アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(398)山鳥重「『わかる』とはどういうことか」

(今回は、ちくま新書、山鳥重「『わかる』とはどういうことか」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、山鳥重「『わかる』とはどういうことか」は岩波新書ではありません。)

物事を「わかる」とはどういうことなのか、どのような要件をクリアすれば人は物事が「わかった!」と初めて合点(がてん)がいって腑(ふ)に落ちるのか。そういった納得の仕組みの、人間の認知や記憶や理解の原理について脳科学や認知心理学の観点から明らかにし易しく解説して、それを日々の勉強や仕事に生かそうとする自己啓発的な書籍が近年、多く出されている。そのような脳科学や認知心理学に基づいた「わかる」の仕組みに関する合理的アドバイスは、結局のところ勉強法や仕事術や記憶術の方法論でしかないのであって、それらは用いられて勉強・仕事したり記憶したりする手段でしかない。大切なのは、そのような認知や記憶や理解の原理(手段)を使って何を理解し覚えて学ぶか(目的)なのであるから、この人間が物事を「わかる」の仕組みを一通り理解してしまえば、あとは実践で日常的に使うだけである。

勉強法や仕事術や記憶法についての書籍を何冊も連続して長期間読み続けたり、それらをひたすらレビューし書評する「自己啓発本マニア」の悲劇はここにある。自己啓発本はどこまでいっても勉強や仕事に際しての合理的で効果的なやり方の方法論でしかないのだから、そこまで深入りしてのめり込んではいけない。それよりも勉強習得や仕事着手の目的の遂行へ早急に移るべきだ。

そういったわけで、物事を「わかる」とはどういうことなのか、どのような要件をクリアすれば人は物事が「わかった!」といえるのか、の人間の認知や記憶や理解の原理について以下、必要最低限度の要点を押さえておきたい。この手の書籍は相当な数が出されており、それらをある程度、重ねて読んでいくと、だいだい述べられていることは同じである。物事を「わかる」とはどういうことなのか、多人数のその筋の専門家が書いて内容が重複するのは、それが専門家のほぼ皆が認める認知・記憶・理解に関する適切で正しい理論に基づく方法であるからに他ならない。

以前、私が一時期集中して読んだその手の認知・記憶・理解に関する原理的考察に基づいた方法論書籍の中で、山鳥重「『わかる』とはどういうことか」(2002年)は、割合オーソドックスだが堅実で信頼できるもので読んで相当に参考になった。著者の山鳥重は脳科学者で医師であり、本書の副題は「認識の脳科学」である。氏は失語症や記憶障害などの高次脳機能障害の臨床に従事し長年、診療に当たってきたという。だから、脳科学の視点や実際の言語回復のリハビリ経験からなされる「『わかる』とはどういうことか」についての氏の本書での解説は誠に説得力がある。

山鳥重「『わかる』とはどういうことか」にて、人が物事を「わかる」というのは、単に知覚した客観的事実を自身が正確に把握して再現できるということでは決してない。「わかる」とは、自身に対してある客観的事実を一度「心像」として自分の中で噛(か)み砕いてわかりやすく再構成する手続きの内に存する旨の指摘がある。これを昨今「学びとは何か」(2016年)らの著作が人気である、認知発達・言語心理学が専攻の今井むつみの術語を借りていえば「スキーマの形成」ということになろうか。今井によれば、「スキーマ」とは行間を補うために使う常識的な知識のことであり、外界にある膨大な情報から必要な情報を便宜に解釈する知識のフィルターのようなものである。

この「わかる」ことの基盤をなす「心像」として自分の中に再構成する手続きのパターン(スキーマの型)は、実は決まっている。すなわち、「わかる」とは(1)全体像の把握(空間認知)、(2)分類のまとめ(種別判断)、(3)順序・因果・過程の整序(時間認知)、(4)表層の見かけに惑わされない裏側にある仕組み・からくり・つながりの把握(内在化・抽象化)、(5)規則・ルール(とそれからの例外)の見切り(ルール化・パターン化)

つまりは私達が感覚的な印象・直感以外の所で、ある物事を「わかりたい」と思えば(1)から(5)の思考をやって、自分の中で改めて心像形成をしておけばよいわけである。しかも一つの対象や事柄について、これら5つの心像形成を複合的、かつ同時に平行して精密に遂行できれば、そのものに対する「わかる」の認知・記憶・理解の度合いは格段に進むことになる。「わかる」とは5つの型の複数の心像を同時に立ち上げ想起することであるのだ。

