アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(248)今井むつみ「ことばと思考」

私は一時期、哲学の認識論や認知心理学の書籍をよく読んでいたことがあった。自分の外部にある物事や他者の対象世界を雑多に知るよりは、自分が物事を認識して理解する自己内の認知の原理的な構造(機制)を知ることの方が自身にとってより本質的で優先の事柄と切に思えたからだ。

私達は物事を認知する際には必ず言語を介して行っている。以下、「認識」とは知覚すること全般を指す。「思考」とは人が心の中で(つまりは脳で)行う活動すべてを指す。人が無意識に行っている知覚の「認識」行為も含めて包括的に「思考」と呼ぶ。「認知」とは意識的であれ無意識的であれ、「××とわかる」と了解することを指す。

私達の頭の中にあらかじめ言語による概念や価値範疇(カテゴリー)があって、その機制に従って主体外部世界の認識や人間の内的思考・認知は成立している。決して何もない無から認識を介して物事の理解が促され思考が行われたり認知がなされたりするわけではなく、実は言葉による概念や思考規則が人間の脳の中に元々あって、それらを組み合わせたり運用駆使して人は「認知」している。最初から頭の中にある事物に関する名称や概念や性質や関係性についての言語理解があって、それに外部世界からの認識・思考を照らし合わせながら「なるほど××とわかった」の認知はなされる。物事に関し「××とわかる」という認知の仕組みはそういうことだ。もともと人間の脳の中にない知見や概念の事物に出くわした時、人は何とも説明理解し難い奇異な感覚に襲われ途方に暮れるだけである。

同様に「認識」における知覚でも言葉を介して事前に知覚対象を選択排除したり、無意識下の「思考」の際にも言葉が介在し、その言葉のイメージに引きずられて時に思考は偏向(バイアス)を受けたりしている。加えて、そもそも言葉とは「1対1」対応の物事を対象し指し示す「名付け」の指示機能だけでなく、互いに独立してある物事を言語間の違いによって相互に関係づける差異の記号体系である。そうした言葉を介して人は認知しているのだから、実は人が物事を「わかる」という認知の仕組みも個別で独立的になされる認知ではなくて、他の物との比較対照の差異の関係性にてなされている。

であるならば、認識・思考・認知にてそれらが漠然曖昧なものでなく、また場当たり的でもなく、より適切で安定した精密なものとするためには、何よりもまず言葉に習熟していなければならないことになる。特に認知の「××とわかる」ということは、対象を個別に把握することではなく、他の物との違いの関係性において理解することであるから、差異の記号体系である言語にて性質や様態や程度についての細かなニュアンス差の様々な語彙(ごい)を出来るだけ数多く持っているとよい。また物事の名称や概念に関しても、多く知っていればいるだけ、認識・思考・認知はよりスムーズに厳密にできるようになることは明白だ。

人は幼少のある時期までは自身の身の回りの生活世界や直接経験した事柄に対する認識・思考・認知に終始するが、ある程度の年齢を重ね青年期になると具体的身近なこと以外にも、抽象的形而上学的なことも思考し認知するようになる。いわば目先の直接的な認識を集積し抽象化した判断思考結果の認知たる「帰納推論」ではなくて、まず原理的な抽象概念の運用操作から始めて結果、具体的判断思考の認知へと落とす「演繹推論」を積極的に行うようになる。10代後半の青年が時に内省・思弁的になってしまうのは、直接経験の生活世界から抽象形而上的な思索世界へ架橋するからであって、この観点からして俗に言う「賢く」なったり「大人になる」ためには、先の「私達は物事を認知する際には必ず言語を介して行っている」の原理を踏まえ、さらにその言語の中でも特に抽象概念に関する言葉を意識的に習得していけばよい。

とりあえず、認識・思考・認知をより適切で精密なものとするためには、何よりもまず言葉に習熟しておかなければならない。もはや繰り返すまでもなく、私達は物事を認識・思考・認知する際には必ず言語を介して行っているからだ。ここに至って前回の「岩波新書の書評」で取り上げた、沢田允茂「現代論理学入門」(1962年)での次のような文章を引用しておいても無駄ではあるまい。「所詮、人間は世界のある側面については言葉なしに明確な思想をもつことはできない。とすれば、世界をよりよく把握するためにその道具である言語を、より正確な、合理的な論理の形で使用することはよりよき知的労働の条件である」。

「××とわかる」人間の認知を支える言葉に習熟するためには、以下の方法が有効で効果的なものと考えられる。

(1)できるだけ多くの語彙を知って自分の中に貯蔵(ストック)しておく。(2)言語間の相互の関係性、つまりは言葉の運用規則たる文法を学んで知っておく。

さて岩波新書の赤、今井むつみ「ことばと思考」(2010年)は、これまで述べたような「ことばと思考」の密接な関係について認知心理学の臨床実験データを付して解説した書籍だ。著者はいう、「ほとんどすべての認知活動で言語が関わっており、言語のフィルターを通した世界を人は見ている」。すなわち「言語は世界を切り分ける」。このことから、意識化できる知識や意識的に行われる推論や意思決定に限らず無意識下の認知活動すべてを含めて、人間の脳の中での言語の学習や言語の処理に必要な情報処理システム構築の重要性を本書は改めて教えてくれる。もっとも本新書は「言語は世界を切り分ける」ことからさらに議論を前に進めて、「言葉を介さない思考や認知は可能か」や「使用する言語が違えば人は思考や認知も異なるか」の問題を考察するものではあるが。

「私たちは、ことばを通して世界を見たり、ものごとを考えたりする。では、異なる言語を話す日本人と外国人では、認識や思考のあり方は異なるのだろうか。『前・後・左・右』のない言語の位置表現、ことばの獲得が子どもの思考に与える影響など、興味深い調査・実験の成果をふんだんに紹介しながら、認知心理学の立場から語る」(表紙カバー裏解説)

本新書は出版後、かなり好評であったに違いない。後に同じ岩波新書から同著者による同じく「ことばと思考」の関係性を扱った、今井むつみ「学びとは何か」(2016年)も出ている。