アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(520)今野元「マックス・ヴェーバー」

2020年は社会科学者であるマックス・ヴェーバー(1864─1920年)の没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が数多く刊行された。今回の「岩波新書の書評」で取り上げる新赤版の今野元「マックス・ヴェーバー」(2020年)も、そのうちの一冊である。

「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をはじめ、今も読み継がれる名著を数多く残した知の巨人マックス・ヴェーバー(一八六四─一九二0)。その作品たちはどのようにして生み出されてきたのか。百花繚乱たるヴェーバー研究に新たな地平を拓く『伝記論的転回』をふまえた、決定版となる評伝がここに誕生」(表紙カバー裏解説)

これまでのマックス・ヴェーバー研究では、彼の主要著作を任意に挙げその都度、読み方解釈が解説なされてきた。例えばヴェーバーの代表作「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)、「職業としての学問」(1917年)、「経済と社会」(1921年)らに関し、その言わんとする内容を適切に読み取り、それをマックス・ヴェーバーの業績の高評価につなげ、さらにこのヴェーバー著作から読み取れる所を現代社会や特に近代日本の歴史に落とし込んで、現代社会の問題指摘や日本の近代化批判に活かすような研究操作が一般的であった。そして、このような手法を取る従前のマックス・ヴェーバー研究の蓄積は膨大な数に上(のぼ)る。まさに「百花繚乱たるヴェーバー研究」の様相であるのだ。

今般の今野元「マックス・ヴェーバー」は、それら先行研究とはヴェーバーへの近接方法が少し異なっている。つまりは従来のようにヴェーバーの著作を任意に挙げて、読み方の解釈を自由に論じるのではなく、彼の生誕から逝去まで、同時代のドイツの歴史を随時参照しながら時系列の年単位で厳密に人生の行く筋を追跡することにより、マックス・ヴェーバーの生涯とその思想的営みの内実を見極めようとする「評伝」記述の手法を一貫して取っているのである。著者は本新書冒頭にていう、

「本書は、マックス・ヴェーバーの『人格形成物語』を描く試みである。その狙いは、個別作品の鑑賞ではなく、それを生み出した文脈、つまりヴェーバーの生涯およびそれを取り巻く歴史的文脈の解明にある。こうした手法的転換を、本書では『伝記論的転回』と読んでいる」(「はじめに」)

また本書巻末にても、

「私はヴェーバー研究の『伝記論的展開』を提唱している。…作品解釈に没頭する従来の研究手法を転倒させ、書簡などを用いて作品の背後にあるヴェーバーの生涯を整理することにした。というのも、思想とは結局のところ、状況に応じた対機説法にほかならないからである。それはちょうど、映画をそのメイキング映像と合わせて鑑賞するようなものである。思想研究と歴史研究との融合と言ってもよい」(「おわりに」)

なるほど、マックス・ヴェーバーにおける個別作品の解釈ではなく、「伝記」を押さえ理解することの「手法的転換」を通してなされる、本書はヴェーバーその人についての「人格形成物語」である。確かに、本書は著者みずからが言う通り「伝記研究」なのである。没後百年の節目で手に取り読んだ幾つかのヴェーバー関連書籍のうち、岩波新書の今野元「マックス・ヴェーバー」は、私には強く印象に残った。読んで新鮮に感じた。というのも、これまで主に私か読んできたマックス・ヴェーバー研究は、任意の著作を主に挙げて読みの解釈を自由に論じる方法、著者がいう所の「作品解釈に没頭する従来の研究手法」に依拠するものがほとんどで、そこまで時系列の評伝記述にこだわったヴェーバー研究を意識的に読んだことがなかったので。

私は、これまでマックス・ヴェーバーについては経済史学者の大塚久雄(1907─96年)のものを中心に愛読してきた。2000年代以降の現在ではそうでもないが、日本の戦後(1945年)から大塚が存命中の1990年代くらいまでは、大塚久雄は日本におけるマックス・ヴェーバー研究の第一人者であり大家であって、ゆえに影響力があった。何よりもヴェーバーの代表作である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を本格的に日本語全訳(1955年、岩波文庫)したのは大塚久雄であったし、大塚は十五年戦争時の戦中から1945年の敗戦を経ての戦後民主主義の時代に至るまで、いつの時でもヴェーバーに言及し続けた人だった。

大塚はマックス・ヴェーバーを通して、戦時の天皇制ファシズムの神権性・非合理への傾斜の前近代的なものを合理的な近代主義の立場から後に明確に批判できたし(「魔術からの解放」1946年)、他方で「精神なき専門人、心情なき享楽人」といった近代人の疎外状況や近代社会における画一的個の強制、官僚主義のセクショナリズムの問題指摘(「生活の貧しさと心の貧しさ」1978年)の反近代主義の論説も同時に展開できた。大塚久雄はヴェーバーに絡(から)めていつの時代でも近代化論の是非議論にて自在であった。そうした大塚久雄から主にマックス・ヴェーバーを学び知った私には、その都度、大塚が提示するヴェーバー像の読み解きに夢中で各論の断片がバラバラにあった。そのため今回、改めて今野元「マックス・ヴェーバー」を手に取り、ヴェーバーの生涯を時系列で評伝的に追跡し読めて、それが新鮮で新たな感慨であったのだった。

本新書を読んで、ヴェーバーの学問を志(こころざ)す学生時代から論文・著作執筆にて世に知られ大成する成年期、さらには精神的不調に悩まされる壮年期、晩年とその生涯の評伝記述を読むにつけ、マックス・ヴェーバーその人への理解が深まる。本書巻末の「マックス・ヴェーバー略年譜」を見るにつけても、ヴェーバーの学歴と職歴、公演録と論文・著作の発表、病歴や海外渡航の履歴まで西暦年だけでなく詳細な日付まで記述してあるのは、本文ともどもに読んで大変に参考になる。この点で本書は有益である。本新書を一読して「人に歴史あり」の率直な感慨を私は持つ。

1860年代から1920年までのヴェーバーが存命した時代の母国ドイツは、普仏戦争(1871年)でのフランスに対する勝利を経て、宰相のビスマルク、そして皇帝のヴィルヘルム2世の親政により大きく発展しドイツ帝国は世界各地に覇権を広げ英仏と激しく対立する帝国主義的世界政策を推進して、しかし第一次世界大戦の勃発(1914年)にてドイツは敗北を喫し、ついで戦時の国内反乱にてのドイツ革命でドイツ帝国が崩壊し皇帝は亡命してドイツ共和国の成立(1918年)を見るというドイツ国民にとっては激動の時代であった。そのような時代に生きて、マックス・ヴェーバーが若い時代に当時の「最新」流行であった社会ダーウイニズムへの傾倒にて優勝劣敗で自然淘汰の社会思想に基づき、自身のドイツ国民でゲルマン民族である強者の立場から社会的弱者であるポーランド労働者排斥を唱えた。また第一次世界大戦の開戦時、ヴェーバーはすでに50歳で健康に優れなかったが、予備役招集に応じ自ら戦地に行っている。戦時の彼はドイツ人同胞の精神的高揚に感激し、まさに愛国的であった。ヴェーバーが第一次大戦時にドイツの参戦に高揚しドイツの勝利を心底願って、ある種の排外的民族主義やナショナリズムにのめり込んでしまうのも致し方ないことであった。

かのマックス・ヴェーバーといえども学問的真理や正しい倫理思想に常にたどり着けた誤謬(ごびゅう)なき超人などでは決してなく、彼も時代と共に生きてその時々の歴史の風潮や社会の大勢に影響を受け左右される「時代の子」であったのだ。

今野元「マックス・ヴェーバー」では、ヴェーバー評伝の最後に「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」の終章を置き、ヴェーバーとヒトラーの共通部分を挙げて本論記述を結んでいる。

