アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(397)本間龍「原発プロパガンダ」

岩波新書の赤、本間龍「原発プロパガンダ」(2016年)のタイトル中にある「プロパガンダ」については、

「プロパガンダとは、政治思想宣伝のこと。ある決まった考えや思想・主義あるいは宗教的教義などを、一方的に喧伝(けんでん)するようなものや、刷り込もうとする宣伝・広報戦略を指す。情報による大衆操作・世論喚起である。プロパガンダは比較的古くから用いられているカタカナ語であるが、第二次世界大戦後のアメリカにて、ナチスのゲッペルスによる国際宣伝戦に対し『プロパガンダ』と呼ぶ風潮があったため、日本でも『好ましくない政治思想喧伝』の意味で主に使用される。今日のテレビやインターネットに代表される情報社会化は、プロパガンダを一層容易で効果的なものとした。少ない費用でより効率的に多数の人々に自らの宣伝主張を伝えられ扇動できるからである」

以上のことから「原発プロパガンダ」とは、原子力発電に関する政府や電力会社や大手広告代理店による一方的な喧伝、刷り込みによる大衆操作・世論換気の宣伝・広報戦略のことである。本書で著者のいう「原発プロパガンダ」とは、より具体的に言えば、全国各地域の電力会社と電気事業連合会(通称「電事連」。全国の電力10社による会費で運営される任意団体)に経産省・資源エネルギー庁、環境省らの政府官僚機構、そしてこれら電力会社と政府機構の、いわゆる「原子力ムラ」の意向を汲(く)んで、実際に広告制作・スポンサー枠の仲介をなす大手広告代理店(電通と博報堂に代表される)の各成員によりなされるものだ。その際の「原発プロパガンダ」の一方的な刷り込みによる大衆操作・世論換気の喧伝内容とは、原発推進の普及をはかるための「安全神話」と「環境エネルギー」の流布であるという。「安全神話」については、例えば「原発は絶対に事故を起こさない」「万が一事故が起きても絶対に放射能漏(も)れは起きない」といった広報である。「環境エネルギー」に関しては、「原発は発電にて二酸化炭素を出さないクリーンエネルギー」「原子力は再生可能な地球環境に優しいエネルギー」といった宣伝である。

これら「安全神話」と「環境エネルギー」の流布を国民を原発推進に駆り立てるための「原発プロパガンダ」と定義し、1960年代末から2010年代の約40年間に渡り、電力会社と政府機関からなる実行主体たる「原子力ムラ」が、協力者である大手広告代理店による宣伝・広報戦略を介して、どのように国民に原発の「神話」を信じさせていたのか、その手法と事例を解説したものが本新書である。

本書によれば、「一九五0年代から国策として国が主導し、政官学と電力業界を中心とする経済界が展開した原発推進PR活動は、実施された期間や費やされた巨額の予算から考えて、まさしく世界でも類がないほどの国民扇動プロパガンダだった」。1950年代から国が国策として主導し60年代の商業炉の試験的建設と実用化を経て(日本で最初の原子力発電は1963年、日本で最初の商用原子炉の運転開始は1966年である)、いよいよ1970年代以降、原子力発電が本格化され各地域の電力会社により日本各所に原子力発電所が次々と新規建設され始める。その際の原発の数多くの新規建設と共に、1970年代より以後「安全神話」と「環境エネルギー」の喧伝にて国民世論を原発推進に駆り立てる「原発プロパガンダ」は継続して積極的になされることになる。岩波新書「原発プロパガンダ」の優れているのは、そうした1970年代前から本書上梓直前の2015年までの新聞・雑誌に掲載の原発推進の実際の広告をそのまま紙面に掲載して、「第1章・原発プロパガンダの黎明期(一九六八─七九)」から「第5章・復活する原発プロパガンダ(二0一三─)」までの全五章にて、「原発プロパガンダ」の原発関連広告のあり様をその実態に即し具体的に考察している所だ。

本書によれば「最初の原発広告」は、1970年の敦賀原発と美浜原発の営業開始に伴い、地元の福井新聞に1968年に掲載されたものとされる。この頃の広告媒体といえばテレビ放送はまだ黎明期であり、新聞が圧倒的に強かったのだ。以後、原発立地地域の地方新聞と全国紙に原発広告が大量かつ頻繁に掲載され、また雑誌の紙面広告に加えてテレビ・ラジオCM、交通広告、その他のポスター、原発関連企業によるPR誌など「原発プロパガンダ」は様々な広告媒体を通じて多面的に広く展開されていくことになる。これら電力会社と政府機構の、いわゆる「原子力ムラ」と大手広告代理店により大規模になされた原発推進のための国民への刷り込みである「原発プロパガンダ」の実態や時代的変遷や広告戦略に関する詳細は、本書にある当時、実際に新聞・雑誌に掲載されていた原発推進キャンペーン広告を参照しながら著者による検証解説の記述を各自読んで頂きたい。

