理解と行動を深める教育」を、近代日本の公教育にて一貫して決定的に欠落していたもの(「戦前日本の学校教育には人権学習の要素は皆無であった」と指弾する問題意識)として非常に重んじ強調すると同時に、(3)の「集団行動の中での協調とルールの遵守、自身が生まれ育った地域や社会、民族伝統や国家を尊重の感情意識を高める教育」には、「戦前よりのかつての国家主義的教育の復活反動の危険性の兆候」を見て警戒批判する筆致に本新書があることも確かである。

そういえば堀尾輝久の著書で「人権としての教育」(1991年)というのが後に出ている。これは先の4つの教育に関する理念定義要素のうちの(2)である「人権保障や反戦平和の主張、暴力や抑圧差別の排除ら人間尊重の普遍的規範、ある種の人道的正義への理解と行動を深める教育」に議論を絞り、その重要性について述べたものであった。

「日本の学校と教育が、世界から熱い視線を浴びている。だが、現状はどうか。過熱する受験競争、拡大する学校間格差、体罰やいじめの横行。学ぶ存在である人間の原点にたち返って教育を問い直すことが、いま切実に求められている。近代以降の学校の歴史をたどり、教育学の立場から、脱学校論など現代の学校批判にもこたえようとする」(表紙カバー裏解説)