「二人(註─ヴェーバーとヒトラー)の共通部分の背景にある共通基盤とは何なのか─それはやはり主体性の希求を通じた『闘争』の志向だろう。従来は、主体性(近代的自我)とは抑圧と侵略とに抗する砦(とりで)であり、その涵養(かんよう)が戦後(=第二次世界大戦後)日独の政治課題である。…主体的な人間は他者との対決を厭(いと)わず、また自分が帰属意識を有する集団にも主体性を求めることがあって、それが行き着けば排除にも戦争にもなる」(「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」)

ヴェーバーが没した1920年にヒトラーはドイツの政治の表舞台にまだ登場していない。1920年のヒトラーといえば、第一次世界大戦でドイツ帝国の義勇兵として戦場に赴くも、マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより病院に収監。入院中に第一次大戦が終結して、この後、ドイツ労働者党の活動に入り軍を除隊。ヴェーバーが56歳で没した1920年にヒトラーは31歳で、ヒトラーがナチ党で最初の国政選挙に臨み国会議席獲得を果たして、いよいよ政治の表舞台に大々的に登場し人々に注目されるのは、この8年後のヒトラーが39歳の1928年であり、時間的に大きな隔(へだ)たりがある。ヴェーバー評伝の最後にヒトラーを連結するのは、いかにも唐突である。

当然、ヴェーバーとヒトラーとの間に直接の交流はない。にもかかわらず、「二人の共通部分の背景にある共通基盤とは何なのか─それはやはり主体性の希求を通じた『闘争』の志向だろう。…主体的な人間は他者との対決を厭わず、また自分が帰属意識を有する集団にも主体性を求めることがあって、それが行き着けば排除にも戦争にもなる」とまで述べて、ヴェーバーにおける近代人の主体性の強調が、そのまま後の時代のドイツのヒトラーにおける排他的民族意識や軍事的侵略主義の社会国家主義のファシズムに直結して、あたかもヴェーバーが後のヒトラーの思想的階梯(かいてい)の前段階をあらかじめ用意したような書きぶりになっている。その上でヴェーバーにもヒトラーにも両者に共通するのは「近代的自我による主体性の希求を通じた『闘争』の志向」の「悲劇」であり、それゆえマックス・ヴェーバーの生涯の評伝記述の見出しのラベルは「主体的人間の悲劇」になるのである。確かに、岩波新書の今野元「マックス・ヴェーバー」のサブタイトルは「主体的人間の悲喜劇」なのであった。

この辺り、マックス・ヴェーバーも時代と共に生きてその時々の歴史の風潮や社会の大勢に影響を受け左右される「時代の子」であったので、第一次世界大戦前後のドイツの民族主義やナショナリズムに傾倒するのも仕方のない気がする。たとえヴェーバーが一時的に当時の「最新」流行であった社会ダーウイニズムへの傾倒にて優勝劣敗の自然淘汰の社会思想に基づき、(後のヒトラーによるナチス・ドイツのユダヤ人排斥やファシズムの侵略主義を連想させるような)自身のドイツ国民でゲルマン民族である強者の立場から社会的弱者であるポーランド労働者排斥を唱えたり、第一次大戦時にドイツの参戦に高揚しドイツの勝利を心より願って自国の勝利に熱心であったとしても、それら評伝記述の状況歴史的な言動以外の所で、ヴェーバーの学問的業績の価値や意義が損なわれることなない。思えば、ヘーゲルは同時代のフランス革命時のナポレオンに一時は心酔していたし、ハイデッガーも第二次世界大戦時の母国ドイツのヒトラーに共感を寄せ支持していた。だが、それら状況歴史的な実際の言動と彼らの哲学思想の業績はやはり別物である。

またマックス・ヴェーバーの生涯をして、「近代的自我による主体性の希求を通じた『闘争』の志向」=「主体的人間の悲喜劇」などと後の時代のヒトラーと同一視して論じまとめているが、そもそも近代という時代は、状況や対象に対し人間個人の自我が積極主体的に働きかけて認識し思考し発言して行動する「主体性の希求」発露の時代なのであって、その人間個の主体性の発露をヒトラーの自伝「わが闘争」(1926年)に暗に引きつけて「人間の主体性の希求」=「闘争の志向」などと大げさに言う必要もない。確かにマックス・ヴェーバーは近代ドイツに生きた人なので、彼に「近代的自我による主体性の希求」はあったが、それはヴェーバーのみならず、同様に近代の時代に生きたヒトラーにも、また現在この文章を書いている私にも、そしてこの文章を読んでいるあなたにも、つまりは近代の時代に生きる人には誰でも普通にあるものだ。近代の時代に生きる人には誰にでも、おおよそ「近代的自我による主体性の希求」といったものはある。

マックス・ヴェーバー評伝にて、「近代的自我による主体性の希求を通じた『闘争』の志向」、それはすなわち「主体的人間の悲喜劇」などと大げさに呼び、ヴェーバーを後の時代のヒトラーと一括し同一視して乱暴にまとめてしまうのは、本書を最後まで読んで正直、馬鹿らしい思いもする。岩波新書の赤、今野元「マックス・ヴェーバー」を手に取り、ヴェーバーの生涯を時系列で評伝的に追跡し読んで、それが従来のヴェーバー研究の近接方法とは異なり新鮮で新たな感慨を引き起こす良評価の側面があったとはいえ、少し残念な結語の読み味である。

岩波新書の書評(519)川名壮志「記者がひもとく『少年』事件史」

岩波新書の赤、川名壮志(かわな・そうじ)「記者がひもとく『少年』事件史」(2022年)の表紙カバー裏解説文は次のようになっている。

「白昼テロ犯・山口二矢、永山則夫、サカキバラ、…。殺人犯が少年だとわかるたびに、報道と世間は、実名か匿名か、社会の責任か個人の責任か、加害・被害の立場の間で揺れ、戦後から現在まで少年像は大きく変わった。二0歳から一八歳へ成人年齢が引き下げられる中、大人と少年の境の揺らぎが示す社会のひずみを見つめる」

「記者がひもとく『少年』事件史」の著者・川名壮志は本書執筆時、毎日新聞社の「記者」である。そのため、本書のタイトルは「記者がひもとく『少年』事件史」となっているわけである。現役の新聞記者が概説する戦後日本社会の少年事件史であり、全8章に渡り、戦後復興期から本書執筆時の2020年代までの、当時より社会的に注目を集め人々を騒がせた主要な「少年事件」(20歳未満の未成年者が主犯の殺人事件)を取り上げている。 

本新書の読み所のウリは、いわゆる「少年事件」の概要(犯行状況、刑事裁判の結果、事件発生の社会背景・時代傾向)に加えて、事件発生直後の第一報から後日の続報に至るまで、朝日、読売、毎日新聞の全国紙3社の見出しを必ず挙げている点である。その上で当時の日本社会で未成年者による殺人事件がどのように人々に報じられ、共有されていたかを分析している。この新聞報道に依拠している点において、本書はまさに「(新聞)記者がひもとく『少年』事件史」であるのだ。また本書のサブタイトルは「少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す」であった。

なるほど、戦後から今日までの主要な「少年事件」を新聞というメディアを通し概観することの利点は確かにある。著者は本論にて以下のように述べている。

「『少年』像が時代によって変容することを示す格好の資料、それが新聞紙面だ。デジタル時代とは違い、アナログな新聞紙は、紙幅に限りがある。政治や経済、社会で起きたニュースと比較しながら、必然的に少年事件の記事の扱いが決まる。特に記事の扱いをめぐっては、大人の事件よりも、少年事件の方が、より世相と結びついている。掲載されたページ、見出しの取り方、記事のボリューム。紙面でどう扱われたかをみることで、当時の世相の関心や、時代の息づかいをたどることができる。速報性のメディアである新聞も、長い歳月でたどると、鮮(あざ)やかに『歴史』を浮き彫りにすることができるのである。そして、こうして事件をたどってみると、朝日、読売、毎日とも、紙面での扱いには、大きな違いがないことがわかる」(「なぜ新聞?時代が変える少年事件」)