ここでは本新書に直接書かれていない点も含めて、読んで私が印象深かった事、特に大切で絶対に読み逃してはいけないと思えた事柄を以下、二点だけ挙げておく。

(1)「原発プロパガンダの完成期(1990─99年)」における、タレント活用の全盛期と「安全から安心へ」の世論誘導の転換時期との一致。(2)「復活する原発プロパガンダ(2013年─)」における、訴求項目・テーマの戦略的変更と「風評被害の撲滅」を名目にした再度の原発推進世論への誘導。

(1)について。例えば、本書と同じ岩波新書の高木仁三郎「原発事故はなぜくりかえすのか」(2000年)らで既に広く指摘されているが、高速増殖炉「もんじゅ」でのナトリウム漏洩火災事故発生(1995年)とその事故隠しを機に、1995年度版「原子力白書」から政府主導の「安全と安心」の分離立論が顕著になってくる。いうまでもなく「安全」とは、人間や環境への実質被害を測る明確な科学的根拠を持った確固たる規範であり指標である。かたや「安心」とは、科学的根拠のない極めて曖昧(あいまい)で漠然とした人間への心理的影響をさすものだ。この点に関して、1995年の「もんじゅ」の事故隠蔽の事案から政府は「安全から安心へ」の世論誘導に意図的に転換(シフト)してきている。「今回の原発事故は安全の技術的に大したことではないけれども、多くの国民を不安に陥れる結果を生じさせてしまった」と「反省」するような言い方の切り抜け方を近年では国も電力会社もする。科学的根拠のある「安全」ではなくて、人々の心理的影響に配慮する「安心」へ、原発事故問題の論点をズラす90年代以降の意図的論調は、厳密な実害公表や科学的議論を回避し、ないがしろにして、ただただ国民の心理的不安の除去に努めるイデオロギー的操作の表面的策術に堕(だ)する危険性が大いにある。最悪、「実質的被害の科学的根拠の安全の点で相当に深刻な問題があるのに、その安全検証議論を忌避して、ひたすら人々に心理的安心をアピールし、深刻状況を誤魔化し事態を取り繕(つくろ)っていく」ような。明白に「安全」ではない、どのような科学的に危険な状況下にあっても、巧妙な心理的誘導の操作をほどこせば人々は心の中で「安心」を確保できる。こうした原子力政策推進の国と電力会社らによる「安全から安心へ」の議論のすり替え策術の欺瞞は1990年代半ばから表面化し、露骨になされるようになったという指摘である。

岩波新書「原発プロパガンダ」を読むと、1990年代の「原発プロパガンダの完成期」におけるタレント活用全盛の到来時期と、1995年度版「原子力白書」からの政府主導の「安全から安心へ」の世論誘導に意図的転換の時期とが実に見事に一致していることが分かる。この両者のつながりの時期的一致が本新書を読んでいて私には非常に腑(ふ)に落ち、合点(がてん)が行った。

本書によれば、原発を推進・普及させるにあたり、それまでの90年代以前の「原発プロパガンダ」の広告表現の特徴は「専門家による解説、文字のみの説明、固い表現」にて原子力発電の「安全」を科学合理的に人々に説こうとする、ある種の「説得」に努めてきた。ところが1990年代に入ると「タレントの活用、イラスト・マンガによるソフト路線、様々なわかりやすい表現の模索と多用」の漠然とした「安心」イメージ先行の広告特徴にとって代わられていく。1990年代より原子力発電の科学的「安全」の議論をわざと回避して、原発についての「安心」イメージの醸成・流布に文化人やスポーツ選手や俳優やタレントが積極的に駆り出されていくのだ。「原発プロパガンダ」の本書を見ると、90年代の原発広告に頻繁に出ていた現在も活躍中で今でも日常的にテレビ・雑誌でよく見かける文化人、スポーツ選手、俳優、タレントが多くいる。ここでは実名は出さないが、「原発プロパガンダ」の本書には「原発PRにおける著名人」の出演回数ランキングが実名で掲載されてある。もちろん彼ら・彼女らはタレントであって、原子力工学や原子力発電の専門家でも技術者でもないのだから、広告に出て「原発は安全」とか「原子力は環境に優しいクリーンエネルギー」など科学的根拠や経済的合理性は皆無の、「原発プロパガンダ」に寄与する原子力発電の好感度が上がる良イメージをただ撒(ま)き散らしているだけである。

