アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(257)大江健三郎「新しい文学のために」

岩波新書の歴史にて赤版から青版へ、青版から黄版へ、黄版から新赤版への各移行時に最初の第1回配本のシリアルナンバー1の歴代新書は、どれも力が入っている。岩波新書の赤、大江健三郎「新しい文学のために」(1988年)は新赤版のシリアルナンバー1、最初の配本にあたるものだ。ゆえに「新赤版・1」に該当の本新書に対する著者の大江健三郎の執筆の力の入れ様、ならびに岩波新書編集部による本書を新赤版として一番に配本した意向の力の入れ方、ともに無心に読まれるべきものがある。

大江健三郎「新しい文学のために」では、大江の文学の方法、小説執筆の原理的理論や実用的技術が惜しげもなく公開されている。読んでとてもためになる。ただし小説家志望の人が本新書を熟読して、ここに記載の原理や技術の文学の方法論を活用して創作すると、そのまま大江健三郎が書いた小説の大江文学になってしまうからなぁ(笑)。この大江の文学理論に、さらに加えたその人なりの独自性(オリジナリティ)がないとこれからの小説家志望の方が世に出るのは、なかなか難しいような気もする。

本新書を読むと、大江健三郎の過去作品の創作の仕組みがよく分かる。本書にての文学理論の説明を読んでいると、大江の過去作品にその手法が実に効果的に使われていることに思い当たって、「なるほど」の納得の心持ちがする。そうした意味で本新書は実に良くできた大江健三郎の過去作品の「鑑賞の手引き」、大江文学の「読解の手引き書」のようでもある。岩波新書「新しい文学のために」が出版された1988年は、大江の小説家キャリアからして、ちょうど「懐かしい年への手紙」(1987年)の長編を書き終えた直後であった。

本新書は全16章よりなる。その中で「異化」(3・4章)や「想像力」(6・7章)や「文学の世界のモデル」(8章)や「道化=トリックスター」(11章)や「神話的な女性像」(12・13章)や「カーニバルとグロテスク・リアリズム」(14章)ら、さまざまな文学理論の装置(システム)や技術(テクニック)が大江により提示され解説されているけれど、ここでは第3章と第4章にて触れられている「異化」についてのみ詳しく書いてみる。

岩波新書「新しい文学のために」での大江健三郎によれば、「基本的な手法としての『異化』」とは、およそ次のようなことだ。

「『異化』というのは、…どのようにして日常・実用の言葉から、文学表現の言葉へと転換が行われるかを示している」「ものを自動化の状態から引き出す異化の手法である。…知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法である」「それは自動化・反射化とはちがった仕方でものに対することであり、意識をものに集中する仕方で文章を読み進むことである」「まずそれは、言葉が知覚に意味を伝達するものとして、日常的に使われてきた、その過程でからみついたほこり・汚れを洗い流す、ということでなされる。…ありふれた、日常的な言葉の、汚れ・クタビレをいかに洗い流し、仕立てなおして、その言葉を、人間がいま発見したばかりででもあるかのように新しくすること。いかに見なれない、不思議なものとするか、ということだ。すなわちそれが、言葉を『異化』することである」(27─42ページ)

日常的に無自覚になされる人間知覚の「自動化作用や代数化とは違う形で」、時にあえて「知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式」まで取って物事を認識し文章にて表現することが「異化」である。物事を「自動化作用の薄暗がりから引き出し」て、「ありふれた、日常的な言葉の、汚れ・クタビレをいかに洗い流し、仕立てなおして、その言葉を、人間がいま発見したばかりででもあるかのように新しくすること」、そうした「異化」の手法を通して言葉に生き生きと働く力を与え蘇生させる。「イメージは生きている言語の生命を生きる。それが魂と精神を刷新する生ける抒情性の中でそれらのイメージを体験する」ことが、文学における「基本的な手法としての『異化』」である。

こうした「異化」作用についての大江健三郎の文学理論を読むにつけ、文芸批評にて昔からある「俗情との結託」の議論を私はいつも思い出す。「俗情との結託」とは文芸批評における評価概念のひとつで、もともとは戦後に軍隊小説「神聖喜劇」(1980年)を書いた大西巨人が言い出した文学用語であった。大西は、それまでの軍隊小説作中にて見られる戦前の典型的日本人男子像たる性的放蕩(ほうとう)を「日本男児の本懐」の美徳として暗に誇るような風潮を徹底批判した。「俗情との結託」は、もともとはそうした近代日本人の性的欲望を主とした欲望自然主義(欲望ナチュラリズム)を問題とする大西巨人の言葉であったが、それが大西の元を離れ文芸批評での否定的評価語として後に一般に広く使われるようになった。