私はそこまで殺人事件一般や20歳未満の未成年者による犯罪事件に日頃から関心を持ち、特に調べているわけではない。しかし、本書で扱われている「少年事件」のことは不思議とだいたい知っていた。戦後の早いの時代に私はまだ生まれていないが、「戦後復興期・揺籃(ようらん)期の少年事件・少年事件は、実名で報道されていた!」の章で扱われている、例えば連続ピストル射殺事件(1968年、19歳の少年、永山則夫による連続殺人事件。1990年に死刑判決が確定。1997年に死刑執行)は、戦後史の中の重大事件の歴史のひとコマとして知っている。永山則夫による一連のピストル射殺事件は、極刑の死刑を下す際の後の判例根拠となる「永山基準」(日本の刑事裁判にて死刑を選択する際の量刑判断基準のこと。一般に殺人事件にて、被害者が1人なら無期懲役以下、3人以上なら死刑、2人ではボーダーラインとされる)を供する司法案件であり、「少年事件」であるか否かに関わりなく、戦後日本の司法の中で大変に大きな事件であった。

また光市母子殺人事件(1999年、18歳の少年による母子殺人事件。2012年に死刑判決が確定。現在は死刑囚として勾留中)は、被害者家族が実名・顔出しで会見を行い、その遺族の言動に対抗するかのように、加害側の少年も獄中からの手記や面会人との面談で自身の犯行を正当化したり、被害者遺族を挑発するような発言をなした極めて異様な事件だった。「遺族の絶望感情を回復させるために極刑の死刑を望む。被告が未成年であることで死刑が回避され、少年法による保護処分で後に加害少年が社会復帰を果たすなら、そのときは自分の手で殺す」旨の被害者遺族の過激発言で、本件を通し「社会経験少なく人格的に未熟な未成年者には刑罰と共に矯正更生も重視する少年法の精神の保持か、さもなくば遺族の無念と復讐感情に配慮し未成年者へ厳罰化の方向での少年法の改正(さらには未成年への配慮なしに成年と同様に責任を取らせるべく少年法の廃止)か!? 」の狭量な二者択一の、かなりいびつな社会議論がいつの間にか形成されていた。この頃から「少年事件」に対し、加害者である未成年者への酌量・矯正更生よりも、被害者と遺族の無念・復讐感情を満たす厳罰の方向へ大衆世論は大きく転回したのであった。この点を的確にとらえ表した、本書での光市母子殺人事件の「少年事件」を扱った章タイトル「少年事件史の転生・加害者の視点から被害者の視点へ」は秀逸である。

岩波新書「記者がひもとく『少年』事件史」の著者である川名壮志には、「謝るなら、いつでもおいで・佐世保小六女児同級生殺害事件」(2014年)という著作もある(2018年に新潮文庫に収録)。川名「謝るなら、いつでもおいで」は佐世保小6同級生殺人事件(2004年、11歳の少女が同級生少女を学校の教室で殺害。刑罰を科されない触法少年のため、児童自立支援施設に送致)を取材し、まとめたものである。被害女児の父親は新聞社支局長であり、新聞記者の著者・川名壮志の直属上司であるという。本書タイトルになっている「謝るなら、いつでもおいで」は事件を受けて後年、加害少女へ向けての被害者の兄の言葉である。佐世保小6同級生殺人事件は11歳の小学生女子が学校教室内で同級生女子を殺害するという、未成年の「少年」(20歳未満で14歳以上)ですらない、まだ「子供」(14歳未満)による殺害犯行であることに社会は衝撃を受けたのだった。少なくとも当時、リアルタイムで事件の全容を知って私は驚愕した。

川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」は読んで相当につらい内容だが、やはり同時代の同じ社会に生きる人間として一度は読んでおくべきだろう。殺人事件に関するルポで事件被害者の思いを述べた名著に、以前に新宿西口バス放火事件(1980年)の被害者の手記、杉原美津子「生きてみたい、もう一度」(1983年)があった。川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」は、杉原美津子「生きてみたい、もう一度」を思い起こさせる力作である。両書ともに殺人事件に巻き込まれた被害者と遺族が加害者に対し、そのままの直情的な憎悪の復讐感情や仇討ちの心情で処するべきではない、凶悪犯罪への理性的で社会的な向き合い方を、他ならぬ一番つらいはずの被害者当人、被害者家族が直に読む者に教えてくれる。未読な方は是非。

岩波新書の書評(518)「シリーズ中国近現代史」全6巻

近年の岩波新書は中国史関連の書籍が充実している。19世紀の清朝から始まる現代までの中国史概説である「シリーズ中国近現代史」全6巻(2010─17年)を、それとなく手に取り、全巻読了して弾切れになった所で、今度は、黄河文明の古代から清朝の19世紀までを概説した「シリーズ中国の歴史」全5巻(2019─20年)があったので続けて全冊読んで、結局のところ数カ月のかなりの長い間、岩波新書の中国史書籍を私は読みふけっていたのだった。

こうした2010年代以降の、近年における岩波新書の中国史関連への力の入れ方は今日、中国が急速に大国化し政治的かつ経済的にグローバルな世界の中で大きな存在感の多大な影響力を有して、もはや世界の人々は中国の存在や振る舞い動向を注視せざるを得ず、そうした時流の中で今一度、現代の大国たる中国の成立から今日に至るまでの出自と展開の歴史を概観し総括しておくべきとする強い問題意識が、出版元の岩波書店にあるからだと思われる。

現代中国が強力に推し進める中国を起点として東南アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカを連続で結ぶ広域経済圏構想である「一帯一路」や、近い将来に勃発が懸念されている台湾海峡有事、すなわち中国本土に台湾を回収する中国共産党指導部にとっての悲願の念願たる「一つの中国」ら、確かに今日の大国・中国の動向に世界の人々は注目せずにはいられないのである。

私は、NHK「映像の世紀・バタフライエフェクト」(2022年─)のテレビ番組を楽しみでほぼ毎週視聴しているが、当番組での「竹のカーテンの向こう側・外国人記者が見た激動中国」「ふたつの超大国・米中の百年」など、中国関連の特集回は強く印象に残る。

近年、急速な大国化の懸念から現代中国に対する発言・言及や報告・評論の文章は多い。もともとの反共論者で、いわゆる「共産主義者嫌い」から共産党指導体制の中国をあからさまに悪く非難したり、中国への敵意の当てつけから、中国と現在敵対関係にある台湾やチベットに異常に肩入れして親身に味方する人達も多い。それら現代中国に関する言及や記述で、それが真面目に傾聴したり熟読したりするべきものであるかの私なりの判断基準を最後に示しておこう。

現代中国に関して、19世紀のアヘン戦争から1945年の第二次世界大戦の東アジア戦線終結の間まで、欧米列強と日本に干渉され侵略され領土分割され、蹂躙(じゅうりん)され続けて散々な苦杯の屈辱をなめさせられてきた近代中国の歴史を全く踏まえることなく、現代中国の高圧的なナショナリズムの高揚、国際政治における大国主義的で覇権的な中国の振る舞いをそのまま無邪気に直接に痛烈非難するような、中国や中国の人々に対する感情的な批判言辞には、大して真面目に傾聴したり熟読したりする必要はない。それらは軽く聞き流し、読み流してよい。そこには現在の中国の過剰な愛国主義や大国ナショナリズムの台頭由来への内在的考察の配慮が欠けているからである。

今日の中国に大国主義や覇権主義の高圧的ナショナリズムを読み込んで中国を悪く言い募(つの)ることは比較的たやすい。むしろ安直すぎる。それ以前に中国近現代史を学んで、「なぜ中国が今のような頑(かたく)な帝国主義的国家になってしまったのか」を考えるべきだ。中国近代史において、あそこまで日本を加えた欧米列強に中国本土が支配され蹂躙されていなければ、かつて諸外国から領土分割され帝国主義支配を受けたという屈辱のルサンチマン(怨念)に満ちた、現在のような逆上した高圧的な覇権国家の中国は成立しなかったのでは、と私には思える。近代中国史を学び知るにつけ、中国の人たちは誠に気の毒である。

