アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(519)川名壮志「記者がひもとく『少年』事件史」

岩波新書の赤、川名壮志(かわな・そうじ)「記者がひもとく『少年』事件史」(2022年)の表紙カバー裏解説文は次のようになっている。

「白昼テロ犯・山口二矢、永山則夫、サカキバラ、…。殺人犯が少年だとわかるたびに、報道と世間は、実名か匿名か、社会の責任か個人の責任か、加害・被害の立場の間で揺れ、戦後から現在まで少年像は大きく変わった。二0歳から一八歳へ成人年齢が引き下げられる中、大人と少年の境の揺らぎが示す社会のひずみを見つめる」

「記者がひもとく『少年』事件史」の著者・川名壮志は本書執筆時、毎日新聞社の「記者」である。そのため、本書のタイトルは「記者がひもとく『少年』事件史」となっているわけである。現役の新聞記者が概説する戦後日本社会の少年事件史であり、全8章に渡り、戦後復興期から本書執筆時の2020年代までの、当時より社会的に注目を集め人々を騒がせた主要な「少年事件」(20歳未満の未成年者が主犯の殺人事件)を取り上げている。 

本新書の読み所のウリは、いわゆる「少年事件」の概要(犯行状況、刑事裁判の結果、事件発生の社会背景・時代傾向)に加えて、事件発生直後の第一報から後日の続報に至るまで、朝日、読売、毎日新聞の全国紙3社の見出しを必ず挙げている点である。その上で当時の日本社会で未成年者による殺人事件がどのように人々に報じられ、共有されていたかを分析している。この新聞報道に依拠している点において、本書はまさに「(新聞)記者がひもとく『少年』事件史」であるのだ。また本書のサブタイトルは「少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す」であった。

なるほど、戦後から今日までの主要な「少年事件」を新聞というメディアを通し概観することの利点は確かにある。著者は本論にて以下のように述べている。

「『少年』像が時代によって変容することを示す格好の資料、それが新聞紙面だ。デジタル時代とは違い、アナログな新聞紙は、紙幅に限りがある。政治や経済、社会で起きたニュースと比較しながら、必然的に少年事件の記事の扱いが決まる。特に記事の扱いをめぐっては、大人の事件よりも、少年事件の方が、より世相と結びついている。掲載されたページ、見出しの取り方、記事のボリューム。紙面でどう扱われたかをみることで、当時の世相の関心や、時代の息づかいをたどることができる。速報性のメディアである新聞も、長い歳月でたどると、鮮(あざ)やかに『歴史』を浮き彫りにすることができるのである。そして、こうして事件をたどってみると、朝日、読売、毎日とも、紙面での扱いには、大きな違いがないことがわかる」(「なぜ新聞?時代が変える少年事件」)

私はそこまで殺人事件一般や20歳未満の未成年者による犯罪事件に日頃から関心を持ち、特に調べているわけではない。しかし、本書で扱われている「少年事件」のことは不思議とだいたい知っていた。戦後の早いの時代に私はまだ生まれていないが、「戦後復興期・揺籃(ようらん)期の少年事件・少年事件は、実名で報道されていた!」の章で扱われている、例えば連続ピストル射殺事件(1968年、19歳の少年、永山則夫による連続殺人事件。1990年に死刑判決が確定。1997年に死刑執行)は、戦後史の中の重大事件の歴史のひとコマとして知っている。永山則夫による一連のピストル射殺事件は、極刑の死刑を下す際の後の判例根拠となる「永山基準」(日本の刑事裁判にて死刑を選択する際の量刑判断基準のこと。一般に殺人事件にて、被害者が1人なら無期懲役以下、3人以上なら死刑、2人ではボーダーラインとされる)を供する司法案件であり、「少年事件」であるか否かに関わりなく、戦後日本の司法の中で大変に大きな事件であった。

また光市母子殺人事件(1999年、18歳の少年による母子殺人事件。2012年に死刑判決が確定。現在は死刑囚として勾留中)は、被害者家族が実名・顔出しで会見を行い、その遺族の言動に対抗するかのように、加害側の少年も獄中からの手記や面会人との面談で自身の犯行を正当化したり、被害者遺族を挑発するような発言をなした極めて異様な事件だった。「遺族の絶望感情を回復させるために極刑の死刑を望む。被告が未成年であることで死刑が回避され、少年法による保護処分で後に加害少年が社会復帰を果たすなら、そのときは自分の手で殺す」旨の被害者遺族の過激発言で、本件を通し「社会経験少なく人格的に未熟な未成年者には刑罰と共に矯正更生も重視する少年法の精神の保持か、さもなくば遺族の無念と復讐感情に配慮し未成年者へ厳罰化の方向での少年法の改正(さらには未成年への配慮なしに成年と同様に責任を取らせるべく少年法の廃止)か!? 」の狭量な二者択一の、かなりいびつな社会議論がいつの間にか形成されていた。この頃から「少年事件」に対し、加害者である未成年者への酌量・矯正更生よりも、被害者と遺族の無念・復讐感情を満たす厳罰の方向へ大衆世論は大きく転回したのであった。この点を的確にとらえ表した、本書での光市母子殺人事件の「少年事件」を扱った章タイトル「少年事件史の転生・加害者の視点から被害者の視点へ」は秀逸である。

岩波新書「記者がひもとく『少年』事件史」の著者である川名壮志には、「謝るなら、いつでもおいで・佐世保小六女児同級生殺害事件」(2014年)という著作もある(2018年に新潮文庫に収録)。川名「謝るなら、いつでもおいで」は佐世保小6同級生殺人事件(2004年、11歳の少女が同級生少女を学校の教室で殺害。刑罰を科されない触法少年のため、児童自立支援施設に送致)を取材し、まとめたものである。被害女児の父親は新聞社支局長であり、新聞記者の著者・川名壮志の直属上司であるという。本書タイトルになっている「謝るなら、いつでもおいで」は事件を受けて後年、加害少女へ向けての被害者の兄の言葉である。佐世保小6同級生殺人事件は11歳の小学生女子が学校教室内で同級生女子を殺害するという、未成年の「少年」(20歳未満で14歳以上)ですらない、まだ「子供」(14歳未満)による殺害犯行であることに社会は衝撃を受けたのだった。少なくとも当時、リアルタイムで事件の全容を知って私は驚愕した。

川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」は読んで相当につらい内容だが、やはり同時代の同じ社会に生きる人間として一度は読んでおくべきだろう。殺人事件に関するルポで事件被害者の思いを述べた名著に、以前に新宿西口バス放火事件(1980年)の被害者の手記、杉原美津子「生きてみたい、もう一度」(1983年)があった。川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」は、杉原美津子「生きてみたい、もう一度」を思い起こさせる力作である。両書ともに殺人事件に巻き込まれた被害者と遺族が加害者に対し、そのままの直情的な憎悪の復讐感情や仇討ちの心情で処するべきではない、凶悪犯罪への理性的で社会的な向き合い方を、他ならぬ一番つらいはずの被害者当人、被害者家族が直に読む者に教えてくれる。未読な方は是非。