アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(124)山折哲雄「『教行信証』を読む」

親鸞評伝や研究に対し、私は論者の名前を頭に置いて「××親鸞」という呼び方をしている。例えば「親鸞」(2010年)にて鎌倉時代の相次ぐ戦乱や疫病や天災で荒廃した末法の世を、同様に自然災害や不景気で先の見通しが立たない今の混迷不安の時代に重ね合わせ、新たに親鸞を読み返すことで現代社会の人々の生き方の心の処方箋(しょほうせん)とする、作家の五木寛之による親鸞に関する一連記述を「五木親鸞」と呼称するというように。

そうした五木親鸞とおそらくは昨今、世間の人気を二分する評論家の山折哲雄による「山折親鸞」たる、岩波新書の赤「『教行信証』を読む」(2010年)である。本書は副題が「親鸞の世界へ」であり、親鸞「教行信証」(1224年)についての精読解説となっている。本書以前に同じ岩波新書で山折「親鸞をよむ」(2007年)がある。山折哲雄「『教行信証』を読む」は「親鸞をよむ」の続編といってよい。

「人殺しの大罪を犯したような極悪人は宗教的に救われるのか。救われるための条件は何か。親鸞自身の苦しみと思索の展開をたどりつつ、引用経典の丁寧な読み解きとともに親鸞宗教思想の核心を浮彫りに、歴史的洞察や史料論的解釈、比較論的考察を交えながら、宗教思想史に屹立(こりつ)する親鸞をその自然な思想的相貌において捉え、平易に叙述する」(表紙カバー裏解説)

一読した印象は「この本は親鸞の初心者の初学者ではなく、親鸞の『教行信証』を何回か読んで基本概念や内容要旨をすでに把握している親鸞中級者か上級者へ向けての、いわゆる親鸞の二周目か三周目の本だ」という思いがする。いわば、玄人好みな親鸞精読の書籍である。何しろ、親鸞自身が「教行信証」を書き継ぐにつれて新たな難問にぶち当たり、軌道修正して再び中途に「序」を書き足して仕切り直したり、経典の大量引用を余儀なくされたり、従来見過ごされてきた用紙裏の親鸞の反古落書きに着目したりで、書き手である親鸞の心中の内的事情を推察して親鸞の「教行信証」を内在的に読み解こうとする、実際の「教行信証」には書かれざることまで推し測って深く精読する著者・山折哲雄の試みなのだから。

山折哲雄「『教行信証』を読む」に対する書評にて、山折を痛切批判して酷評するものも時に見かけるが、それは本書が中級ないしは上級者向けの「教行信証」の精読本であることを踏まえていないからだと思われる。親鸞「教行信証」を読んだことがない人や一通りの内容を知らない読者には、おそらくは本書は難しいであろうし、本書の良書たる良さは伝わりづらいのではないだろうか。

書評や論争などを介して「他人が親鸞をどれだけ正確に適切に読めていないか」、ないしは「自分が親鸞をどれだけ正確に適切に読めているか」を、あからさまに競ったり暗に誇ったりすることは殊(こと)に親鸞書物に関しては無効であり、非常に虚(むな)しい思いがする。親鸞に言わせれば、そういうのは「聖道門の自力」の人間の思い上がりでしかないからだ。各自で自分なりに親鸞を読めばよいのではないか。そもそも読まれる親鸞その人が、議論を通して正統な親鸞(真宗)理解を人々が互いに競うことを全否定し一気に無効の白紙にさせる、それほどまでの力量がある破格な人だと私は思う。

ところで、親鸞研究に関しては真宗系の大学での学科設置の編制からして、真宗学と日本仏教史学の二つの方向からの近接が昔から伝統的にあると思われる。岩波書店「日本思想体系11・親鸞」(1971年)の巻末解説に家永三郎「歴史上の人物としての親鸞」と、星野元豊「『教行信証』の思想と内容」の二つの論文が掲載されてある。家永のものは聖徳太子信仰との関わりや念仏弾圧、親鸞以後の真宗教団の形成発展など歴史総体からのマクロな日本仏教史学の考察となっており、他方、星野のものは「教行信証」の構成や主要概念、仏教用語の子細な説明の、まさに真宗学ともいうべきミクロな細かい文献解説となっている。こうしたタイプの全く異なるアプローチの二論文の巻末掲載形式からしても親鸞研究には、真宗学と日本仏教史学の二つの系があるといえる。

山折哲雄による山折親鸞、岩波新書の親鸞関連書籍は現在のところ二冊である。「親鸞をよむ」が、親鸞の生涯や念仏弾圧や弟子らによる後の教団形成の日本仏教史学からのものになっており、これとは対照的に「『教行信証』を読む」は、親鸞「教行信証」を厳密に読み解く真宗学に属する内容に上手い具合に分かれている。

そして、前著「親鸞をよむ」にて山折により提言された「頭で『読む』のではなく、からだで『よむ』」親鸞の読み方方針の実践編として、後著「『教行信証』を読む」はあるのであった。山折「『教行信証』を読む」では、氏の持論である親鸞を「頭で『読む』のではなく、からだで『よむ』」ことが「教行信証」の具体的な読みを介して見事に実践されている。親鸞の実生活の原風景を想像したり、離れた記述同士の太い繋(つな)がりや文章を書き継ぐにつれて自然と生じてくる親鸞の筆のリズムを押さえて味読するということだ。そうした山折親鸞の両著の関連まで見越して、本書「『教行信証』を読む」は読まれるべきだろう。そういった意味では順序として、まず山折の岩波新書「親鸞をよむ」を読み、その上で同じく山折の岩波新書「『教行信証』を読む」に当たるのが順当な読みであると思われる。

最後に付け加えておくと岩波新書の赤、山折哲雄「『教行信証』を読む」は好著であり良書である。山折が親鸞の内心を推し測って「教行信証」を内在的に読んでいく手際(てぎわ)が非常に優れている。少なくとも私は本書を読んで存分に楽しめた。ただそれだけであり、本書に親鸞理解の読みの問題があったとしても今回は批判の書評はしない。