アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(415)都出比呂志「古代国家はいつ成立したか」

岩波新書の赤、都出比呂志「古代国家はいつ成立したか」(2011年)は時折、定期的に読み返してみて「専門の研究者による一般読者へ向けての日本古代史研究に関する非常にサーヴィス精神に満ちた親切な語り下ろしの読み物」といった好感の思いが毎度、私はする。

「⽇本列島に『国家』はいつ成⽴したのか。それを解き明かす⼀つの鍵が考古学の成果にある。集落の構造、住居間の格差、富を蓄えた倉庫の様⼦など、社会構造の変遷を追っていったとき、邪⾺台国は国家なのか、倭の五王の頃はどうか、あるいは七世紀以降の律令体制を待つのか…。諸外国の集落との⽐較も交え、わかりやすく語る」(表紙カバー裏解説)

本新書は、本書執筆時点での最新研究成果を踏まえ、日本の考古学、特に中国・朝鮮と日本との比較考古学専攻の著者が、日本の原始・古代の歴史を「です・ます」調の口語体で優しく丁寧に解説するものである。しかも本書の目次を見れば明確だが、その語りの内容は弥生文化の成立から卑弥呼と邪馬台国、倭の五王の時代、古墳文化の始まりと終焉、律令国家への始動と完成まで原始・古代の日本の歴史を時系列で欠落なくバランス良く語り尽くす誠に周到な隙(すき)のない古代史概観となっている。すなわち、岩波新書「古代国家はいつ成立したか」は以下の全6章よりなる。

「第一章・弥生社会をどう見るか、第二章・卑弥呼とその時代、第三章・巨大古墳の時代へ、第四章・権力の高まりと古墳の終焉、第五章・律令国家の完成へ、第六章・日本列島に国家はいつ成立したか」

本書を読めば、日本の原始・古代の時代に関してのトータルな歴史の全体イメージを初学の者であっても、それなりに自分の中に形成して読後に有することが出来る。そうした意味で、繰り返しになるが、岩波新書「古代国家はいつ成立したか」は時折、定期的に読み返して「専門の研究者による一般読者へ向けての日本古代史研究に関する非常に親切なサーヴィス精神に満ちた語り下ろしの読み物」といった好感の思いが毎度、私の中でこみ上げる。

日本の原始・古代史には、いまだ分からないことが多い。それら史実を類推して理論を打ち立てるには、一般に文献学からのアプローチと考古学からのそれの2つがあるとされる。前者の文献学からのアプローチでは、当時の同時代の中国の史書や、後の時代の日本の歴史書を読み解くことで史実に接近する方法である。後者の考古学からのアプローチは、遺跡や遺構や遺物(建築物・集落跡、石器・土器、古墳・副葬品や工芸品など)を発掘調査し、時には科学的分析を施し日本の原始・古代の実態を明らかにしようとする。

「古代国家はいつ成立したか」の著者である都出比呂志は、本書の奥付(おくづけ)を見ると「専攻は考古学・比較考古学」とあり、氏が本書以前に出した同じ岩波新書に「王陵の考古学」(2000年)というのもあった。この人は考古学専攻の人であり、そのため本新書には文献の読み解きによる解説もあるが、やはり考古学からのアプローチの成果に依拠した著者による日本の原始・古代の歴史解説が、より詳細で面白い。この点でいえば、例えば本書における弥生時代の三角縁神獣鏡の出土分布と製作地由来の話(70─82ページ)、日本の前方後円墳と朝鮮半島のそれとの異同と伝播と影響の、著者の専門である比較考古学からの考察記述(102─104ページ、132─137ページ)の箇所は特に注目の読み所といえる。

最後に、本書の難点をあえて指摘しておこう。

本新書のタイトルに引きつけ「古代国家はいつ成立したか」について、著者は「従来、日本で最初の古代国家は七世紀から八世紀に誕生した律令国家であるとされてきた」ことに同意しつつ、さらにその古代国家の始まりの起点の時期に関し、「初期国家」という概念をかませて以下のように述べる。

