アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(492)坂本賢三「『分ける』こと『わかる』こと」

(今回は、講談社現代新書、坂本賢三「『分ける』こと『わかる』こと」 についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、坂本賢三「『分ける』こと『わかる』こと」は岩波新書ではありません。)

私が高校生の時の1980年代の頃、大手予備校の代々木ゼミナールの現代文講師に酒井敏行という人がいた。酒井の現代文読解の方法は「論理」である。すなわち「理=わける」と「論=つなぐ・まとめる」。だから、評論問題では表現と内容から「理」の「わける」で対立する二つの系統を必ず図式化し板書して、それぞれの系の言い換えや内容の深まりを「論」で毎回「つないで」いって説明する。その際の現代文の評論読解解説にて、酒井は「わかることは分けること」と繰り返しよく言っていた。

私は、昔の代ゼミの酒井敏行の現代文講義のことを思い出すたび、坂本賢三「『分ける』こと『わかる』こと」(1982年)の書籍も同時によく思い出すのだった。これは逆もまたそうで、坂本「『分ける』こと『わかる』こと」をたまに読み返すとその都度、代ゼミの現代文講師の酒井敏行のことが思い浮かぶ。

講談社現代新書、坂本賢三「『分ける』こと『わかる』こと」の概要は以下だ。坂本賢三は哲学者で技術史・科学史家でもある。

「おもちゃが『わかる』ためには、分解し、各々の部品がどんな原理で結びつけられているかを知らねばならない。『わかる』とは、その分類の体系を理解することであり、古来より人は『分ける』ことで、自分をとりまく全宇宙での事象をわかろうとしてきたのである。同時に、分類の仕方が認識の仕方を決めてきた。本書は、陰陽五行や易、西洋のアトム論など、『分ける』ことに払った人間の叡智の跡をたどり、新しい認識のための新しい分類を提唱する」(表紙カバー表解説)

本書は何も大して難しいことや、事更(ことさら)に新奇なことは言っていない。ただ「『わかる』とは、その分類の体系を理解することであり、古来より人は『分ける』ことで、自分をとりまく全宇宙での事象をわかろうとしてきたのである」ということを、各種の事例を挙げて説明しているだけだ。「『分ける』こと(は)『わかる』こと」 は、古来より学問の基本の手続きである。例えば、博物学は地球上環境にある様々な動植物を、各種個体を採取・捕獲し観察や解剖などしてまず種別に「分ける」。その上で種に命名し、また生体の特徴習性によりそれらの共通・差異を見出し、それら種別の関係性を見定めて類系統の体系に配置・整序していく。分類標本や百科事典に後にまとめられるような要領で。こうした一連の手続き手法が博物学の内実であり、このようにして未知の混沌(カオス)な漠然茫漠(ぼうばく)とした全体対象に向け、 既知の秩序(コスモス)の明確な部分体系に細かく配置・整序し関係づけて、まさに「分ける」ことが、すなわちそのまま人間主体にとって「わかる」ことになるのだ。こういった「分けることはわかること」 の知恵、認識メカニズムの原則は人類史にてかなり昔から言われていた。例えば近代哲学の出発点にいたデカルトにて、「困難は分解せよ」(「分からないものは、まず分解して網羅的に調べ、後に統合する」の意)というように。

書籍タイトルになっている「『分ける』こと『わかる』こと」は、「分けることはわかること」の原理・原則の至極当たり前の指摘である。本書には書かれていないが、認識一般の学問的手法以外でも、私達は日常生活で勉強や仕事に処する際に、この「分けることはわかること」原理の効用を経験的に知っているし、時にその原則を生かしている。勉強や仕事でわからない時、一番良くないのは「どこの何がわからないのかが分からない」状態であり、一番駄目なのは「どこの何から手を付けてやっていけばよいかが分からない」といった全くのお手上げの状態である。そこで「分けることはわかること」原則に依拠して、勉強や仕事にて「現時点で自分かわかっていること・わかっていないこと」との区別をつけ、「分けること」から着手し始めてみる。その上で「わかっていること」は置いておいて、自身が今「わからないこと」を徹底的に集中的に明らかにし、その部分に傾注して理解を深め対策して「わかる」ようにする。すると全体の中での「わかっていなかったこと」が「わかったこと」に変化し結果、全体の中で「わかっていること」の部分が増え、「わかっていないこと」が減るので、全体において「わかること」の理解が進む。後はこの手続きを繰り返して、さらに「現時点で自分がわかっていること・わかっていないこと」との区別をつけ、また自身が今「わからないこと」を徹底的に集中的にあぶり出して、その部分に傾注して理解を深め対策して「わかる」ようにするようやればよいのである。これこそが、すなわち「分けることはわかること」の人間の学習の知恵であるのだ。

坂本賢三「『分ける』こと『わかる』こと」には、以上のようなことは直接に書かれてはいない。しかし、本書を読み「分けることはわかること」の原理を感得した読者であれば、このことは自力で考えてやがて思い至るし、また日常の勉強や仕事にて「分けることはわかること」原則を活用できる、もしくは既に実践しているものである。

