アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(343)野田又夫「ルネサンスの思想家たち」

岩波新書の青、野田又夫「ルネサンスの思想家たち」(1963年)の書き出しはこうだ。

「ルネサンス時代をだいたい十五世紀から十六世紀と見て、そこにあらわれた思想家の一人一人の像をできるだけ近い距離でえがいて見ようと思う。そして同時にそれらの全部を一つの群像として統一的に見わたすことができるようにしたいと思う。十五世紀前半のロレンツォ=ヴァラ(第二章)やニコラウス=クザーヌス(第三章)からはじめて、十六世紀をたどり、十七世紀前半まで生きていた最後のルネサンス人ガリレイ(第十八章)に及ぶことになるであろう」(「(1)時代」)

本書は、ルネサンスの「時代」を十五世紀から十六世紀までと規定し、「ルネサンスの思想家たち」の各人を一人一人出来るだけ近い距離で個別具体的に近視的に、同時にそれらの全部を一つの群像として統一的に巨視的に叙述しようとする試みの新書である。そうしてさらに続ける。

「われわれが照明しようとするのは、思想そのものの形相であり推移である。そこで眼を新たにして思想の次元そのものにおいて、個々の思想家の作品の背景をとらえておかなくてはならない。ルネサンスの思想家たちは、同じ時代の芸術家と似て、それぞれ個性ゆたかな形を生み出しているが、かれらをどのようにつないで一つの群像をつくりうるかということになるとどうもうまくゆかない、という経験を多くの人がもつ。…かれらの問題自体がまことに多次元なのである。それを統一的に見わたし、群像形成の目安をつけるには、はるかにさかのぼって、中世十三世紀のスコラ哲学の姿とその十四世紀における解体過程を、大まかに見ておかねばならないと思われる」(「(2)スコラ哲学とそれの十四世紀における解体、特にオッカムについて」)

先に述べた通り、本書は「ルネサンスの思想家たち」の各人を一人一人出来るだけ近い距離で個別具体的に近視的に、かつそれらの全部を一つの群像として統一的に巨視的に叙述しようとする試みであるのだが、実際のルネサンスの思想家は個性豊かで多様性があり、各自の問題意識も多次元であるため、そのような種々雑多な「ルネサンスの思想家たち」を一つの群像として統一的に巨視的に叙述しようとしてもなかなかうまくゆかない。そこで彼らを統一的に見渡し、群像構成の目安をつけるために十四世紀より始まるとされるルネサンス以前の「十三世紀の中世のスコラ哲学の解体過程」としてルネサンス思想形成を押さえることで統一的理解が可能になるとする。その際に著者の野田又夫が着目するのがオッカムである。ゆえにタイトルにも「(2)スコラ哲学とそれの十四世紀における解体、特にオッカムについて」とあるのである。

オッカムは中世イギリスのスコラ学者である。この人の名前表記はウィリアム=オブ=オッカムであって、オッカムとは彼の生地名である。オッカム(Ockham)はイングランド南部の地名であった。ゆえにウィリアム=オブ=オッカムは、「オッカム地方出身のウィリアム」といった程度の意味である。オッカムは唯名論(実在するのは個々の事物だけであり、神や普遍は抽象の名だけに過ぎないとする)の立場をとり、信仰と理性、神学と哲学を区別して中世スコラ哲学の解体から近世の人文主義(ヒューマニズム)のルネサンスへの架橋をなした。そのオッカムについて本書では、

「オッカムの論理学や意味論は…現代の論理学や意味論につながっていることが、いまではほぼ明かになっている。哲学にはいまでも『オッカムの剃刀(かみそり)』というあだ名で呼ばれている原理がある。これは『ものの説明原理をできるだけ少数に無駄のないように採らねばならぬ』という規則をさすが、オッカムという人物は、実に『剃刀』のような鋭い論客だったのである」(「(2)スコラ哲学とそれの十四世紀における解体、特にオッカムについて」)

岩波新書「ルネサンスの思想家たち」が優れているのは、「ルネサンスの思想家たち」を明らかにするに当たって、ルネサンス直前の中世スコラ哲学の解体過程をまず押さえることであり、その中世思想の典型としてスコラ学者のオッカムを特に取り上げて論述する事と同時に、他方でオッカムの思想の主要概念とされる「オッカムの剃刀」の思考原理をルネサンス解説の際の本書記述の方針として採用することで、いわば「二重の意味にかけてオッカムを利用し尽くす」著者の機転に本書の魅力の一つがある。