「七─八世紀に成立した律令国家を古代国家と捉えるのは問題ありません。しかし古代国家の始まりをいつからと捉えたらよいでしょうか。律令国家に至るまでの国家形成過程に意味を与え、国家の性格を決定する時代を正当に評価することが重要です。そこで私は、律令国家以前の古墳時代を初期国家と呼び、律令国家を成熟国家と呼ぼうと提案しました 」(「第六章・日本列島に国家はいつ成立したか」170ページ)

「日本に古代国家はいつ成立したか」の問題について、七世紀から八世紀に成立した律令国家を古代国家とすることに異論はないが、より厳密に言って、その日本の古代国家たる律令国家の前身の原型となる「初期国家」というものがまずあって、それは古墳時代に成立し、さらに古墳時代といっても前期の三世紀から後期の五世紀以降まで広い世紀の幅がある中で、著者はその「初期国家」の成立は古墳時代の初期の三世紀と結論づけている(「初期国家は三世紀から」175・176ページ)。その上で、日本における古代国家の原型である三世紀の古墳時代初期に成立した「初期国家」に対照させる形で、七世紀から八世紀に成立した日本の律令国家を「成熟国家」と呼ぼうと著者は提唱するのであった。

日本の古代国家である七世紀から八世紀に成立した律令国家を「成熟国家」と呼称する著者による提案は極めて不適切であり、政治学全般や日本古代史の全体像を何ら踏まえてない、著者による失策記述以外の何物でもない。

本書にて、日本における古代国家の原型である三世紀の古墳時代初期に成立したとされる「初期国家」の概念は、文化人類学者のクラッセンが定義し提唱した国家論の概念であり、本書でも紹介されている。「初期国家」には「階級社会を基礎とし、恒常的余剰をもち、血縁ではなく地縁原理が支配的で、中央政府があり、支配の正当性を支える共同イデオロギーをもつ」などの各指標が挙げられている(169ページ)。この「初期国家」の概念定義や呼称は、文化人類学の成果に支えられた国家論からの概念呼称として適切である。しかし、日本古代の律令国家を「成熟国家」とするというのは著者による独自の造語であり、勝手な提案でしかない。

そもそも政治学において国家(政治権力)とは不条理な階級対立や分業的支配を含む人間集団の機構組織や政治体制であるから、それに「成熟」といった語を置くのは適切ではない。「成熟国家」といった「成熟した」国家(政治権力)など、古代の王朝国家から中世の封建国家、近代の絶対主義国家や国民国家、現代の民主主義国家に至るまで、どの地域でもそんなものは一度も歴史上に存在しなかった。これは国家に「尊厳」や「品格」といった言葉を継いで「国家の尊厳」や「国家の品格」などと述べる最近流行の奇妙な用語法の滑稽(こっけい)さを思い起こさせる。人間個人には成熟も尊厳も品格もあるが、不条理な階級対立や分業的支配を含む人間集団の政治体制である国家の政治権力には「成熟」や「尊厳」や「品格」など、ない。

加えて、日本古代史の全体像を知り、古代史における日本型「律令」国家の崩壊過程まで広く知る人なら、古代日本の律令国家を「成熟国家」と呼ぶのは明らかにおかしいと気付くはずだ。

四世紀の日本国土統一のヤマト王権から、七─八世紀の律令国家への移行は、大王を頂点として有力豪族による家産的特権の持ち回りによる私的な連合国家(王権国家)から、律令という法令により公的に運営される天皇を中心とする中央集権的な公的国家(律令国家)へのそれであった。何よりも従来のヤマト王権では、後の天皇となる大王は「私地私民」の慣例にて、豪族の家産である私地(田荘)や私有民(部曲)を直接支配できず、また中央政治も氏姓制度という、有力豪族による氏の既得特権的な家産持ち回りの私的政治であった(例えば、財政は大臣の蘇我氏、軍事は大連の物部氏が伝統的に担当するなど)。そのため、当時の先進国であった中国の隋や唐の律令制度に倣(なら)って、日本でも律令の法令に基づき、天皇が中間の豪族を排して全国の土地と人民とを直接に支配する「公地公民」の原則にて、中央政治も有力豪族の家産的特権の持ち回りではなくて個人の能力位階に依拠した厳格な官僚登用制度に基づく公的な律令国家の構築を志向したのである。