すなわち「俗情との結託」とは、文学作品において「読み手の大衆におもねり、表現・内容ともにあまりにも俗っぽいこと。メロドラマ調で話の展開が読者本意で都合よく出来すぎていること」の意である。

「俗情との結託」の典型作として昔から定番でよく指摘されるものに三浦綾子「氷点」(1965年)がある。ここでは三浦の「氷点」のあらすじについて語らないが、三浦の「氷点」は読んで「あまりにも通俗的で俗っぽい。ありきたりなメロドラマ調であり、ラストの結末も現実にはありえないほどに好都合で読み手に迎合な安っぽい」展開結末なのである(笑)。「氷点」は朝日新聞の創刊記念の懸賞小説に作家キャリアのないキリスト者の三浦綾子が応募し当選して、ベストセラーとなり後に映画やテレビドラマにて何度も映像化され話題となった。「氷点」は確かに話として読んで面白い。本作が当時から多くの人に読まれ、何度となく繰り返し映像化され人気なのは納得の心持ちがする。だが、メロドラマ調の俗っぽさが強烈すぎて文学作品としては明らかに劣る。三浦の「氷点」をして「俗情との結託」という言葉は象徴的にあらしめられる。

日常的になされる、俗っぽい人間知覚の「自動化作用や代数化とは違う形で」、時にあえて「知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式」まで取って、物事を「自動化作用の薄暗がりから引き出し」「ありふれた、日常的な言葉の、汚れ・クタビレをいかに洗い流し、仕立てなおして、その言葉を、人間がいま発見したばかりででもあるかのように新しくすること」。文学における、そうした「基本的な手法としての『異化』」の大江健三郎の解説を読むにつけ、私はいつも文芸批評にての「俗情との結託」議論を思い起こす。大江のいう「異化」作用とは、「俗情との結託」の回避・克服と同義であると私には感ぜられる。
 
実のところ今日ほど、人々が活字の小説や映像の映画やテレビドラマやイラストの漫画、マスコミ報道やネット上のやり取りを通して、数多く激しく物語享受している時代はない。今の時代は文明史にて人間がみずから創作した物語に圧倒され溺(おぼ)れる、実は相当に異常な時代である。少なくとも私はそう思う。

だから、現代の人々はありきたりの物語劇化に汚染されて、事実、私の身の回りでも、いい年をした大人が何かどこかの小説ドラマからそのまま引用してきたような、非常に俗っぽい陳腐な決めゼリフを日常会話にて発したり、時に信じられないくらい薄っぺらで皮相な人生訓を人前で披露したりする。不幸にもそうした場面に出くわす度に私はウンザリして、絶対に口外はしないけれど、「あー俗情との結託」と内心ひそかに思ってしまう。そうした物語劇化に多くの人が汚染されている現代社会にて、大江「新しい文学のために」にて志向されているような正統な文学を読み、かつ文学理論を知ることは「俗情との結託」回避のための有効な一つの手立てになるのでは、という思いも私はする。

大江健三郎による「基本的な手法としての『異化』」は、後に引用するような、大江にとっての「かくあるべき文学理念」へ連なっていた。本書にて展開される「異化」の手法以外の、その他の文学理論、例えば「道化=トリックスター」も「カーニバルとグロテスク・リアリズム」も同様に大江が措定し志向するこの文学理念に悉(ことごと)く繋(つな)がっている。それは文学創作のみならず、「核時代の想像力」(1970年)など時事的な政治評論でも大江の思考を一貫して終始支え続けた「想像力」の働きに明確に裏打ちされていた。岩波新書の赤、大江健三郎「新しい文学のために」の中で著者の大江が語る以下のような「かくあるべき文学理念」記述は、絶対に読み逃してはいけない本書にての中心の箇所だ。

「読み進まれる言葉は、書き手のものでありながら、読み手のものでもある。印刷された一行一行が、読み手の想像力を舞台にして生きる間、書き手にとっても、自分の書きつけた言葉がはじめて生きるのである。…それはわれわれの生命において或る役割を果たし、われわれに活力を与える。それによって、言葉、声調、文学は創造的想像力の位置にまで高められる。新たなイメージのなかでみずからを表わすことによって、思想は言語を豊かにしながら、またみずからを豊かにする。存在が言葉になるのだ。言葉は存在の心象の頂上にあらわれる。言葉は人間的心象の直接の生成としてみずからを表わす。言葉が、世界そのものとなるのだ」(88・89ページ)

大江健三郎における「新しい文学」とは、創造的想像力を介して読み手に訴えかけ、新たなイメージ創出をなし、われわれの生命に活力を与えるものだ。既視感や通俗陳腐にあふれる日常世界の汚れやクタビレを文学の言葉により洗い流し、世界を刷新し新たに仕立て直す、その瞬間に文学の言葉が世界そのものとなるような「新しい文学」であったのだ。