このことから逆に私達がある物事について「わからない」と思うのは、空間認知や種別判断や時間認知や抽象化やパターン化に関する前述の5つの心像形成がなされていない(出来ていない)ことに多々由来する。私がある事柄について「わかった」のすっきりした納得の思いがしないのは、例えば(1)の「全体像の把握(空間認知)」が不十分で、認知の対象からさらに外延する物事や関係性の存在を認識できておらず、果てしなく不可知な外部の世界がまだあるように漠然と感ぜられるため、全体を把握できない、その漠然とした思いに圧倒されて「なるほど!わかった」の了解に私は達することができていないのかもしれない。もしくは(4)の「表層の見かけに惑わされない裏側にある仕組み・からくり・つながりの把握(内在化・抽象化)」の欠如で、表面的な見かけの多彩さに幻惑・混乱させられて物事の裏側にある仕組み・からくり・つながり把握の内在化・抽象化の思考を経ていないため、もしかしたら私はいつまで経っても雑多で混乱した「何だかわけがわからない」の不快な思いに苛(さいな)まれているのかもしれない。こうした原理を知れば、自分が現在「わからないこと」の理由に気づくこともできるし、未知や不可知な事柄への対処もできる。よく人は「自分が何をわからないのかもわかっていない」窮地に追い込まれることがあるけれども、これら心像指標に依拠すれば「今、自分がわかっていないことは何か」に気付く改善に向けての現状把握もできるはずだ。

人は「わかったこと」は難なく想起し再現できるし、確認や行動や経験の蓄積に運動変換して応用できる。「わかったこと」は行為や運動に移せるのである。これは言語以外の非陳述なものでも同様である。そもそも人間の認知・記憶・理解には、言語を介しない「非陳述記憶」と言語を介する「陳述記憶」とがある。前者は、例えば自動車の運転や水泳の泳ぎの技術など、言葉ではなく身体がその手順や段取りの要領を忘れずに覚えているもの、後者は言葉を介して記憶するもので、自身の過去の感情経験の言語的説明の振り返りや、人との会話や読んだ本の内容知識に関する記憶である。言語を介しない「非陳述記憶」に関し、過去に自動車免許を取得した人が期間が空いて久しぶりに自動車を運転して難なくできるのも、もともと泳げる人が久々にプールや海に行っても普通に泳げたりするのは、その人が言語以外の身体ですでに「わかっている」からである。すなわち、自動車運転や泳ぎに関する、先の時間認知の手順やルール化の方法の心像形成をして、言語を介していなくても(たとえ言葉で説明できなくても)身体が覚えていて「わかっている」ので、極めて当たり前にスムーズに再現できるだけのことである。

ここに至って「わかる」とは、単に「様々な物事を知っている」とか「よく暗記できている」と全く同一ではない、似て非なるものであることにも気付くはずだ。最近、テレビのクイズ番組で文化人や芸能人が、日常でなかなか使わない難解漢字を読めたり書けたり、細かな雑学知識を聞く一問一答に即座に反応し答えたりして、「頭が良い」とか「インテリ芸能人」とか賞賛され尊敬されたりしているけれど、彼らは物事そのものを「よくわかっている」わけでは決してない。せいぜい肯定感に言って「単によく知っている」「よく覚えていて覚えた知識を即座にアウトプットで出せる」程度のことでしかない。彼らは物事を「よくわかって」などいない。もはや繰り返すまでもなく「わかる」とは、断片的な知識の寄せ集めや単なる暗記に終始しない、空間認知や種別判断や時間認知や抽象化やパターン化に関する5つの心像形成を複数かつ同時に精密に人間主体が有機的になすものであるからだ。

ゆえに「わかること」「わかったこと」は、いつでもどこでも当人には想起・再現可能であり、同様に先の予測や現時点では「わからない」未知で不可知なことにも対処でき、心像形成への有機的で主体的な取り込みを通じて、やがて自分にとっての「わかる」に創造的に変えることもできる。このことに関し、山鳥重「『わかる』とはどういうことか」では、「わかる」とは「より大きく楽しくわかる=重ね合わせと発見的理解」ともある。至言である。ここでは触れられなかった本書に書かれている、物事を「わかる」とはどういうことなのか、の人間の認知や記憶や理解の原理についてのその他の解説も読んで相当に参考になる。

「われわれは、どんなときに『あ、わかった』『わけがわからない』『腑に落ちた!』などと感じるのだろうか。また『わかった』途端に快感が生じたりする。そのとき、脳ではなにが起こっているのか。脳の高次機能障害の臨床医である著者が、自身の経験(心像・知識・記憶)を総動員して、ヒトの認識のメカニズムを、きわめて平明に解き明かす刺激的な試み」(表紙カバー裏解説)