特に冷戦後の東アジア情勢は、欧米諸国と日本が中国に対する後先を考えずに奔放であった、かつての自分たちの中国に対する帝国主義的侵略行為の跳ね返り、過去よりの、いわば「世界史の負債」をいまだ各国ともに払わされ続けているのだ。

例えば、幼少期から青年期に肉体的ないしは心理的虐待やいじめや貧困の相当な困難があって現在、妙にひねくれていたり、時に暴言・暴力的であったりするような問題人物がいたとして、その人の過去の生い立ち事情を知っているなら、当人に対し頭ごなしに叱咤したり感情的に激怒したりの人格否定のようなことはしない。少なくとも私はそういう人に接した際には、短絡的で直情的な非難の攻撃は絶対にやらないのである。そうした問題人物の奔放な言動を全肯定で容認し放置することはないにしても、熟考してより慎重に宥和(ゆうわ)的に穏やかに対応するだろう。

岩波新書の書評(517)田中彰「小国主義」(その3 石橋湛山)

前々回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、前回と今回で中江と石橋について改めて個別に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は、大正・昭和の経済評論家であり政治家である石橋湛山についてである。

「石橋湛山(1884─1973年)は経済評論家、政治家。 『東洋経済新報』の記者。大正デモクラシーの風潮のもとで、小日本主義といわれる朝鮮・満州など植民地の放棄、平和的な経済発展などの政策を提唱。のちに東洋経済新報社社長。第二次世界大戦後、第1次吉田内閣の蔵相。1956年首相。日中・日ソ国交回復に尽力するも、病気のため2ヶ月で総理を辞任」

石橋湛山は大学卒業後、新聞社に就職しジャーナリストとして活動して、その都度、数回に渡りみずから志願し軍隊に入隊している。その後、経済専門誌出版事業の東洋経済新報社に入社する。「東洋経済新報」誌上で経済評論を発表し続け、やがて頭角を現し、東洋経済新報社の主幹(編集長)を経て代表取締役(社長)となる。石橋湛山は現場の叩き上げの経済記者から東洋経済新報社の社長にまで登り詰めたのであり、非常に優秀である。石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつも私はする。

石橋湛山は「小日本主義」を唱えた。小日本主義とは大正・昭和の時代、政府がとる軍事による大陸侵出の膨張路線である大日本主義に対し、平和的な貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州らの日本の植民地放棄を主張する立場である。特に満州事変後と韓国併合後の、満州と韓国の日本による植民地支配と外地への日本人移民の流出を強く批判したことから、小日本主義は「満韓放棄論」「移民不要論」と呼ばれることもある。石橋は小日本主義の論陣を張って、同時代の対華二十一カ条要求、シベリア出兵、満州事変ら大国主義の政治を厳しく批判した。 

石橋湛山の小日本主義の植民地政策批判に関しては、「どういった理由で石橋が、当時の政府にとっての最重要国策である東アジアへの大陸膨張路線の新たな植民地の獲得・経営たる大日本主義を批判し、台湾・朝鮮・満州の植民地放棄を説いていたか!?」その内容を見極める必要があるだろう。石橋湛山による小日本主義の主張は、「青島は断じて領有すべからず」(1914年)、「一切を棄(す)つるの覚悟」(1921年)、「大日本主義の幻影」(1921年)らの評論にてその都度、展開されているが、各論説ともに毎回連続し通底してある「日本が植民地放棄をすべき」主な論拠は以下の2点に集約される。

(1)日本が東アジアの大陸に侵出を重ね多数の植民地を獲得し植民地経営しても、何ら経済利益が見込めない。むしろ日本内地から台湾・朝鮮・満州の外地の植民地への資産持ち出しや現地支配の行政コストにより、日本の植民地経営は毎年、累積赤字が膨らむ一方であり、植民地の獲得・経営は経済的に無価値である。「日本の帝国主義的な覇権伸張」といった自国の領土拡大という目先の「小欲」の満足に溺(おぼ)れることなく、大局的見地から日本にとっての本当の意味での国益を考えるとき、一切の植民地を放棄をして、内地のみの小日本主義に徹するべきである。

(2)東アジアにて日本が奔放自由に軍事衝突の戦争を仕掛け戦勝にて多数の海外植民地を得ることは、中国分割など同じくアジア侵出を進める欧米列強の反感を買い、遂には日本が「極東の平和に対する最大の危険国」と見なされ警戒される。それで日本が国際的に孤立すれば諸外国との通商貿易にて大きな障壁となり、日本の国益を著(いちじる)しく損ねる。また軍事侵攻により露骨に中国侵略して現地の中国人に「不抜(ふばつ)の怨恨」を抱かせ結果、日本製品不買(ボイコット)運動ら海外市場からの締め出しを日本企業が喰らう懸念もあり、通商上、植民地獲得で大国化の膨張路線は日本にとって得策とは言い難い。ゆえに、わが国は植民地放棄の小日本主義に徹した方がよい。

これら石橋による、小日本主義における2つの「日本が植民地放棄をすべき」主要論拠が、いずれも日本にとっての経済的なコスト原則の損得勘定に依拠していることに留意されたい。思えば、石橋湛山は「東洋経済新報」の記者が出自の経済評論家なのであって、同時代の日本の海外政策を考える際にも最後はことごとく日本にとっての経済利益の話に収束させて、そうした経済的観点から思考判断するのが常であった。この意味で冒頭で述べた、石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつもするの、私の感慨理由も納得して頂けると思う。

石橋は台湾や朝鮮や中国の人達に対し、民族自決の原則を尊重し彼らのことを思って東アジアの人々の各国の独立を認めるような、他者の権利保障の規範原則の立場から、日本による海外の植民地支配批判の小日本主義を主張したのでは決してない。当面の日本にとって軍事侵略による植民地の獲得・経営が、日本の経済利益に全くなっていない(むしろ、逆に多大な経済損失を日本にもたらしている)という理由により、当時の日本の国策たる大国主義を批判し植民地放棄の小日本主義を彼は力説したのである。当の石橋湛山からすれば、日本の繁栄のために植民地は経済利益の点で全く必要でない。事実「朝鮮、台湾、樺太ないし満州は日本にとって経済利益に何らなっていない。だから、それら地域に対しては 『自由解放 』の政策で処するべき」旨の単純素朴な考えなのである。このように、民族自決の原則を尊重して東アジア地域の人々の解放と各国の独立を認める、他者の権利保障の規範原則の立場よりの日本の植民地放棄の主張では全くないことから、石橋は、例えばイギリスによるインドの植民地支配に関し「英国にとってインド支配は大いなる経済利益がある」ため肯定し、欧米列強によるアジアの植民地支配は積極的に認めて好意的であった。

日本にとっての経済利益の国益を考えた場合、軍事の戦争による大国化の膨張路線(大日本国主義)は得策でないので植民地の獲得・経営に依(よ)らない形で、つまりは日本は植民地放棄をして、直接の戦争による戦禍を出さない非軍事的な大陸アジアへの経済進出を果たすべき、の石橋の本意であるのだ。もともと日本が海外の東アジアへ侵出を果たすべきの日本国繁栄の念願はあるが、ただその実現のための現実的な方法として、軍事による戦争や植民地の獲得・経営のあまりに露骨な「力(暴力)の手段」に頼らないというだけなのであり、何も石橋湛山その人が戦前日本の軍国主義や日本による東アジアの植民地支配そのものを正面から問題視し、正当に批判していたわけでない。

台湾や朝鮮や中国ら東アジア領土分割の実質的な現地支配に、日本を加えた欧米各国が邁進していた当時の国際政治下にて、大陸アジアでの利権獲得に際し目に見えた戦禍を伴わない、直接の軍事行動(つまりは戦争)と植民地獲得以外での非軍事で経済的な日本によるアジア支配を石橋湛山は主張しているのであり、確かに戦争否定の日本の軍国主義批判で表層は「平和主義」的論調であるが、経済利益の点でイギリスによるインドの植民地支配を容認するなど、近隣アジアの人々の民族自決や独立解放を何ら強く訴えていないことから、石橋湛山は決して民主的な自由主義者、人道的な反戦平和主義者ではなかった。