(2)について。2011年の東日本大震災に伴う福島第一原発の放射能漏れ事故で、1970年代から「安全神話」と「環境エネルギー」の喧伝にて国民世論の原発推進、駆り立てのために継続的に進められてきた「原発プロパガンダ」は大きな転換を余儀なくされる。福島第一原発での過酷事故を機に、原発反対の「脱原発」の強力な国民的議論が巻き起こってきたからだ。福島第一原発の過酷事故を受けて当事者の東京電力による「お詫び」を新聞広告やテレビ・ラジオCMに出し、政府機構や他地域の電力会社からの原発広告は一時的に消えて事態の沈静化がはかられた。そして「復活する原発プロパガンダ期」の2013年頃から原発広告は復活していく。いわゆる「福島以後」のこの時期に「原発プロパガンダ」は大きな内容変更を強いられる。以前のような「原発は安全」「原発は環境に優しいクリーンエネルギー」の原発推進に際しての広告訴求のテーマは使えなくなってしまった。福島第一原発の事故を受けて「原発は安全」などとは、もはや断言できないし、放射能漏れで周辺地域住民が強制退去を強いられる異常事態下にて「原発は環境に優しいクリーンエネルギー」とも到底言えなくなってしまっていた。

そこで本書によれば、「原発プロパガンダ」にての訴求項目のテーマは「化石燃料に頼ることで経済収支が悪化(原発停止に伴う割高な原油の輸入は国富の流出)」「原発は日本のベースロード電源(原発だけが資源小国の日本で電力安定供給が可能)」に変容され継続されていく。要は「原発プロパガンダ」において、何があろうとも「反原発」や「脱原発」の議論は絶対に許されないのである。だからこそ、それは原発に関する「プロパガンダ」(一方的な喧伝、刷り込みによる大衆操作の宣伝・広報戦略!)であるわけだ。その上で、さらには原発や原子力エネルギーそのものに対する人々の不安や批判を世間一般からの「風評被害」と巧妙に読み替え、「風評被害の撲滅」を名目に「放射能についての正しい知識を」「客観的事実に基づいた冷静な判断を」の度重なる広告宣伝も加えられて、より強力に「福島以後」のこの後に及んでも、依然として原発推進喧伝の「原発プロパガンダ」は続けられるのであった。2011年の福島原発事故以降も、ここでも実名は出さないが、原発PR広告に出ている文化人、スポーツ選手、俳優、タレントの彼ら・彼女らの実際の新聞広告が本新書には掲載されている。本書の記述によれば、タレントに支払われる広告出演料は破格であり相当な額に達するという。

電力会社と政府機構の、いわゆる「原子力ムラ」と大手広告代理店により大規模になされた原発推進のための国民への刷り込みである「原発プロパガンダ」の2011年以降の「復活する原発プロパガンダ期」における、訴求項目・テーマの戦略的変更と「風評被害撲滅」を名目にした再度の原発推進世論への建て直し誘導での彼らの「懲(こ)りないたくましさ」を知って、私は背筋が凍(こお)る恐怖の思いがする。

最後に、岩波新書「原発プロパガンダ」の著者である本間龍について触れておきたい。この人は元は大手広告代理店の博報堂で18年間営業担当で勤務し、日本の広告業界の裏側まで深く知った人である。著者によれば、日本のメディア(新聞・雑誌、テレビ・ラジオら)は、広告主としてのスポンサー企業の意向と、寡占体制にてスポンサー企業と深いつながりを持ち、広告枠をメディアに独占的に仲介して割り振ることができる電通と博報堂に代表される大手広告代理店の意向は無視できず、各種メディアはスポンサー企業と大手広告代理店の二者に従わざるを得ないという。原発推進広告の「原発プロパガンダ」を進める電力会社や電事連の意向に反したメディアは、それらからの莫大で破格の広告収入が望めないのだし、また各電力会社と政府機構が電通や博報堂の大手広告代理店と密接なつながりを持っていて、それら電力会社や政府機構の原発推進の意向に逆(さか)らい、反原発の報道をして彼らの機嫌を損ねたりすれば、新聞・雑誌やテレビ・ラジオの各種メディアは以後、スポンサー企業からの広告の一方的引き上げや大手広告代理店より広告枠の割り振りと広告制作をしてもらえなくなり、紙面や番組制作のための広告収入が見込めず経営窮地に陥る。そのため、こうした広告費や広告枠・広告制作を人質に取ったスポンサー企業と大手広告代理店の両者から暗になされる恫喝にて、昔からメディアは反原発報道は表だってできないという。こういった「原発プロパガンダ」にまつわる「日本の戦後広告史の暗黒面(ダークサイド)」を描いている点でも、岩波新書の赤、本間龍「原発プロパガンダ」は非常に優れている。

「世界有数の地震大国日本になぜ五四基もの原発が建設され、多くの国民が原子力推進を肯定してきたのか。そこには電力料金から生じる巨大なマネーを原資に、日本独特の広告代理店システムを駆使して実現した『安全神話』と『豊かな生活』の刷り込みがあった。四0年余にわたる国民的洗脳の実態を追う、もう一つの日本メディア史」(表紙カバー裏解説)