アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(500)ノーマン「忘れられた思想家 安藤昌益のこと」(その2)

カナダの有能な外交官であり、かつ優れた日本近代史の研究者であったハーバート・ノーマンの日本近代史研究の著作には、岩波文庫の「日本における近代国家の成立」(1947年、岩波文庫での再刊は1993年)、同岩波文庫の「クリオの顔・歴史随想集」(1956年、岩波文庫での再刊は1986年)、岩波新書の「忘れられた思想家・安藤昌益のこと」上下巻(1950年)らがある。ノーマン史学の優れた代表作といえば岩波文庫の「日本における近代国家の成立」になろうか。他方、岩波新書の「忘れられた思想家・安藤昌益のこと」は昔から読んで私には今ひとつな内容である。ノーマン「忘れられた思想家・安藤昌益のこと」は何度読んでも大して印象に残らず、私はじきに内容を忘れてしまう(笑)。岩波新書編集部もノーマンの著作を岩波新書から出すとして、「忘れられた思想家・安藤昌益のこと」とはツイていない。不運である。というのも岩波新書は書き下ろし新作のみで、以前に出された書籍の再刊は出来ないのであった。ノーマンの「日本における近代国家の成立」は確かに名著だと思うが、これは以前に出版されていたため、書き下ろし新作が原則の岩波新書からは出せないのである。

ノーマン「忘れられた思想家・安藤昌益のこと」にて扱われている江戸時代の思想家、安藤昌益については取り急ぎ以下のようにまとめられる。
 
「安藤昌益(1707?─62年)。江戸中期の医師、思想家。東北の八戸(はちのへ)で医者を開業。のちに大館(おおだて)に移る。医学・本草学・儒仏に通じ、『自然真営道』を著して農本主義の平等社会を主張した。『自然真営道』は全100巻。封建社会を厳しく批判し、階級社会に反対した昌益の著書。武士が年貢を収奪する社会を法世と批判し、万人直耕の自然世を理想とした」

ノーマンが安藤昌益のことを「忘れられた思想家」とするのは、安藤昌益は東北在住の医者で在野の思想家であり、昌益の著作「自然真営道」(1753年)が当時は刊行されず、江戸や大坂にまで伝わらずにまだ人々に広く知られていなかった(「忘れられた」)ため、安藤昌益の存在と彼の著作の内容が後に発掘され、やっと広く世に知られることとなった思想家・安藤昌益(以前は「忘れられた思想家」であった)の事情による。さらにはノーマンが「忘れられた思想家・安藤昌益のこと」を執筆した1950年代以後も、その都度「思想家・安藤昌益の再発見の再評価ブーム」が周期的に繰り返し来ているが、それには江戸時代の近世思想史研究をめぐる次のような背景の事情もあった。

徳川封建時代の思想史研究にて、儒者らによる上からの経世済民(「世を治めて民を救う」)の政治経済論にて、徳川時代の身分制社会そのものの封建制批判には決して至らず、目先の幕藩体制の政治的・財政的立て直しの議論に江戸時代の経世論が悉(ことごと)くとどまったこと。また下からの民衆の百姓一揆でも、一揆の決起に際して農民らの抵抗要求は過重な年貢賦課に対する減額減免に終始し、幕藩体制の身分制そのものを否定する反封建闘争には至らず、日本の近世江戸にて下からの自生的で主体的な市民革命へつながる動きは皆無であったこと(いわゆる「百姓一揆における敗北の質」の問題)。このように幕藩体制の身分制そのものを否定する反封建闘争の萌芽は皆無であったと指摘して問題にする考察が、徳川時代の思想史研究にて主流であった中で、封建社会全体を厳しく批判し、階級身分社会に反対して農本主義に基づく人間の平等社会を主張した安藤昌益は極めて例外的で稀(まれ)な思想家であったとする。

総じて徳川時代の身分社会そのものの封建制批判には決して至らず、目先の幕藩体制立て直しの議論に終始した儒者ら、江戸時代の経世論者たちに一括して否定的な厳しい評価が下される中で、徳川封建社会の階級身分制をトータルに批判できた異質で例外的な安藤昌益は、ともすれば従来は見落とされがちであった「忘れられた思想家」として今日積極的に広められ、逆に高く評価されるべきであるという。これは近世江戸の思想史研究にて、安藤昌益のような反封建闘争の正当な思想的営みの事例もあったという指摘よりする、従来の日本近世思想史に対する異論の反論である。こうした事情の背景も、岩波新書のノーマン「忘れられた思想家・安藤昌益のこと」に加味して各自が読み解くべきであろう。

このように安藤昌益が封建社会全体の身分制を厳しく批判し、階級社会に反対して農本主義に基づく人間の平等社会の主張を同時代人の儒者たち知識人の中で、例外的に展開できたのは、

(1)安藤昌益が開業医の町医者であり、医学の心得と知識があったため、医学論的な素朴認識の人間理解から(「どんなに高貴とされる家柄出自の人でも、普通の人と体の作りは皆同じ」と断ずるような素朴な人間平等観)、身分差に惑わされずに人間の同質・平等を直感的かつ理論的に看破できたこと。(2)東北在住の安藤昌益は町医者の市井(しせい)の町人として生きたため、武士に過酷に年貢徴収され収奪される農民と町人らの厳しい日常を身をもって知っており、また東北地方で当時、頻発した飢饉の混乱に出くわし昌益自身が飢饉下の民衆の悲劇を直に凝視して、武家支配による封建身分制社会に対する義憤(ぎふん)の正当な怒りを有していたこと。(3)安藤昌益は若い頃、京都に上り仏門に入って禅を学んだ修行経験があることから仏教と儒教の学問的心得があり、そのため特に朱子学を主とする儒教の封建教学学問の身分制維持のイデオロギー的欺瞞(ぎまん)を透徹して批判できたこと。

主にこれらの点が従来の安藤昌益研究にて、昌益その人の再発見と再評価の過程で広くよく指摘される所である。これらのことはノーマン「忘れられた思想家・安藤昌益のこと」を始めとする、その他の安藤昌益関連の書籍で各自確認されたい。