そのような律令の法令にて「公地公民」の原則や厳格な官僚登用制度の理念に基づく天皇中心の中央集権国家たる公的な律令国家は、大化改新(別名・乙巳の変、645年)より、それへ向けての政治改革が本格的に始まる。しかし、このときの大化改新で天皇は中臣氏の助けを借りて改革断行しており、その成立当初から天皇権力が万全ではなかったため、後の日本型「律令」国家は天皇親政の天皇による中央集権体制が取れず、殊に大化改新での功臣であった中臣氏(後の藤原氏)を抑えきれずに、藤原氏を始めとする従来のヤマト王権下の有力豪族が律令体制下には公的官僚たる「貴族」と名を変えただけで、官人の「貴族」でありながら、これまで同様、有力貴族による私的な家産体制の持ち回り政治に終始してしまう。

事実、大化改新後の改新の詔(646年)にて「公地公民」の原則が打ち出され、全国の土地と人民は天皇による公的な直接支配に名目的にはなったが、実質は藤原氏を始めとする有力貴族には私有地(位田や職田)が認められていたし、彼らは従来と変わらず私有民も有していた。こうした貴族の私的な経済的特権に加えて、蔭位の制(上級貴族であれば、父祖の位階に応じて高官に就くことができる制度)の縁故の身分的特権もあり、日本古代の「律令」国家では、中国の隋や唐での科挙制度のような厳格な公的選抜による官僚登用制度は一度も実施されたことはなかったのである。そうして大宝律令(701年)を制定してから、わずか20年余後に三世一身法(723年)、それからさらに20年後に墾田永年私財法(743年)が出て私有地である荘園の所有が公的に認められ、「公地公民」の理念は早くも放棄せられて、公的理念の日本古代の律令国家は、もろくも瓦解してしまう。後の日本古代史の奈良・平安時代は、天皇中心の中央集権体制たる日本型「律令」国家が徐々に崩壊の度を深めていく過程であり、天皇が藤原氏を始めとする有力貴族や僧侶に政治の実権を握られ、律令に基づく公的国家の理念とは程遠い、各貴族らによる他氏排斥の特権利益享受の私的な家産政治の実態であった。

古代の日本型「律令」国家は、中国の隋や唐の皇帝が支配する中央集権的な公的国家のそれとは程遠く、当時の先進国であった中国の隋や唐の律令制度を模倣したものの、完全劣化の未成熟な私的ミニチュア版「律令」国家らしきものであり、到底「成熟した律令国家」などとは呼べないものだったのである。

こうしたことは日本古代史を学んだ者なら普通に知っている。以上のような後の時代まで日本古代史の全体像を知り、古代史における日本型「律令」国家の崩壊過程まで広く知る人ならば、日本における古代国家の原型である三世紀の古墳時代初期に成立した「初期国家」に対照させる形で、七世紀から八世紀に成立した日本の律令国家を「成熟国家」と呼ぶのは明らかにおかしい失策記述と気付くはずだ。もはや繰り返すまでもなく、そもそもの七世紀から八世紀に成立した日本型の「律令」国家の内実が、律令の法令にて「公地公民」原則や厳格な官僚登用制度の理念に基づく天皇中心の中央集権国家たる公的な律令国家では全くなく、当時の先進国であった中国の隋や唐の律令制度を模倣したものの、完全劣化の未成熟な私的ミニチュア版「律令」国家らしきもの、到底「成熟した律令国家」とは呼べないものであったからだ。

七世紀から八世紀に成立した日本の律令国家に対し、あえて呼ぶなら「成熟国家」ではなくて「公的国家」としておくくらいが適切である(だが既述の通り、日本型「律令」国家は公的な国家を志向しながらも、実質は「公的」国家と称されるものでは決してなかったのであるが)。

岩波新書の赤「古代国家はいつ成立したか」は時折、定期的に読み返してみて「専門の研究者による一般読者へ向けての日本古代史研究に関する非常に親切なサーヴィス精神に満ちた語り下ろしの読み物」といった好感の思いが毎度する。しかし他方で、著者の都出比呂志は日本の原始・古代史が専門の考古学専攻の人で、自身が専攻の考古学、特に比較考古学の知識は広く深くあり、読んでそこから学ぶべきことは多いが、この人は自身の専門外の政治学全般や日本古代史の全体像をあまり知らないのでは、の残念な思いも正直、残る。