「オッカムの剃刀」とは「ものの説明原理をできるだけ少数に無駄のないように採らねばならぬ」という思考方針の原理であり、今日では「思考節約の原理」や「思考経済の法則」とも呼ばれる。オッカムは、「必要が無いなら多くのものを定立してはならない。少数の論理でよい場合は多数の論理を定立してはならない」としたのであった。これは私の日頃の実感からしてもまさにそうで、本質的で原理的で大切な事柄は実は基本的であり単純(シンプル)で、細かで複雑で煩雑(はんざつ)な長々とした説明を必要としない。むしろ枝葉末節な非本質的な事や本当は知らなくても差し支えない、どうでもよい蘊蓄(うんちく)の物事にこそ、事細かな説明や幾つもの原理法則が厳選されず雑多に錯綜して、あたかも「複雑で難解」の様相にあるのである。だから物事の本質を捉えていない、そのものをよく分かっていない理解の浅い人の説明というのは、いつもクドクドと長ったらしく説明過多で、いくら聞いてもいっこうに要領を得ない。そのくせ幾つもの原理が並列して多数あり、例外事項や補足説明の尾ひれが長々と続いたりで不経済で非本質的で、なるほど確かにわずらわしく複雑困難で「難解」である。正確には「難解きどり」を装っているだけであるが。

オッカムという人は、「ものの説明原理をできるだけ少数に無駄のないように採らねばならぬ」という規則に基づき物事の本質を捉え出来るだけシンプルに論ずるということを実践した実に「剃刀」のように切れ味の鋭い論客であった。そうして、この「オッカムの剃刀」に言及する「ルネサンスの思想家たち」の著者の野田又夫も「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの解説や原則や仮定や例外を置くべきでない」とする方針を採用し、「本質的で原理的で大切な物事は実は基本的であり単純(シンプル)で、細かで複雑で煩雑な長々とした説明など必要としない」をルネサンス解説の際の本書記述にて実行し「オッカムの剃刀」の教訓効用を実に見事なまでに証明している。そこが岩波新書「ルネサンスの思想家たち」の一つの読み所である。

本書は全18章よりなる。最初の「1・ルネサンス思想の状況・中世から近世へ」でルネサンス思想の概観をなし、続く第2章から第18章までで、マキアヴェリやエラスムスやルターやコペルニクスやモンテーニュやフランシス=ベーコンやガリレオら各人物について、章ごとに彼らの生涯の評伝と、主な仕事と中核思想の簡潔な解説記述を行っている。

ヨーロッパ近世のルネサンスについて、私は世間一般にそれとなく広く共有されている、その俗っぽい安易な理解に昔から不満を持っていた。これは(おそらくは)高校世界史での教え方の弊害であると思うのだが、ルネサンスといえば「中世世界の否定であり、近代世界の始まり」であって、ルネサンスを基点に、これまでの中世の宗教中心の人間理解や世界観から脱宗教で世俗的なそれに一気に変わるとするような歴史認識が未だに広く信じられている。例えば、ルネサンス以前の中世世界は神中心の世界であり、来世主義で人間の欲望は厳格な禁欲主義(リゴリズム)で否定され、(天動説の立場からする地動説の排撃・弾圧の事例に象徴されるような)自然科学は宗教の下に抑圧され神がかりで非合理な事物認識が跋扈(ばっこ)しており、しかしながらルネサンスを経ると一気に世界が激変して、ルネサンスでは人文主義(ヒューマニズム)に基づく人間中心の世界となり、現世主義の脱宗教で人間の欲望は解放され欲望肯定の思想にて人間のありのままを認める芸術や商業が発展し、自然科学は宗教から切り離されて数字データや実験による極めて客観的で合理的な事物認識を人々は自由にできるようになる、とするような。

このような中世世界とルネサンスとの間に悉(ことごと)く対照をつける安易で図式的なルネサンス理解は、正確ではない。ルネサンス以降もヨーロッパ世界では脱宗教とはならず人々は神への信仰を保持して、ルネサンスの思想家にも信仰の非合理性の神秘主義にのめり込む者も多くいたし、ルネサンスになったからといって必ずしも現世主義で人々の欲望充足が全面的に解放されたわけでもなかった。ルネサンスにも旧守的で保守的な面も多々あった。同様にルネサンス以前の中世世界でも必ずしも神中心の世界というわけではなく、「信仰と哲学」や「信仰と自然科学」の区別を付けて哲学や自然科学にもある種の自由と合理性は保障されていた。また人間の欲望否定の禁欲主義を徹底するリゴリスティックな中世世界であったわけではなく、人間の欲望肯定や感性解放の要素も、それに基づく商業の発展も中世の時代には、ある程度はあったのである。

こうした世間一般に流布するヨーロッパのルネサンスに関する偏見や誤解を解くためにも、岩波新書の青、野田又夫「ルネサンスの思想家たち」を始めとしてルネサンス関連書籍の良書を読むことは今日では大変に有益であると思われる。