アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(344)山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」

2020年は、社会科学者であるマックス・ヴェーバー(1864─1920年)の没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が多く刊行されている。

マックス・ヴェーバーの何よりの学問的業績は「近代」の定義にある。西洋の「近代」を他から区別する根本原理は「合理性」にあり、その合理性生成の系譜は「現世の呪術からの解放」であって、それはヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)にての、キリスト教カルヴァン派の「プロテスタンティズムの倫理」たる世俗内禁欲と生活合理化が、当時勃興期の近代資本主義のブルジョアジー(新興の中産階級市民)の勤勉労働と貯蓄と投資を通しての利殖を追求する「資本主義の精神」に、キリスト者当人らの主観的意図や目的意識とは全くの別の次元の別の所で、当人たちの思惑をはるかに越えた所で期せずしてつながっているとするヴェーバーの考察指摘である。

このキリスト者の信仰の宗教意識に基づくエートス(ある時代のある共同体に共有されている精神的雰囲気、心的・倫理的態度のこと)の精神的なものから「資本主義の精神」の生成を説いていくヴェーバーの立ち位置は、「存在が意識を規定する」とする現実社会の物質的な生産力の増大や確立された生産様式が最初にあって、その変容を伴って人間の階級意識の精神的なものが後に形成されてくるとするマルクスの唯物史観と真っ向から対立する。いうなれば「資本主義の精神」の生成に関し、経済的な物質的生産様式から説明づけるマルクスにおいては、人間の思想形成は「物質→精神」であるが、他方、同様に「資本主義の精神」の生成についてキリスト者のプロテスタンティズムの宗教意識から説明づけるヴェーバーにて、人間の思想形成は「精神→精神」なのであった。ここに「ヴェーバーとマルクス」をセットにし、かつ両者を対立的に論じる昔からの社会科学にての伝統議論人気の所以(ゆえん)がある。

思えばマックス・ヴェーバーという人は、プロテスタンティズムや古代ユダヤ教や儒教ら、人間行為の動機付けたる倫理・道徳に強い関心のこだわりを見せて、その精神的なものに思想形成の由来を一貫して求める人であった。

マックス・ヴェーバーが現代の社会科学に寄与した「近代」の成立とその定義に関する考察理論の学問的業績は実に偉大だ。「近代とは何か」を知りたい者は、まず何よりもヴェーバーを読むべきだ。私達は今まさに「近代」という時代の実に苛烈な資本主義の中にいて、「資本主義の精神」たる合理性や効率性や利潤の追求があまりにも当たり前で自然なことで、人間として誰もが志向すべき好ましい精神的美徳のように思い込んでいるけれども、例えば今日では多くの日本人があらゆる分野にて目指したがり、日々そのために奔走している「最小限の労力にて最大限の成果を上げるような、効率性に基づく果てしのない利益の獲得と利殖の追求」など、これは「近代」という特定の時代とその浸透地域に限られた極めて特殊で例外的な精神であって必ずしも自明で、いついかなる時代の地域の人々にも当てはまる普遍的な倫理では決してない。「近代」以前の前近代の時代や「近代」以降の脱近代(ポストモダン)潮流にて、かつ西洋の「近代」が席巻する以外の非ヨーロッパ地域において、そのような「近代」のせわしない合理性や効率性や利潤の追求以外の、例えば「真善美の文化的価値を追究して慈(いつく)しみ、じっくりと深く味わう」ような、「近代」の消費文化に抗する全く別の倫理価値の意識も存在するはずだ。マックス・ヴェーバーによる「近代」の成立とその定義に関する考察理論は、そうした西洋の「近代」が実は極めて特殊例外的な、ある時代のある地域の人々にのみ自明視され「普遍的」と未だに信じられている欺瞞を暴いて結果、ヨーロッパ「近代」の相対化を現代の私達に促してくれる。そこがヴェーバーの「近代」論の非常に優れた学問的業績のうちの一つである。

マックス・ヴェーバーの社会科学は、西洋における「近代」成立と定義、さらにその「近代」の問題をあぶり出し批判して、ヨーロッパの「近代」を乗り越える脱近代(ポストモダン)への問題意識の射程をも有するものであった。

ところで、私達はヴェーバーの著作やヴェーバー研究を日々よく目にするが、実は海外では日本ほどマックス・ヴェーバーは人々に広く深く読まれているわけではない。とりあえず、諸外国と比べての「日本人のヴェーバー好き」「日本におけるヴェーバー人気の高さ」は認めざるをえない。それは先の第二次世界大戦の戦時の総力戦体制の時代から、敗戦を迎えての「戦後民主主義」の時代、そして現代思想のポストモダン潮流の現在に至るまで特に日本人はヴェーバーを介して「そもそも近代とは何か」「どうすれば近代化を達成できるのか」「近代の問題は何であり、近代の超克はいかになされるべきか」を考え続けてきたことによる。それは非ヨーロッパの日本が西洋の「近代」にコンプレックス(劣等感)を持ち、いつの時代でも「近代」について日本人が一貫して考えてきたからに他ならない。日本でのヴェーバー人気のヴェーバー研究の並々ならぬ蓄積と成果の獲れ高は、このことに由来している。