ここに至って、石橋湛山が戦前の軍国日本の植民地政策を現象的に批判し、植民地放棄の「小日本主義」を主張したからといって、近代日本にて大勢を占めた当時の戦争翼賛の軍国主義に抵抗する、「例外的で貴重で希(まれ)な自由主義者であり反戦平和主義者」と即断して安易に石橋を称賛するような軽率は慎(つつし)まなければならないだろう。「真のリベラリスト」といった安直な石橋評価は、もともと経済評論家であり、そのため極めて「経済的な」石橋湛山その人に対する本質的理解を欠いている。

さて、石橋湛山の生涯には戦前・戦中の小日本主義の論説をめぐる経済評論家としての活動に加えて、戦後にもう一つの人生のクライマックスがあった。石橋は以前の小日本主義に基づく日本の植民地政策批判(植民地放棄の主張)の過去から、敗戦後は戦時から日本のアジア侵略の軍国主義を批判していた数少ない「正統な自由主義者」「筋金入りの反戦平和主義者」であると一部の人達に相当激しく誤解されていたのである(苦笑)。そのため敗戦時の石橋湛山は「リベラルで民主的な好人物」と見なされ、世間の評判はそこそこ良かった。そこで戦後日本の新しい平和憲法の国政下にて衆議院議員総選挙に出馬し(石橋は左派リベラルの日本社会党から誘いを受けるも、これを断わり、あえて保守政党の日本自由党公認で出馬している)、何度か選挙に挑戦の末、見事当選を果たし、石橋は東洋経済新報社の記者・経済評論家から転身し晴れて政治家になる。初めは日本自由党に所属し、1955年の自由党と日本民主党との保守合同を経て現在の自由民主党(自民党)に参画した。石橋は自身が専門の経済分野に精通し、数々の経済政策で着実に実績を積み重ねて、後に自民党総裁となり、当時自民党が政権与党であったため、遂には石橋湛山は第55代内閣総理大臣となって、1956年に石橋内閣の組閣に至る。

だが、ここが石橋湛山という人の全くのツキのなさと言うか、不運の極みの人生の酷薄さと言うか、石橋は総理就任直後、脳梗塞の発作に倒れ、2ヶ月で内閣総理大臣を辞任。石橋内閣は早々に退陣を余儀なくされてしまう。石橋の首相在任期間はわずか65日であった。幸いなことに病状は回復し、1957年の内閣退陣の後も長く生きて石橋は1973年まで存命であったが、肝心の首相就任の大切な時期に脳梗塞の病に襲われ、内閣総理大臣の重責をまっとうできずとは、何よりも石橋本人が無念であったに違いない。部外者の私からしても、戦後の石橋湛山はいかにも気の毒である。

岩波新書の書評(516)田中彰「小国主義」(その2 中江兆民)

前回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、今回と次回で中江と石橋について、特に「小国主義」という観点にとらわれることなく自由に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は明治の思想家、中江兆民についてである。

「中江兆民(1847─1901年)は高知出身の思想家。岩倉使節団と共にフランスに留学、74年帰国。東京に仏学塾を設けた。1881年以降、『東洋自由新聞』で自由民権論を説く。1890年、衆議院議員となったが、翌年自由党土佐派の妥協に憤慨して議員を辞職。『三酔人経綸問答』を著す」

中江兆民は自身のフランス留学の経験からフランス流の急進的自由民権論を唱えて、民権運動の理論的指導者となった。近代日本における自由民権運動の理論的指導者では中江兆民、植木枝盛あたりが一流の一級である。彼らは薩摩・長州の藩閥政府以外の出自のために自身が明治新政府の要職に就(つ)けない個人的不満とか、維新後の四民平等による旧士族が没落の私的怨念や、地方出身者で自由民権運動を足がかりに何とか立身出世を果たし世に出てやろうの下流の野心もなく、確かに西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景があって、理論的であり理性的であった。中江兆民なら人民主権に裏打ちされた社会契約論、植木枝盛ならば天賦人権論に裏打ちされた抵抗権・革命権の主張というように。

中江兆民は、もともと漢学の心得がある上にフランス語の外国語ができるので、思想内容以前に兆民による人々の耳目を強くひき付けるフレーズや彼独自の造語など文筆の才にあふれており、非常に優秀である。同時代の自由民権論者や啓蒙思想家の中で中江兆民は頭ひとつ抜けている。

例えば、「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」(「日本人は昔から自分で作った哲学を持たず、確固とした主義・主張がなく、目先のことにとらわれて議論に深みや継続性がない」の意)の兆民の指摘は有名である。また明治憲法発布の当日、弟子の幸徳秋水によれば「兆民先生、通読唯(ただ)苦笑する耳(のみ)」で、中江兆民による「恩賜的民権から恢(回)復的民権へ」(「為政者から人民に施しとして与えられた限定つきの民権ではなくて、人民がみずからの手で獲得した権利へ発展させなければならない」の意)での、「恩賜的民権」「恢(回)復的民権」といった兆民独自の造語センスが抜群である。その他、兆民が帝国議会の衆議院議員辞職時の「(議場は)無血虫の陳列場」(「無血虫(むけっちゅう)」とは「血のない虫」で「冷酷でむごい人」の意味)という最後の去り際の捨てぜりふなど、実に傑作であり最高だ。私は今でもテレビで国会中継を視聴するとつい中江兆民の「(議場は)無血虫の陳列場」の言葉を思い出し、それを言い換え「議場は虫けら共の陳列場」とつぶやいて独り勝手に苦笑してしまう。

中江兆民はルソーの「社会契約論」を漢文調で抄訳した「民約訳解」(1882年)を出して日本に人民主権説を紹介したため、「東洋のルソー」と呼ばれることがある。「社会契約論」(1762年)を著した本家フランスのジャン・ジャック・ルソーは猜疑心が強く陰気で、いつも対人トラブルを起こし恋人や友人やパトロンらとの間で交際が長続きせず、自称「人間嫌い」の厭人病を発病して結果、すぐに孤立して孤独になってしまう、かなり気難しくて交際しにくい、周りの人達からして非常に扱いにくい困った人であった。他方「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民は無類の酒好きで、皆と酒を飲んででいきなり下半身を露出して往来に晒(さら)したり、宴会席で紙幣を100枚ほどばらまき芸者たちに拾わせては「ああ愉快、愉快」と大はしゃぎするような破天荒で人付き合いよく、友人らといつも楽しく過ごせる快活陽気な人だったのである。そのような豪快で好人物の兆民であってみれば、彼が「東洋のルソー」と呼ばれるのは何だか気の毒な思いがいつも私はする。中江兆民は日頃の深酒の痛飲がたたってか、喉頭がん(後に食道がんだったと判明)で54歳で亡くなってしまう。

中江兆民は生涯にわたり在野の人を貫いた。明治藩閥政府への激しい対抗批判をなす自由民権運動家に対し、明治政府は政府内での要職打診をしたり、費用を援助して海外留学させたりの懐柔策で民権論者を取り込み意のままに操ろうとした。自由民権運動下で板垣退助や徳富蘇峰らは、そうした懐柔策にはまり、やがて次々と藩閥政府に取り込まれていく。だが中江兆民だけは違った。兆民は一度も藩閥政府に日和(ひよ)って明治政府側に与(くみ)することはなかった。

しかし、その一方で兆民は、いつの時でも一つの仕事を我慢強く継続してやり遂げて自分のものにできなかったことも事実である。中江兆民はすぐに仕事を投げ出して次々と新しいことをやる相当に飽きっぽい性格であった。とにかく堪え性(こらえしょう)のない人だった。兆民は学校校長となったり新聞社主筆となっても、すぐに辞めてしまう。みずから立候補し見事当選して帝国議会で晴れて衆議院議員になるも、自由党土佐派の裏切りによる政府予算案成立に憤慨してわずか一年足らずで早くも議員辞職してしまう。その後、政治から離れて材木業や鉄道事業ら数々の事業に手を出すが長続きせず、ことごとく失敗している。