本書では「『分ける』こと(は)『わかる』こと」の効用に関し一貫して述べられているが、最後に著者の坂本賢三は次のような「教訓」を三つ挙げて本論記述を結んでいる。

「教訓その一・分類は認識や行動のために人間がつくった枠組みであって、存在そのものの区別ではない。☆教訓その二・分類をつくる際には、必ず、『その他』や『雑』の項目をおいておくことが有用である。☆教訓その三・『わかる』とは、その分類体系がわかるということであり、『わかり合う』とは、相互に相手の分類の仕方がわかり合うことである」
 
以上の三つの「教訓」は至言である。「分けることはわかること」原則の適用に際し、注意すべき必須の事項である。(1)まず何よりも「分ける」分類は、人間主体が対象全体への認識・理解をなすためにいわば便宜的に引いた補助線、一時的で相対的な枠組みであるから、その「分ける」の分類は真理に裏打ちされた絶対的な存在のあり方そのものを決して正確に言い当てたものではない。

例えば近代哲学の出発点にいたデカルトの心身二元論にて、世界は精神と物質(人間の心と身体)の二元的構成から成り立っていると頑(かたく)なに信じられており、かのデカルト「方法序説」(1637年)を読むと当のデカルトは「世界は精神と物質から成り立つこと」の発見に高揚し、興奮気味に相当な前のめりで書いているけれども、近代哲学の創始の天才たるデカルトに対し、今日の凡人である私からポストモダン(脱近代)的言説に引き付け冷めた態度で言えば、デカルトは「精神と物質からなる世界の二元的構成の秘密をついに突き止めた」のでは決してない。ただ「精神と物質の二元論で分ける認識法にて世界を理解した瞬間から、世界はその始原よりあたかも精神と物質で昔から成立しているような存在機制の内に錯覚されているだけ」なのだ。やはり「分類は認識や行動のために人間がつくった枠組みであって、存在そのものの区別ではない」のである。

同様に(2)「分ける」の分類は人間主体が対象全体への認識・理解をなすために便宜的に引いた補助線、一時的で相対的な枠組みに過ぎないのであるから、人間主体にとっての対象世界は明確に線引きされて過不足なく分類され完全に整序されることは永遠にない。いくら「分ける」で分類しても、世界には曖昧(あいまい)で理解に困る境界部分が必ず生じる。そのことを常に事前に心得ておいて、まさに「分類をつくる際には、必ず、『その他』や『雑』の項目をおいておくことが有用である」。「分ける」の分類は、人間主体が対象全体への認識・理解をなすために便宜的に引いた補助線、一時的で相対的な枠組みに過ぎないのであるから、必ず「その他」や「例外」の分類しきれない曖昧な境界部分が残る。

(3)本書で主に述べられているのは、人間主体が自身を取り巻く世界や観察対象である物事・事柄に限って理解する「わかる」であって、「分けることはわかること」の原則は人間他者をわかることの理解・共感には適用できない。というのも相手の他者がわかるということは、「私」の立場から一方的に相手を「分けてわかる」の高踏的に分類し切り刻んだりすることでは決してない。他者の人間を「わかること」は相手との感応の相互の関係にて共にわかり合えることの関係性の構築にその本領はあるからだ。ゆえに「分けることはわかること」で、例えば「中華思想」にて、その認識方法に依拠して世界と他者とを「わかり」たくて自分(たち)を世界の中心にある優位の「中華」と位置づけ、自分(たち)以外の他者を周辺に位置する劣位の「蛮夷」として「分けてわかること」は、そのまま特定他者に対する抑圧差別につながる。

「『わかる』とは、その分類体系がわかるということであり、『わかり合う』とは、相互に相手の分類の仕方がわかり合うこと」、つまりは世界認識の分け方(思考)を相手と共有してわかり合うことであって、「分けることはわかること」を直接的にそのまま他者認識の人間理解にまで拡大延長し安易に適用してはいけない。

講談社学術新書の坂本賢三「『分ける』こと『わかる』こと」は、坂本の前著「機械の現象学」(1975年)の哲学叢書での考察論考を一般読者向けの新書用に内容を限定して易しく書き下ろしたものである。よって一部の読者には本新書の内容は初歩的で物足りないかもしれない。事実、講談社学術新書「『分ける』こと『わかる』こと」への書評や「アマゾン(amazon)」のレビュー評価にて、「単純初歩の内容でがっかりした」旨の酷評が時に寄せられることもあるようだ。そういう方には本新書で終わらせず、是非とも坂本賢三「機械の現象学」まで手に取り読んで頂きたい。坂本「機械の現象学」は、人間に対してある「機械」の統一テーマの下に古代ギリシア哲学から中世キリスト教、功利主義の近代哲学や近代の科学合理主義からマルクス主義、実存主義や現象学、さらにはポストモダンの身体論らを総合してキリスト教聖書中の箴言(しんげん)風の格言形式で周到に論じている。そのなかに「分けることはわかること」の本書でのモチーフも含まれている。「機械の現象学」は哲学者で技術史・科学史家の坂本賢三の代表作であり、揺るぎのない必読の名著だと私には思える。