そうした日本におけるマックス・ヴェーバー研究にて、経済史学者の大塚久雄(1907─96年)の存在は外せない。もちろん、大塚久雄のヴェーバー研究のヴェーバー理解に少なからずの問題があることを私達は知っている。だが、着目すべきは大塚が戦中から戦後にかけて、いつの時代でも連続して律儀にヴェーバーに言及していることであって、その時々の大塚久雄のヴェーバーに関する言説から日本でのヴェーバー研究の時代推移の全体像はおおよそ把握できるのである。すなわち、非ヨーロッパの日本がマックス・ヴェーバーからヨーロッパの「近代」を意欲的に学び取る姿勢は絶えず一貫して保持したままで、

(1)戦前─戦時動員の文脈にて、主体的に戦時の総力戦体制を担って国家への能動的献身をなし、最高度の自発性を発揮するような「近代」的な人間主体の模範を、勤勉で積極的活動性を有するヴェーバーを介した西洋「近代」に求める。(2)戦後─民主化を進める戦後啓蒙の文脈にて、戦前の「前近代」的な天皇制国家の神権性・非合理性を反省し批判して乗り越えるような「戦後民主主義」に見合った「近代」的な人間主体の模範を、合理的で理性的なヴェーバーを介した西洋「近代」に求める。(3)現代─近代批判のポストモダン議論の文脈にて、物質的な「生活の貧しさ」はほぼ解消されたが、逆に精神的な「心の貧しさ」が増大した現代における「近代人の疎外」状況を克服するようなポストモダン(脱近代)な人間主体の模範を、近代の画一的個の強制や官僚主義のセクショナリズムの問題を指摘したヴェーバーの「近代」批判に求める。

このなかで特に注目すべきは(2)であって、民主化を進める戦後啓蒙の文脈にての、戦前の「前近代」的で反動的な天皇制国家の神権性・非合理性に対置させる、合理的で理性的で開明的な「近代」主義の立場からのヴェーバー理解が比較的よく知られている。こうした「近代主義者としてのヴェーバー像」が今日まで広く一般的に浸透している。

取り急ぎ、以上のような相当に大まかではあるが最低限の前知識を持った上で没後百年を迎えるマックス・ヴェーバー関連の書籍に当たれば、それほどの致命的な読み間違えはなく、いくらかスムーズに正当なヴェーバー理解に到達できるものと思われる。

最後にマックス・ヴェーバーの没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が多く刊行されている中で岩波新書の赤、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」(1997年)を私は強く推薦したい。

本新書は、先に挙げたヴェーバーの3つの読まれ方のうちの(3)の近代批判のポストモダンの立場からヴェーバーを読み直そうとするものである。そのため本書では「近代知の限界」や「近代知を超えて」や「近代科学の脱構築(ディスコンストラクション)」など、ポストモダン的言辞がやたら出てくる(笑)。そうしてポストモダンの立場からヴェーバーを読み直すということは、これまでのヴェーバー研究にて大勢を占めていた(2)の戦後啓蒙における近代主義賛美の過去のヴェーバー研究を批判することに他ならないのであって、確かに岩波新書「マックス・ヴェーバー入門」では、戦後日本でのヴェーバー研究の主流をなした大塚久雄と内田義彦に対する著者の山之内靖による厳しい批判が展開されている。本書ではヴェーバーの言説(「精神のない専門人、心情のない享楽人」云々)に依拠する形で、ヨーロッパ近代の合理性に対する深い疑いの批判が行われている。

また本新書は「マックス・ヴェーバー入門」というだけあって、最初の章からアダム・スミスとカール・マルクスとヴェーバーとのつながりや異同を指摘して、ヴェーバーを全く知らない読者のためにゼロ知識から読み始めても、この新書一冊を最後まで読み通すことで読了の際にはマックス・ヴェーバーの思想についてのおおよその事柄は分かるようになる、初学者に向け誠に親切丁寧なタイトル通りの「入門」記述となっており、著者の配慮が周到である。その他、「ヴェーバーと神経症」の精神疾患が学者に与える影響やギリシア、ローマ、エジプト、メソポタミアの非ヨーロッパ地域の古代史探訪を通してのヴェーバーにおけるヨーロッパ中心主義克服の契機とその思想的意義の確認や、従来のヴェーバー研究にてあまり重要視されてこなかった「ヴェーバーとニーチェ」の親縁性の指摘など、「入門」の基本内容を越えた野心ある「ヴェーバー書き換え」の新しい試みも多くあって、岩波新書の赤、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」は力作であり、読み味が爽快(そうかい)な好著である。

「いまヴェーバーはどう読まれるべきなのか。従来無視されてきたニーチェとの親縁性を明らかにし、ヴェーバー社会学の方法を解きほぐしながら、近代社会に根源的批判の目をむけ知の不確実性を見すえたヴェーバーの姿を浮き彫りにする。通説にラディカルな書き換えを迫る本格的入門書であり、同時にまたとない社会科学入門の書でもある」(表紙カバー裏解説)