アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(501)芹沢長介「日本旧石器時代」

岩波新書の黄、芹沢長介「日本旧石器時代」(1982年)に関連させて、日本の原始時代の考古学上からする時代区分論の概要を確認しておこう。

まず土器の使用別による文化的時代区分がある。縄文土器が使われた時代は「縄文文化」(約1万3000年前から前4世紀頃まで)、弥生土器が使われた時代は「弥生文化」(前4世紀頃から3世紀頃まで)である。縄文土器が使用されない縄文文化よりも前の時代は「無土器文化」、もしくは土器を有する縄文文化よりも先行しているので「先土器文化」の時代とする。この土器の種類と土器使用の有無以外にも、並行して使用石器の種類による時代区分もある。石器には「打製石器」(石を打ち砕いて作った石器)と「磨製石器」(表面をなめらかに研磨加工した石器)があり、打製石器(旧石器)のみを使用の時代は「旧石器時代」(約4万年前以降)、打製石器に加えて磨製石器(新石器)も使い始めた時代は「新石器時代」(約1万3000年前以降)とする。先の土器使用による文化的時代区分と石器使用によるそれとをすり合わせると、縄文文化は打製石器と磨製石器を共に使った時代なので新石器時代、弥生文化の時代には打製石器と磨製石器に加えて、青銅器と鉄器(金属器)も使われたため、弥生文化は「金石併用時代」である。そして縄文文化以前の無土器文化(先土器文化)の時代は、打製石器のみ使用の時代であるから旧石器時代となる。

これら土器と石器の道具使用による並列した二つの時代区分が日本の原始の時代を考えるに当たり非常に都合がよいのは、土器区分による縄文文化と弥生文化の時代がまずがあって、縄文以前の時代は無土器(先土器)文化の時代と一概に曖昧(あいまい)に設定せざるを得ない所で、もう一つの石器による時代区分があるので、その区分を導入して縄文文化は新石器時代だが、縄文以前の時代は旧石器時代と規定でき、さらに旧石器時代の中でも使用される石器に見られる加工形態の相違からより細かに区分けして、縄文以前の時代を旧石器時代の前期と中期と後期の三時代に新たに時代区分できるからである。

以上のことをまとめると、

無土器(先土器)文化=旧石器時代(打製石器のみ使用)、縄文文化=新石器時代(打製石器+磨製石器の使用)、弥生文化=金石併用時代(打製・磨製石器+青銅器と鉄器の使用)

となる。

ところで、戦後のある時期まで日本列島には縄文以前の旧石器時代(無土器・先土器文化の時代)に人類が居住していたことは証明されていなかった。戦前には縄文文化以前の日本列島にはまだ人類はいなかったと一般に考えられていた。縄文土器や縄文の時代のものと目される遺構と人骨はすでに発掘されていたが、縄文以前の時代のものに関しては何ら発掘の事例がなかったのである。縄文時代の前に日本列島での人類の居住が認められ日本にも旧石器時代が存在したことを証明するには、縄文以前の古い地層から人間が製作使用した石器、もしくは人間そのものである化石人骨が出土・発掘されればよいわけである。

そして遂に1946年に先土器時代に属する群馬の関東ローム層中から石器が発見され、縄文時代に先行した土器を伴わない旧石器時代の遺跡、岩宿遺跡と認定。縄文文化以前の日本列島での人類の居住と日本にも旧石器時代が存在したことが岩宿遺跡の発見により立証された。岩宿遺跡は社会的関心を広く集め、「岩宿、世紀の大発見」「岩宿の奇跡」として当時の社会に考古学の一大ブームを引き起こしたという。縄文以前の古い地層から石器が発見され、日本における旧石器時代の存在証明になった画期から一部では岩宿遺跡の発掘にちなんで日本の旧石器時代を「岩宿時代」と呼称するほどの熱狂ぶりであった。

この1946年の岩宿の発見の後、浜北人骨(1960年に静岡で発見。当初は旧石器時代の人骨とされていたが、現在では縄文人のものとされる)、山下人骨(1962年に沖縄で発見。年代の明らかなものとしては最古)ら、日本各地で旧石器時代のものと認められる化石人骨の発見が相次ぎ、ここに至って縄文文化以前の日本列島に人類が居住していたこと、日本にも縄文文化の時代に先行する旧石器時代が存在したことは疑いようのない揺るぎない歴史的事実となった。

以上のように、日本における旧石器時代存在の証明と日本の旧石器文化の実態解明の画期と端緒になった岩宿の発見であったが、岩宿遺跡の発掘調査に関しては考古学上の学術的話題の他にも、当時の日本の考古学会内部の人的関係の愛憎対立の泥沼もあった。