ところで、戦前昭和の日本に本格の探偵小説家で小栗虫太郎(1901─46年)という天才がいた。小栗の「黒死館殺人事件」(1934年)など日本の探偵推理において、突出した異才発揮の名作である。そうした天才の小栗虫太郎であるにもかかわらず、小栗は探偵小説を継続して書き続けることなく、戦時の生活苦から陸軍報道班員として突如、外地の南方に出向いたり、地方で果糖製造の事業を立ち上げたりで、本業の探偵小説業を中途放棄してあれこれやっているうちに過労が重なり、病に倒れ44歳の早さで亡くなってしまう。小栗虫太郎には、当時まだ探偵小説の読み手が少なく広く社会に探偵推理の文学が普及しておらず、探偵小説執筆の専業では食べていけない戦前日本の文学環境が未成熟の時代的不幸があった。

この小栗虫太郎の生涯にての探偵小説執筆での大成を果たせずに早世した事例を思い起こす度に、いつも私は明治の自由民権運動の思想家、中江兆民のことを思い出す。確かに兆民には辛抱せず長続きしない、すぐに仕事を投げ出してしまう飽きっぽい本人気質の問題もあったけれど、それ以前に兆民が生きた近代日本の明治期にて、自由民権論を唱え明治政府を批判しながら、そのことで自身の思いを遂げてつら抜く在野の思想家・ジャーナリストとして生きる世論や組織や制度の社会的基盤の成熟環境がなかった。中江兆民の著作「三酔人経綸問答」(1887年)と評論「国家の夢、個人の鐘」(1890年)は、西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景に支えられ理論的に特に優れている。これら論考は近代日本の民主的な思想潮流の中で時代的にかなり早く、完成度が高くて早熟である。

しかし、そうした民主的な民権思想家の中江兆民を許容して支える市民社会的基盤がまだ明治の日本にはなかった。結果、優れた自由民権思想家の中江兆民は学校校長や新聞社主筆や衆議院議員や実業家ら、さまざまな仕事を短期のうちに次々に転々として、必ずしも成功し大成したとは言い難い生涯を送り、最期は常日頃の深酒の痛飲がたたって喉頭がんで病に倒れ54歳で亡くなってしまう。非常に残念で、やるせない思いが兆民の著作および中江兆民研究を読むといつも私には去来する。

岩波新書の書評(515)田中彰「小国主義」(その1)

岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)は、タイトルの「小国主義」の反対である「大国主義」を「国際関係において、大国が自国の強大な力を背景に小国を圧迫する態度」「経済力・軍事力にすぐれた国がその力を背景に小国に臨む高圧的な態度」という辞書的意味定義から、その大国主義をして「明治維新以後の日本近代史は、ひたすら大国への路線を歩み、戦争につぐ戦争をくり返した大国主義の歴史にほかならなかった」(ⅱページ)というように、かの大国主義的衝動に終始し翻弄され続けた近代日本の歩みを批判的に総括しようとするものだ。こうした内容に合致して、本書の副題は「日本の近代を読みなおす」になっている。

思えば明治維新以来、近代日本の大日本帝国は日清・日露戦争、第一次世界大戦の東アジア戦線、ロシア革命に伴う対ソ干渉戦争たるシベリア出兵、満州事変、対中国の日中戦争と対アメリカの太平洋戦争とを主な内実とする十五年戦争(アジア・太平洋戦争)ら、対外戦争を重ねに重ね、軍事的・経済的な覇権をもって海外の植民地獲得と現地支配に躍起し奔走する「大国主義」の典型であった。著書の田中彰は書籍タイトルである「小国主義」の立場から、近代日本のそうした大国主義の潮流を非常に厳しく徹底的に批判する。これには本書執筆時の1999年の90年代には自衛隊の海外派遣がなされ、専守防衛の平和主義を規定している第9条の書き換えを争点にした憲法改正論議がいよいよ盛況となったことについての「日本の軍事大国化路線への転換」といった右傾化・反動化の認識が強くあり、それら動きを戦前日本への回帰として再びの日本の大国主義化を憂慮する、著書の田中彰の現状に対するかなりの危機意識があることも押さえておくべきだろう。

本書の中で、著者は「大国主義か、さもなくば小国主義か!?」の非常に限定された二項対立思考にあえて固執し事実、近代日本の歴史は大国主義のそれに他ならなかった、近代日本は小国主義の姿勢・立場を貫徹できなかったの趣旨で、日本にとっての「未発の可能性」である「小国主義」への移行を暗に強烈に望み、それとは反対の近代日本の大国主義の歴史を極めて厳しく批判する。また「近代の時代は日本のみならず、欧米列強がアジア・アフリカ地域に侵出し、各地域を植民地支配しようと各国が覇権のしのぎを削る大国主義で領土拡張の帝国主義戦争の時代であったのだ。だから近代日本が維新の開国以来、明治と大正そして戦前昭和の各時代において朝鮮半島や台湾の実質現地支配に始まり、遂には北は華北と満州、南は東南アジアと太平洋各諸島に至るまで、大国主義の方針でアジアの各地域を広く占領支配したとしても、それは当時は当たり前の国際常識であり、何も近代日本の大日本帝国だけが集中的に非難される事柄ではない。そのような大国主義への衝動欲求は当時の国際政治にて当たり前で自然なことだった」とするような日本の大国主義擁護の意見に反論するかのように、近代日本でも当時から同時代にて大日本帝国の大国主義を批判し、日本は近隣アジアへの無理筋の大陸膨張路線はやめて、維新の開国当時の日本列島国内領土の保全に専念し、その分、海外進出の国外政治ではなく国内政治での民主化や近代化に注力するべきという近代日本における、大国主義批判の「小国主義」の水脈の伏流を本書にて明治・大正・昭和の時系列で順次紹介していく。すなわち、

「Ⅰ・近代日本の選択肢を求めて・岩倉使節団のめざしたもの。Ⅱ・自由民権期の高揚と伏流化・植木枝盛・中江兆民の位置。Ⅲ・ 『小日本主義』の登場・大正デモクラシーの中で・三浦銕太郎・石橋湛山。Ⅳ・日本国憲法をめぐって・小国主義の理念の結実」

以上の全4章にて、明治・大正・昭和の各時代の「小国主義」の事例を取り上げ、必ずしも対外膨張路線の大国主義は、当時から当たり前の国際常識であったわけではない、近代日本にて明治の岩倉使節団から自由民権運動、大正デモクラシー、昭和の敗戦後の日本国憲法制定ら、各時代にて各人や制度・事柄による大国主義批判の「小国主義」の主張・運動は確実にあった、の証左を順次、歴史的に示していくのである。

そもそも原理的に考えて、対外膨張して自国以外の所での他国の領土支配や他地域での覇権伸張をもくろむ大国主義は、相手国の国権や民族自決や地域の経済自立を軽視し、時に明確に否定した上でなされるものであり、大国主義は他国に戦争を仕掛けて軍事侵攻で戦勝の結果に多額の賠償を得たり、軍事的・経済的圧力でもって不平等条約の締結を相手国に強要したり、領土割譲したり自国の要人を送り込んで保護国化したり、遂には植民地化支配したりすることでなされるものである。他者尊重の健全な常識的振る舞いにて国家は滅多なことで、そう簡単に大国化したりしない。

ゆえに国際政治上での法的措置がなく違法規制がなくとも、大国主義には他国や他民族の他者に対する権利侵害の、人道的な悪の後ろめたさが常に伴う。近代日本の歴史を大国主義の見地から概観するとき、中国本土や朝鮮半島に対外侵出の、かの大日本帝国の大国主義に関し、中国・朝鮮の人達のことを考えて日本の大国路線を批判的に理解したり、今日でも「軍事大国アメリカの脅威」とか「現代中国の大国化への懸念」など、アメリカや中国の大国主義への志向を胡散(うさん)くさく怪しいものと感じてしまうのは、大国主義に他国の他者に対する権利侵害の反倫理の悪の要素があるからに他ならない。岩波新書の赤、田中彰「小国主義」は、そうした大国主義の倫理的悪の胡散くさい怪しさを読む者に教えてくれる。そこが本新書の最良さだと私には思えた。

