アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(125)熊野純彦「西洋哲学史」

古代から近現代まで書き抜く全時代の哲学史概説は、通常は数人で分筆してやる。特に現代にて、もう生粋(きっすい)の「哲学者」などどこにも存在しないのだから、みな大学の文学部哲学科あたりに入学して必ず時代専攻と研究対象の過去の哲学者ないしは学派を選択し、そこで「哲学(研究)者」のキャリアを始める。今日、哲学史を書く人は誰もが自身の専門研究の時代や人物テーマを持って、そこを拠点に研究する専門分化の分業の様相である。

ところが、そうした状況の中でも哲学史を分筆でなくして、古代から近現代まで全て一人で果敢(かかん)に書き抜く人が時にいるのだから誠に恐れ入る。

岩波新書の赤、熊野純彦「西洋哲学史」(2006年)は全二巻で「古代から中世へ」と「近代から現代へ」の二冊よりなる。熊野が「西洋哲学史」を古代から近現代まで全時代を複数人の分筆ではなく、全て一人で書き抜いている。通常「西洋哲学史」の全史を一人で著すのは当人にそれ相当な力量があると見なされなければ、そもそも出版社から企画の執筆依頼は来ないし、本人にもそれなりの自信の勝算がなければ、そういった大仕事は引き受けないものだ。ゆえに熊野の「西洋哲学史」全二巻は掛け値なしに面白い。

その面白さの源泉は、やはり熊野が一人で西洋の哲学の歴史をすべて執筆していることによる。同じ西洋哲学史にて今回の熊野純彦同様、全時代を一人で執筆した人は過去にいた。例えば、ラッセル「西洋哲学史」全三巻(1954─56年)や波多野精一「西洋哲学史要」(1901年)らだ。熊野の「西洋哲学史」の中でもラッセルと波多野の二人の名はよく出てくる。熊野は本書を執筆するにあたり、古代から近現代までの西洋哲学史を独力で書き抜いたラッセルと波多野の両著を相当に参考にし、また彼らをかなり意識していたに違いない。そのことは熊野の書きぶりから察せられる。

本書の全体の読み味は、各章を主な哲学者ないしは学派別に分けて各巻15章ずつで全二巻の全30章が従来哲学史のように哲学者の生涯紹介、主要著作の概要、中核思想の解説の定番ありきたりな通り一辺倒な解説では終わらないの好印象だ。あえて丁寧に易しく分かりやすい哲学史を記述しない。全てを分かりやすく解説し尽くさず、どこか含みを持たせた高踏的な論じ方で不十分に、時に各人哲学者の哲学史のパートを終わらせる。昨今は親切で丁寧な誰にでも分かりやすい解説の書籍ばかりがもてはやされ増えて、こういった不親切だが読み手の機転や前知識の総動員を要請して自(おの)ずと知らしめる「いかにも」な雰囲気のある間接叙述の粋(いき)な書物が滅多に見られなくなった。そうした点も熊野「西洋哲学史」は今日貴重であり、読まれるべき長所といえる。全部を親切丁寧に言葉を尽くして誰にでも分かりやすく子細説明してしまっては野暮(やぼ)ということも、実はある。

かつ各哲学者や学派各章を連続して読むにあたり、論述が単調繰り返しのマンネリにならないよう読み手を飽きさせないように各章の展開、頭の入り方記述を毎章変える工夫が見られる。こうした点は再三繰り返しているように、古代から近現代までの「西洋哲学史」を数人の分筆ではなく、熊野が一人で書き抜いているからこそできる効用に他ならない。

本書の執筆に当たり、著者の熊野純彦は三つの方針を立てている。

「この本は、三つのことに気をつけて書かれています。ひとつは、それぞれの哲学者の思考がおそらくはそこから出発した経験のかたちを、現在の私たちにも追体験可能なしかたで再構成すること、もうひとつは、ただたんに思考の結果だけをならべるのを避けて、哲学者の思考のすじみちをできるだけ論理的に跡づけること、第三に、個々の哲学者自身のテクストあるいは資料となるテクストを、なるべくきちんと引用しておくこと、です」(「まえがき」)

第一の「哲学者の思考がおそらくはそこから出発した経験のかたちを、現在の私たちにも追体験可能なしかたで再構成すること」は、今日の哲学傾向や現代思想の潮流に関連づけて「西洋哲学史」の過去の歴史的思想を新たに捉え直すということだ。この点で本書にて象徴的なのは、例えば第二巻の「第7章・言語論の展開」でコンディヤック、ルソー、ヘルダーの三人を一つの章にまとめて「言語論」の観点から扱っていることである。特にルソーに関して一つの独立した章を設けず比較的軽く論じている所に、私は衝撃を受けた。

