カナダの有能な外交官であり、かつ優れた日本近代史の研究者であったハーバート・ノーマンが好きだ。私は昔からノーマンの日本史研究の著作を愛読している。ノーマンその人については、
「エドガートン・ハーバート・ノーマン(1909─57年)はカナダの外交官、日本史の歴史学者。日本生まれ。ソ連のスパイの疑いをかけられ自殺した。
在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として現在の長野県軽井沢町で生まれる。父ダニエルは1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽力した。ノーマンは、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学し、歴史学を専攻。軽井沢の教会を通じて両親同士が知り合いだった米国駐日大使であったライシャワーのもとで日本史を研究。大学卒業後にカナダ外務省に入省。1940年には東京の公使館へ語学官として赴任。日本近代史の研究を深めるとともに明治維新史を学ぶ。しかし1941年、日本とカナダ間で開戦したため帰国。第二次世界大戦後の1945年、アメリカからの要請によりカナダ外務省からGHQに対敵諜報部調査分析課長として出向し、戦犯容疑者調査を担当して、近衛文麿と木戸幸一をA級戦犯に指名するなど起訴するための『戦争責任に関する覚書』を提出した。連合国軍占領下の日本の『民主化計画』に携わるかたわら、学者としても安藤昌益の思想の再評価につとめた。
1951年にはサンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員を務め、カナダ外務省本省に戻る。その後、第二次大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。そのようなアメリカの圧力から逃れさせるべく、カナダ外務省はノーマンを1953年に駐ニュージーランド高等弁務官に任命し、1956年には駐エジプト大使兼レバノン公使に栄転。同年に起きたスエズ動乱では、現地の平和維持と監視のための国際連合緊急軍導入に功績を残し高い評価を得た。しかし、アメリカ合衆国上院における審問によって『共産主義者』との疑いを再度かけられ、1957年4月4日に赴任先のカイロで飛び降り自殺を遂げた。享年47.。
ノーマンは学生時代に共産主義に傾倒していた時期もあり、学者としても左寄りの論調を主張した事実はあった。だが、ノーマンが共産党員ないしは共産国のスパイであった確固たる証拠は見つかっていない。カナダ政府は生前からノーマンのスパイ説を否定し続けており、カナダ外務省はノーマンの功績を称えて2001年に東京にある在日カナダ大使館の図書館をE・H・ノーマン図書館と命名した」
ノーマンは、「第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。…FBI捜査官によるアメリカ合衆国上院における審問によって『共産主義者』との疑いを再度かけられ、赴任先のカイロで飛び降り自殺を遂げた.」。ノーマンの共産主義者疑惑に関しては近年、「ノーマン・ファイル」なるイギリス国立公文書館が所蔵する当時の極秘スパイ摘発調査にて、「ノーマンが1935年にイギリス共産党に深く関係していたことは疑いようがない」報告の秘密文書が公開されている(2014年)。ノーマンは確かに左寄りの発言記述にて右派・保守や当時の帝国主義者に批判的でマルクス主義的な左派の思想にある種の共感を有していたであろうが、しかしノーマンが共産党と直接に関係を持ち、そのままノーマンが共産主義者であったというのは相当に疑わしいと私は思う。
公刊されている近代日本史研究のノーマンの著作を読めば即座に分かるが、ノーマンの歴史研究はマルクス主義の唯物史観の歴史観でも、唯物史観の方法論を直に採用するような歴史研究手法でも決してなかった。ノーマン史学の優れた代表作とされる「日本における近代国家の成立」(1940年)にて、江戸時代の徳川封建社会について、また維新後に成立した明治国家に対しても、従来型のマルクス主義者が熱心にやるような日本資本主義論争(共産主義者内での講座派と労農派の論争対立で、明治維新を経て成立した近代天皇制に対する絶対主義か専制的なブルジョア体制かの理論的位置付けの論争)を慎重に避けているノーマンの姿勢が読み取れる。
共産主義者が、「市民的自由が確立しておらず、多数の民衆が抑圧され疎外されていた封建制社会」として、江戸時代の徳川社会を痛烈批判するのとは異なり、「日本における近代国家の成立」にて主に展開された、徳川封建社会の問題性と時代の妥当性との両側面を複眼的に評価しながら、「歴史の趨勢(すうせい)にて、資本主義的発展を遂げず人々に市民的自由が確保されない前近代の徳川封建社会が存在したことは何ら否定されるものではない。ただ日本の歴史において徳川封建社会の時代があまりにも長すぎたのだ。しかもその長きに渡る徳川封建制の崩壊は、国内からの自生的で主体的な反封建闘争たる市民革命によらずに、幕末の諸外国よりの開国要求という他律的な外圧を通じてやっとなされた」旨のノーマンの指摘・考察は非常に優れている。唯物史観の公式的な歴史理解に停滞したマルクス主義者によるそれとは、ノーマンの明治維新史研究は明白に異なる。「日本における近代国家の成立」を始めとするノーマンの幕末から維新期までを取り扱った日本近代史研究は、共産主義者による研究よりも格段に優れている。私はノーマン「日本における近代国家の成立」を20代の昔に初読の際にはそれなりに感心して、歴史事象の複眼的な評価のあり方らノーマン史学から大いに学ぶ所があった。