最後に田中彰「小国主義」に関し、岩波新書編集部が出している公式の紹介文を載せておく。

「明治期に中江兆民が『小国主義』を唱え、大正期には三浦銕太郎や石橋湛山らが『小日本主義』を主張して、政府の『大国』路線を厳しく批判したことはよく知られている。日本近代史上、ときに浮上し、ときに伏流化した小国論とは何であったか。日本国憲法こそ小国主義の結実とする著者が示す、知的刺激に満ちた日本近現代史」

岩波新書の書評(514)川喜田二郎「発想法」

(今回は、中公新書の川喜田二郎「発想法」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、川喜田二郎「発想法」は岩波新書ではありません。)

川喜田二郎「発想法」(1967年)は、昔からよく読まれている書籍で有名である。本書の概要は以下だ。

「長い間、書斎科学・実験科学だけにとじこもっていたわれわれは、『現場の科学』ともいうべき野外科学的方法に眼をむけるときにきている─と提言する著者が、問題提起→外部探検(情報集め)→観察→記録→分類→統合にいたる野外科学的方法とその応用について具体的に説きながら、独創的発想をうながす新技術として著効をうたわれるKJ法の実技と効用とを公開する。職場で書斎で、会議に調査に、欠かせぬ創造性開発のための必読書」(表紙カバー裏解説)

本書はタイトル通り「発想法」の具体的方法を教授するものだ。本書のサブタイトルは「創造性開発のために」となっている。「発想法」といっても様々なものがある。例えば、「ブレインストーミング」(判断・結論は下さないの前提で自由に思いつくままに大量のアイデアを連続で出していくことで、相互交錯の連鎖反応や新発想の誘発を期待する方法)、「ディベート」(あえて自分とは対立する立場の人との論争競技を通して、思考の弱点・強みを再発見したり、改善を加えて考えを深めていく方法)、「水平思考」(分析的で論理的な垂直方向の思考の積み重ねではなく、一見突飛で非常識で主観的な、多面的な水平方向の思考から新たにアイデアを掘り起こす方法)などが昔からあった。

そして川喜田二郎「発想法」で述べられているのはKJ法とされるものである。なぜKJ法と呼ばれるのかといえば、それは著者みずからが自身の名前の川喜田二郎(kawakita・Jiro)のイニシャルを取って勝手に「KJ法」と命名しているだけなのだが(笑)。だが、しかし川喜田二郎が奨励する「発想法」が、すでにKJ法の名称で一般的に広まっているのも今日では確かなようである。

「発想法」の著者である川喜田二郎は文化人類学者である。川喜田が自身の研究を進める上で取られた発想の方法なため、「発想法」の本書でも冒頭から「書斎科学と実験科学の相違」「野外科学の方法と条件」など氏が専攻の文化人類学についての話が長く続く。本書を読む読者はそうした文化人類学の学問内容ではなくて、文化人類学の研究を進めるうちに川喜田二郎が発見し会得したという「発想法」の概要を、どのような分野の学問研究であっても、また一般の学生の勉強や社会人の仕事にも幅広く適用でき活用できる川喜田二郎の名前由来のKJ法という発想法の抽象的原理や具体的方法を知りたいのであるから、「文化人類学における野外科学の方法と条件」云々の話は飛ばして、「一体、KJ法とはどういった発想法であるのか!?」の解説部分に傾注して重点的に読むのが賢明であろう。

ここで改めて川喜田二郎が提唱の発想法であるKJ法の概要を要約するとすれば、以下の通りだ。

「KJ法とは文化人類学者の川喜田二郎がデータをまとめるために考案した発想の手法である。まず(1)データ・知識・アイデアを収集しカードに記述して(カードの作成)、次に(2)カードをグループごとにまとめ、見出しをつけ(グループ編成)、続いて(3)それら断片的なカードを統合して全体として図解し(図解化)、最後に(4)その図解を論文等の文章に落とし込んで形にする(叙述化)。こうした4つの作業の各過程を経ることで、最初に集めた雑多なデーター・知識・アイデアが相互に関係づけられ整理され統合されて、全体的な図解化による気付きや発見を通して新たな発想が生まれ、後にそれを言語で文章化し明確な形に仕上げるというわけである。その際、断片的なカードを統合して全体として図解する(3)の「図解化」の工程はKJ法A型、全体図解を論文等の文章に落とし込んで形にする(4)の「叙述化」のそれはKJ法B型と川喜田により、それぞれに名付けられている。(1)(2)の情報収集メモからカード作成とカードのグループ編成の詳しい手順は本書48・49ページにイラスト図掲載で詳しく説明されている。(3)のKJ法A型の図解の実例は、例えば90・91ページにある「自然と自然災害」に関するような、全体の意味関係図が書ければよい。また(4)のKJ法B型の叙述の実際は、例えば153ページにKJ法A型の図解をKJ法B型の文章に落とし込んだ対応図の実例があるので、これを参考にするとよい。その他、KJ法A型図解法におけるグループ編成の基礎となる『基本的発想データ群(BAD)』への言及(105─114ページ)も参考になる」

私は川喜田二郎「発想法」を初読の際、そこまで驚かなかったし、正直そんなに感心もしなかった。本書で川喜田二郎は、あたかも自身が初めて発見し生み出した画期的な発想法であるがごとく、KJ法という自分のイニシャル表記から命名の専売特許のように誇らしげに得意そうに終始述べているけれども、ここに書かれてある「発想法」のKJ法とか、私は本書を読む以前の10代の大学生の頃から早くも当たり前のようにやっていたけどなぁ(笑)。当時、私は川喜田二郎「発想法」は未読でKJ法という言葉を全く知らなかったが。私の周りの人達も大学のゼミ発表やレポート提出、卒業論文の執筆にて、川喜田二郎「発想法」に書かれてあるKJ法のようなことは、ほぼ皆が普通にやっていた。

川喜田二郎が専攻の文化人類学とか実験科学とか野外科学的方法などの特殊個別的な事象は外して、氏が奨励の「発想法」たるKJ法を一般の人々の日々の知的活動に当てはめてみれば、KJ法の4つの過程のうち、なるほど断片的なデータ・情報を統合して全体として図解する(3)の「図解化」のKJ法A型の手続きは、読みながら本から得た情報の図解まとめやメモ作成を通して深く全体理解する読書の文章読解にあたり、また全体図解・メモを論文等の文章に落とし込んで形にする(4)の「叙述化」のKJ法B型のそれは、読書の時に作成した図解のまとめ・メモを明確な言葉の形にする執筆の文章記述に該当するわけである。

私達は読書で文章を読み、その意味内容を理解する際には、一文ごとの一文字ずつの文字配列を機械的に正確に覚えているわけでは決してなく、文全体の中での核となるキーワードや重要センテンスや先々の論理展開など一度は頭の中で図解化しイメージ化して幾つもの了解を重ねていっている。それら多数の了解の積み重ねが文章理解の読書というものである。

よって学術書を読むとき私はそのまま漠然と読み流さずに、必ず書き抜きのメモを取ったり、要点のまとめや全体構成の展開図などをノートに書きながら、各部分相互の関係性に留意し掘り下げて読書するし、小説でも複雑な人間関係の長編推理小説などでは人物相関図や家系図、時系列の簡略な出来事年表を作成メモしながら、伏線らに注意して慎重に読み進める。つまりは川喜田二郎が奨励の「発想法」における「データ・情報収集から図解化へ」のKJ法A型のようなことは読書の際には、もう無意識に頭の中で、もしくは実際のメモやノートを作成しながらすでにやっている。同様に文章記述の際にも、ただ何となくの無計画でいきなり書き始めたりせず、それなりによく使う言葉や決めの重要センテンス、伏線の張り巡らしと回収、文章の全体の流れの図解を頭の中に想定して、もしくは紙に書き出してからその構想メモに従って実際に文章を書いている。すなわち、川喜田二郎が奨励の「発想法」における「図解から叙述化へ」のKJ法B型のようなことも執筆の時、すでに当たり前のようにやっているわけなのである。