ルソーは偉大である。ルソーは歴史的に過去に遡(さかのぼ)り、「文明」による人間の疎外状況を摘出した(「人間不平等起源論」)、マルクスに先駆けてある種の実践的哲学をなしたほぼ最初の人である。社会主義者も共産主義者も無政府主義者も左派の理論運動家は、最初にルソーを読まなければならない。ルソーから抽出できる思考は、まず理念があって(古代ギリシアのポリスの共和政とか中世自然法思想の伝統など)、その理念よりする現実政治や社会状況の至らなさの不足(近代のフランス革命や啓蒙思想家ら文明社会の現状)を徹底的に叩(たた)くというものだった。これはマルクスら、後の左派改革思想家に共通する基調の思考である。ゆえにルソーは偉大なのであった。

熊野「西洋哲学史」にてルソーが他の哲学者と三人まとめにされて言語論の視点から一括論述されるのは、熊野純彦が廣松渉の弟子であり、廣松渉その人が、実体理念を先天的に想定して、そこから理念と現実との乖離(かいり)や理念実現の不足を批判する従来的な左派理論の思考を物象化的錯認として厳しく戒(いまし)める実体論の立場を批判する哲学者であって、その関係論的立場に立つ廣松の哲学を熊野が正統に継承する人であるからに他ならない。ルソーに関する記述を始め、本書には先験的理念や規範の実在を批判する関係論からの、従来の実体論的な過去の哲学史を書き換えるような熊野の新しい哲学解説が目立つ。それが本書の魅力であるとまずは言える。まさに2000年代以降の新しい「西洋哲学史」の魅力がそこにある。

第二の「ただたんに思考の結果だけをならべるのを避けて、哲学者の思考のすじみちをできるだけ論理的に跡づけること」は、文字通り「ただたんに思考の結果」だけでなく、なぜそのような発想や思考に至ったのか、「哲学者の思考のすじみち」を世界史の時代状況や他の哲学者や文学者らとの人的交流に着目して哲学思想を総体的に論ずるということだ。これは「西洋哲学史」において以前にラッセルが極極的にやった。ラッセルの「西洋哲学史」は、副題が「古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との問題における哲学史」である。すでにラッセルの時点で、哲学者たちは過去の哲学史を記述するにあたり、単に哲学の歴史だけを専門に視野狭窄(しやきょうさく)に解説するだけでは不十分であり、「政治的・社会的諸条件との問題」の世界史的状況と関連づけて哲学史を立体的に考察しなければならないことに気づいていた。従来のように哲学の専門歴史を追跡するだけの哲学史は、その限界を知らされていたのである。ただ哲学を専門に個別に述べるだけでなく、哲学思想も時代の歴史に影響を受けたものであるから、その時代の政治体制や社会的事件と結びつけて考察されねばならない。それをラッセルは果敢にやったのだった。

一読して即わかるが、熊野純彦「西洋哲学史」はラッセル「西洋哲学史」を相当に意識し参考にして執筆されている。この意味で熊野「西洋哲学史」とラッセル「西洋哲学史」との読み比べをやってみるのも、また一興(いっきょう)の味読な読書の楽しみではないか。

熊野純彦「西洋哲学史」は歴史上の哲学者や学派、主な人物別に全30章からなる構成である。第三の「個々の哲学者自身のテクストあるいは資料となるテクストを、なるべくきちんと引用しておくこと」については、各章の扉ページに原典テクストから任意の一文が引用され掲載されている。過去に「哲学史」と名のつく概説書を読んで、「この著者は自分の専門以外の時代や人物や学派について実際に原著を読んでいないのではないか。もしかしたら他の哲学史書籍から引き写して適当にまとめているのでは!?」との不信感を抱かせる、専門プロの哲学(研究)者としてあるまじき怪しい記述の「哲学史」を私は過去に何冊か読んだことがある。各章の扉にその哲学者の思想を象徴凝縮したような資料テクストからの一文引用がある熊野の「西洋哲学史」は、そういった世間一般に出回っている直接に原書も読んだことがないのに、あたかも分かったふりをして、それとなく概説的に語る怪しい哲学史と自身の「西洋哲学史」とが違うことを予防的に表明している点でも優れている。

また具体的なテクスト引用にて、著者の熊野純彦の選択判断が実に冴(さ)えている。例えば第二巻における「第4章・モナド論の夢」では「すべての述語は、主語のうちにすでにふくまれている・ライプニッツ」、同書の「第11章・批判知の起源」では「かれらは、それを知らないが、それをおこなっている・ヘーゲル左派・マルクス・ニーチェ」の一文引用となっている。ライプニッツの哲学が、アリストテレス以来のヨーロッパ哲学の伝統たる「主語と述語」の文法規則に則(のっと)って存在論を考察展開させることを継承した、そのことが明確に伝わる一文を適切に引用している点、他方、ヘーゲル左派やマルクスの哲学の一つの柱の目玉が、いわゆる「イデオロギー暴露」であり、イデオロギーとは虚偽意識のことであって、まさに皆が「それを知らないが、それをおこなっている」ことがイデオロギー作用であることを鮮(あざ)やかに指し示す短くも的確な一文を鋭く選択して引用している点がそれぞれに非常に印象深く、岩波新書の赤、熊野純彦「西洋哲学史」全二巻には「熊野純彦は相当にデキる人だ」の好印象が読後の余韻として後々まで深く残る。