アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(497)保阪正康「昭和史のかたち」

一般に「××のかたち」といえば、そのものの実体や全体像を表す比喩として間接的に用いられる。例えば「新しい家族のかたち」とか、それこそ司馬遼太郎「この国のかたち」というように。ところが岩波新書の赤、保阪正康「昭和史のかたち」(2015年)は、昭和史の実体や全体像を「かたち」と比喩的に示すのではなく、そのまま直に「正方形」や「球」の幾何学図形の「かたち」に昭和史の各項目を落とし込んで数学の図式的に解説しようとする試みの書籍なのであった。著者の保阪正康は、本書の冒頭で次のように述べている。

「私は昭和史に関心を持つ在野の一言論人だが、昭和という時代を顕微鏡で見れば見るほど、この時代には日本人と日本社会のありのままの姿が凝縮しているように思う。…そこにはプラスとマイナスが奇妙な形で混在している。その昭和の姿を単に文章であらわすのではなく、幾何学的発想で用いて示したならわかりやすいのではないか、と私は考え続けてきた。昭和のさまざまな事件や事象を『かたち(図形)』にあらわすことで、その複雑さを解いてみようとの考えをもっていたのである」(「はじめに」ⅱページ)

これは正直、まいった(苦笑)。主に先の戦争に関する「昭和のさまざまな事件や事象」に関し、それを「単に文章であらわすのではなく、幾何学的発想で用いて示」す、「昭和のさまざまな事件や事象を『かたち(図形)』にあらわすことで、その複雑さを解いてみ」るとか、そんな面倒なことをやって理解しやすい昭和史解説になるのか!?事実、岩波新書の保阪正康「昭和史のかたち」を読んで非常に迂遠(うえん)である。本書にて主に先の戦争に関する昭和のさまざまな事件や事象を、あえて幾何学的発想で用いて、昭和のさまざまな事件や事象を「かたち」の図形にわざわざ落とし込むことの効用が全く感じられない。私が読んだ限りでは、むしろ余計に分かりづらくなっている。岩波新書「昭和史のかたち」の目次は以下だ。

「第一章・昭和史と三角錐・底面を成すアメリカと昭和天皇、第二章・昭和史と正方形・日本型ファシズムの原型、第三章・昭和史と直線・軍事主導体制と高度経済成長、第四章・昭和史と三角形の重心・天皇と統治権、統帥権、第五章・昭和史と三段跳び・テロリズムと暴力、第六章・昭和史と『球』、その内部・制御なき軍事独裁国家、第七章・昭和史と二つのS字曲線・オモテの言論、ウラの言論、第八章・昭和史と座標塾・軍人、兵士たちの戦史、第九章・昭和史と自然数・他国との友好関係、第十章・昭和史と平面座標・昭和天皇の戦争責任」

各章での述べ方は、まず「数学事典」らを参照し、そこから当該図形(「かたち」)の幾何学的定義や公式・定理の特徴を抽象的に紹介する、その上で主に戦争についての「昭和史」の具体個別的事柄を、先に示した図形・公式・定理の「かたち」に落とし込んで立体的に解説する、の手順をとる。

例えば「第二章・昭和史と正方形・日本型ファシズムの原型」では、「正方形とは頂点の数が四つの四角形で、AB、BC、CD、DAの四辺はいずれも等しく、ABCDの角もすべて等しい、つまり直角ということになる」とした上で、昭和ファシズムあるいは近代日本の超国家主義を正方形に例えて、この正方形の四辺は「情報の一元化」「教育の国家主義化」「弾圧立法の制定と拡大解釈」「官民挙げての暴力」であり、これら四辺から次第に、しかし強力に国民を「檻(おり)」のように囲い込んでいくのが「昭和ファシズムあるいは近代日本の超国家主義の原型」であると図式化して解説している(17─36ページ)。

確かに本書にあるように、昭和のファシズムないしは近代日本の超国家主義は「情報の一元化」と「教育の国家主義化」と「弾圧立法の制定と拡大解釈」と「官民挙げての暴力」の四つの要素からなることを私は否定しないし、その内容には同意する。けれども、それをわざわざ「正方形」という幾何学図形の「かたち」に落とし込んで数学の図式的に昭和史を解説し理解することに大した意味があるのか。普通に先の4項目を箇条書きで挙げて、単に解説すれば済むだけの気もする。

この疑問の違和は、他の章での解説でも同様だ。しかも前半の章では「正方形」とか「直線」とか「三角形の重心」など、比較的わかりやすい基本的な幾何学図形のたとえで、その妥当性はともかく一応の理解はできるものの、後半の章になると「S字曲線」とか「自然数(1と素数と合成数)」とか「フェルマーの定理」など、なかなか複雑な数学の概念・定理が出てきて、さらにそれらが無理筋に強引に昭和史に適用されていくので読んでいて意味が分からなくなる。特に最終章の「フェルマーの最終定理」の変数の各項に「国民」「天皇」「政治体制」「象徴」らを自由に勝手に当てはめた日本の近代天皇制についての昭和史解説は全くの意味不明で、さすがに独りよがりの暴走で思わず失笑。著者の保阪正康が的(まと)外れにやりすぎの感が、どこまでも拭(ぬぐ)えない。「保阪よ、数学の幾何学図形の『かたち』とか定理とかどうでもいいから、普通にマジメに『昭和史』を書いて語れ(怒)」。

本論の、主に先の戦争に関する「昭和のさまざまな事件や事象」に対する著者の解釈や史料・各種エピソード引用の適切さの昭和史解説には、そこまでの強い反対・批判の異論はない。近代日本の歴史を超国家主義として好戦的な軍事優先の政治体制を問題とし、それに批判的である保阪正康の歴史認識の立場に私も近い。ただし一部、例えば最終章での「昭和天皇の戦争責任」らの保阪の解釈には、私は強く反論・批判するけれど。

一読して、著者がいう「史実を図形(かたち)化してみること」の「昭和史」解説の効用が一貫して全く感じられない、近年の岩波新書の中ではなかなか珍しい迷走の「迷著」たる岩波新書の赤、保阪正康「昭和史のかたち」であると私には思えた。

「『昭和』 とは、いかなる時代だったのか?なぜ、どのように、泥沼の戦争へと突き進んだのか?天皇、政治家・軍人、知識人、庶民らは、どう戦前・戦後を生き、時代を形づくったのか?遠くなりゆく『昭和』を、局面ごとの図形モデルを用い、大胆に解説。豊富な資料・実例を織り込み、現代に適用可能な歴史の教訓を考える」(表紙カバー裏解説)