加えて、日本に生まれカナダと日本とを往来し、何度も来日を果たしていたノーマンであったが、その都度、ノーマンが親密に交友していた日本の知識人は鶴見俊輔、丸山眞男、桑原武夫、加藤周一らであった。彼らは戦後の日本で左派リベラルの立ち位置にあり、右派・保守や天皇制支持の国家主体義者に批判的であったけれど、他方で日本共産党とマルクス主義(スターリニズムなど)にも相当に批判的で、右派保守とマルクス主義とを同時に問題にする戦後民主主義、近代主義の独自の立場にあった。そのような人達と交友の知己を深めたノーマンであったのだ。ゆえにノーマンが共産党シンパの共産主義者であったというのはにわかに認めがたい。
私がノーマンの歴史研究やエッセイ(歴史随想)の著述を読んで常に感じていたのは、ノーマンが左寄りの発言記述にて右派・保守や当時の帝国主義者に批判的であるのは、彼がマルクス主義に傾倒し心酔していたからでなく、在日カナダ人宣教師の家に生まれた出自の環境から人間の自由と平等、個人の権利保障と社会の進歩についての人道規範的(ヒューマニズム)な普遍志向(思考)が強く、そのキリスト教的素養に由来しているのでは、ということであった。ノーマンは熱烈な共産主義者であるよりは穏健なキリスト者だと終始、私には強く思えた。
ハーバート・ノーマンはカナダの外交官であり日本史の歴史学者で、ソ連のスパイの疑いをかけられ、赴任先のカイロで飛び降り自殺した。享年47である。第二次大戦後の米ソ対立の冷戦時代に、いわゆる赤狩り(マッカーシズム)旋風にて敵対するソ連東側陣営に付く国内の共産党員およびそのシンパ(同調者、支持者)をアメリカ政府がスパイ容疑で次々に公職追放に処した。そうした赤狩り旋風の社会的混乱の中で、精神的に追い詰められ自殺した人も多い。しかし、ノーマンに関し単に赤狩りの混乱の中で事実、彼が共産党支持のマルクス主義者であったから追い込まれて自ら死を選んだという理解は、あまりにも皮相的すぎる見方である。
第二次大戦後の米ソの冷戦時代下にて、当時からカナダは一応はアメリカ側の西側陣営に属していたが、積極的にアメリカに与(くみ)しない、当然ソ連側にも味方しない、第三極の国連中心主義の立場を貫いていた。そうした戦後外交でのカナダの独自の立ち振る舞いに、アメリカはソ連の東側共産陣営のみならず、西側主要国のカナダに対しても一時期、齟齬(そご)で敵対の厳しい態度で臨んでいた。そういったアメリカとカナダの緊張対立にて、スエズ動乱でアメリカとイギリスの単独軍事介入の意向に反し、平和維持と監視のために現地への国連軍の導入に尽力したカナダ外交官のノーマンに対する個人攻撃は、ノーマンが本当に共産主義者であるかどうかに関わりなく、カナダ政府およびカナダ外務省の独自の国連中心主義の外交活動に釘をさして牽制(けんせい)する格好の非難材料であった。だから、大戦後の冷戦下の国際政治にてアメリカはカナダの、その中でも一人の外交官でしかないノーマンの共産党員疑惑の個人追及キャンペーンを執拗に行い、カナダ政府に圧力をかけていく。そうしたアメリカとカナダの国同士の敵対の中でハーバート・ノーマン個人が標的で犠牲となり、彼は自ら命を断つ結末であったというのが冷戦下での戦後世界の国際外交全体に広く配視した妥当な見方であろう。
大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で、カナダ外交への非難から転じて、やがてはいち外交官でしかないノーマンその人に対する共産主義者の疑いの個人攻撃の追及キャンペーンを執拗にしかけられ、そのようなアメリカの糾弾圧力から逃れさせるべく、カナダ外務省はノーマンを駐ニュージーランド高等弁務官に任命して一度は国際外交の第一線の表舞台から降ろさせる。しかしながら、後にノーマンは駐エジプト大使兼レバノン公使に任命され国際外交の第一線に復帰し引き戻され、スエズ動乱にて遺憾なくその外交手腕を発揮して、ノーマンはアメリカによる共産党員疑惑の個人追及キャンペーン攻撃の矢面(やおもて)にまたまた立たされてしまう。そして、ハーバート・ノーマンは赴任先のカイロで自殺した。
ノーマンの日本近代史研究と歴史随想のエッセイ類を読むたびに、「この人は共産党シンパの熱烈なマルクス主義者であるよりは穏健でリベラルなキリスト者素養で、もともとは普遍の真理を志向する地道で真面目な学者気質の人だ。相手との交渉にて清濁併せ呑み、時に汚いこともやって他人を出し抜く海千山千の国際政治の外交官には向かない人だ」といつも私は思っていた。国際外交の過酷な駆け引き騙(だま)し合いの第一線の政治舞台にいるよりは、ノーマンには早くに外交官を引退してカナダで大学教授か国立図書館の館長の職などに就(つ)いて、日本近代史研究を静かにやり長く生きて生涯を全うしてほしかったと思う。「当人の性格資質に合わない職業を選択し無理をすると、だいたいその人は早世して不幸になる」の人生教訓の真理を、ハーバート・ノーマンの著述と生涯から私はつくづく感じる次第である。