群馬のローム層中から石器を発見したのは相沢忠洋である。相沢は当時20歳、食料品の行商をしながら在野で考古学研究を行っていた。相沢が群馬県新田郡笠懸村で、これまで人類は生存していないと考えられていた関東ローム層の赤土層(後の岩宿遺跡)から石器(黒曜石製の尖頭器)を発見し、採集石器を当時、明治大学学部生であった芹沢長介に見せ相談した。この相談を受けて、芹沢は同明治大学教授の杉原荘介に連絡。後に杉原を隊長とする明治大学を中心とした発掘調査隊が組まれ、岩宿遺跡の本格的な発掘調査を実施。結果、縄文文化の時代に先行する旧石器時代の存在が確実となった。

ところが、当時この重大な発見に際して学界や報道で最初の発掘者である相沢忠洋の存在は黙殺されてしまう。明治大学編さんの発掘報告書でも、相沢は単なる「調査の斡旋者」とされ、代わりに岩宿での旧石器時代の発見は後の発掘調査を主導した明治大学教授の杉原荘介の功績とされた。大学組織に属さず在野で考古学研究を行っていた相沢の功績をねたんで、相沢に対し当初は考古学会や一部の郷土史家からの黙殺や心無い非難の攻撃もあったようである(後に相沢への不当な扱いは消え、日本に旧石器時代が存在したことを証明した考古学者として、今日では岩宿遺跡の名とともに相沢忠洋の功績は世の人に広く伝わっているが)。

この事態を受けて、相沢忠洋に杉原荘介を紹介した芹沢長介は杉原に抗議。杉原は芹沢より六歳年上(ちなみに相沢は芹沢より七歳年下)で当時、杉原荘介は明治大学教授、芹沢長介は同明治大学の学部生であったが、芹沢と杉原は激しく対立し、後に芹沢は母校の明治大学から東北大学に移籍した。この騒動には岩宿の発見当初から考古学会や様々な人が動いたとされ、後日の杉原荘介は黙して語らず、「いずれ語れる時が来るだろう」と述べるにとどまったという。

さて岩波新書の黄、芹沢長介「日本旧石器時代」である。本書は芹沢がこれまでに携わってきた、岩宿を始めとする日本各地の遺跡の発掘調査での体験談や学術報告を通して、考古学上の見地から「日本(の)旧石器時代」の概要をわかりやすく述べたものだ。ゆえに日本の旧石器時代について学び知りたい読者には大変に参考になり有益である。しかしながら、これまで書いてきたような、岩宿遺跡の発掘調査に際し考古学上の学術的話題以外での、当時の日本の考古学会内部の人的関係の泥沼、芹沢長介と杉原荘介の激しい対立の不和の内情をある程度知っている読者からすれば、本論にて芹沢が杉原のことをどのように書いているか、この点も強く関心を引く本新書の読み所となろう。少なくとも私は岩波新書「日本旧石器時代」を初読の際には、この点に期待しながら本書を手に取り読んだのだった。

岩宿の発見当時、大学組織に属さず在野の考古学者であったがゆえに、最初の発掘者である相沢忠洋の存在は黙殺され、代わりに岩宿での旧石器時代の発見は後に発掘調査を主導した明治大学教授の杉原荘介の功績とされてしまった件に関し、本書では芹沢による杉原に対する批判の強い言葉はなく、ただその事実関係を淡々と述べるのみである(「岩宿遺跡を掘る」14ページ)。こうした感情を抑えて客観記述に徹した杉原荘介への言及とは対照的に、相沢忠洋については多くの紙面を割(さ)いて大変に詳しく事細かに書かれている(「相沢忠洋という人」15─22ページ)。このような本論記述の相違の対照からも、著者の芹沢長介の杉原荘介に対する負の複雑感情は推(お)して知るべしである。

前述のように岩宿の発見時には、芹沢長介は明治大学の学部生で、杉原荘介は芹沢より六歳年上で明治大学教授であり、相沢忠洋は芹沢より七歳年下で食料品の行商をしながら在野で考古学研究を行っていた。岩波新書「日本旧石器時代」の本論中でも芹沢が相沢のことを「相沢青年」と呼んで書いているのが印象的だ。二人は考古学の学徒としてよく語り、時に寝食を共にして親しく交流した。相沢は芹沢から考古学上のアドバイスを受けるべく、たびたび群馬の桐生から東京までの約120キロの距離を汽車賃節約のために自転車で日帰り往復していたという(17・18ページ)。芹沢にとって年下の「相沢青年」は親密な弟分に感ぜられたに違いない。考古学上の学術的な話以外にも、芹沢長介と相沢忠洋の二人の考古学者の友情の信頼関係が知れる記述の部分があることが、私が岩波新書の芹沢長介「日本旧石器時代」を昔から好きな一つの理由でもある。

「昭和二四年、桐生で行商を営む考古学青年、相沢忠洋によって関東ローム層から採取された黒曜石の石片が、日本旧石器研究の重い扉を押し開いた。戦後最大の考古学的発見といわれる岩宿発掘を手がけていらい、一貫して旧石器を追求してきた著者が、波瀾(はらん)にみちた発掘調査の跡をたどりながら、遺物が語る旧石器時代の日本の姿を描く」(表紙カバー裏解説)