だから、川喜田二郎「発想法」の表紙カバー裏解説にあるような、「独創的発想をうながす新技術として著効をうたわれるKJ法の実技と効用とを公開する。職場で書斎で、会議に調査に、欠かせぬ創造性開発のための必読書」云々の妙に変に力の入った紹介文も何だか読んでいて恥ずかしい思いがする。本書で川喜田二郎が提唱・奨励の「発想法」のKJ法など、私は本書を読むはるか前から早くも当たり前のようにやっていたし、川喜田の著書を未読であっても川喜田二郎「発想法」に書かれてあるKJ法のようなことは人々には既知であると思うので。

岩波新書の書評(513)ドイッチャー「ロシア革命五十年」

前回に引き続き今回も「ロシア革命」についての話である。

ヨーロッパ近代史を本質的に知るには、それぞれに各地域で起こった市民革命を中心に学ぶのが有効だ。西洋近代において、特に注目すべき革命はイギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命に加えてのロシア革命の「三大革命プラス1」である。これら4つの市民革命の共通と相違とに留意しなから歴史を概観するとよい。

念のため「ロシア革命」の概要を確認しておくと、

「1917年にロシアで起こった三月革命(ロシア暦二月革命)と十一月革命(ロシア暦十月革命)のこと。特に史上初の社会主義革命である後者を指すこともある。第一次世界大戦中、ロシア社会の矛盾は一層深刻になった。外国資本は引きあげ、低い労働条件はさらに低下し、労働者は革命化した。また軍は拙劣な指導と劣悪な装備のため連敗し、兵士も革命化した。さらに戦争への農民・家畜の動員は農業生産を低下させ、輸送ルートは麻痺して、都会の食糧危機を招いた。1917年3月、首都の食糧危機が原因で革命がおこり、300年あまりに渡ったロマノフ朝の支配は終わった。その後成立した臨時政府はブルジョアジー側に立ってイギリス・フランスとの関係を重視し、戦争継続策をとったが、労・農・兵はパンと平和を求めてソヴィエトに結集し、二重権力の状態となった。ボリシェヴィキの指導者レーニンは亡命先から帰国後、ソヴィエト内での勢力拡大に成功し、11月7日臨時政府を打倒し、社会主義政権を樹立した」

そもそも「騒擾・クーデター」は、人々の漠然とした不満が渦巻いて蜂起の無秩序の内に現体制が倒されたり、軍部やそれに類する政治組織が軍事的な非合法の権力奪取にて現政権を倒して取って代わる混乱である。他方「革命」とは、確固たる新たな政治体制や社会観をもって現政権を打倒した革命勢力による新秩序(政体や憲法や経済体制ら)構築のための権力体制や組織構造に関する根本的な社会変革のことである。騒擾・クーデターの単なる無秩序の混乱とは異なり、革命には一時的な混乱があっても後の新たな秩序形成を必ず伴う。何となれば、「革命(レボリューション)」の原義は「回転する」であり、これは天文学での天体の回転運動に由来する用語だからである。天文学にて天体の回転は時間経過で様々な位相を示すけれども、常に一定の秩序立てた星座構成を維持しながら、周期を巡りやがては元に戻る。天文用語に由来する「革命」概念は、天文学での天体の規則正しい回転のように、抜本的社会変革を経て後に新秩序形成に至り、世界史が新たに転回(展開)するイメージであるのだ。

ゆえに転回する世界史の革命には、従前のやがては打破される旧体制と、後に新たにそれに取って代わる革命勢力との間に明確な対照の対立点が存在し、その対立点をいわば「革命論点」として革命が進行するのが常である。そうした「旧体制と革命新勢力との間での相違、何をめぐって対立し遂には革命にまで至るのか」の革命論点について西洋近代の市民革命、「三大革命プラス1」に関し、それぞれ以下のようにまとめることができよう。

☆イギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)は、旧体制の絶対主義(イギリス国教会)と、新体制の国王権力制限の立憲君主制(英国カルヴァン派の清教徒)との間での政体の問題。☆アメリカ独立革命は、本国イギリスの立憲君主制と、独立を果たそうとする新興国アメリカの王権否定の共和制との間での政体の問題。☆フランス革命は、前半の革命勃発・七月革命は旧体制の絶対主義(ブルボン王朝)と、新体制の王権廃止の共和制(市民階級)との間での政体の問題。後半の二月革命・パリコミューンは、革命時の一大勢力たる共和制(市民階級)と、資本主義否定の社会主義(労働者階級)との間での経済の問題。☆ロシア革命は、前半の三月革命は旧体制の絶対主義(ロマノフ王朝)と、新体制の王権廃止の共和制(市民階級)との間での政体の問題。後半の十一月革命は、革命時の臨時政府の共和制(市民階級)と、資本主義否定の社会主義(労働者階級)との間での経済の問題。

近代の革命にて、国王専制の絶対主義から制定憲法により国王の権力制限の立憲君主制への移行、ないしは国王専制の絶対主義から王権廃止の共和制への移行の革命は、主な担い手が新興の市民階級(ブルジョワジー)だったことから市民革命(ブルジョワ革命)という。市民革命では前近代の封建的身分制が廃止され、個人の自由を保障する社会の形成がめざされた。続く市民革命後の資本主義から資本主義否定の社会主義への移行の革命は、主な担い手が労働者階級(プロレタリアート)だったことから社会主義革命(プロレタリア革命)という。社会主義革命では近代の私有財産制(資本主義)が否定され、生産手段の公有化による経済上平等な社会(社会主義)の形成がめざされた。

イギリス革命からロシア革命までの「三大革命プラス1」にて、フランス革命は画期であった。フランス革命以前のイギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)とアメリカ独立革命では、革命論点は絶対主義から立憲君主制ないしは共和制へ移行の政体の問題(ブルジョワ革命)の単一論点だけだった。ところがフランス革命以後、革命は一つの論点で終わらずに、絶対主義から共和制へ移行の政体の問題(ブルジョワ革命)に加えて、資本主義から資本主義否定の社会主義へ移行の経済の問題(プロレタリア革命)の二つの論点を含む複合革命となっている。

フランス革命以後の世界において、市民革命にて達成された、前近代の封建制を脱しての個人の「自由」保障だけでは不十分になっていた。革命が呼び寄せる世界史の新たな時代の転回は近代の資本主義社会も脱して、遂には人々の貧困の生活苦、「平等」保障の経済格差の問題にまで踏み込まなければならないのであり、そこに市民革命を経ての更なる社会主義革命勃発の世界史の必然があった。フランス革命での七月革命と二月革命、ロシア革命での三月革命と十一月革命というように、革命論点は単一の市民革命(ブルジョワ革命)のみで終了せず、必ず市民革命の後に社会主義革命(プロレタリア革命)を連続して伴うニつの論点の複合革命(ブルジョワ革命+プロレタリア革命)の様相であったのだ。この意味で「三大革命プラス1」の中で、確かにフランス革命は一大画期だった。

さて、史上初の社会主義革命であるロシア革命を成就させた革命指導者のウラジーミル・レーニンは労働者階級(プロレタリアート)の共産主義者であったため、十一月革命以前は三月革命を経て成立したロシア本国の臨時政府(ブルジョワ政権)からの弾圧を逃れてスイスに亡命していた。その時、ケレンスキーが首相の臨時政府のロシア共和国は、第一次世界大戦に参戦しドイツと戦争していた。そこで交戦国のドイツはスイスに亡命中のレーニンに封印列車(レーニンら革命家にドイツ通過中は列車外との接触を禁じるという条件で乗車させた特別列車)を提供しロシアに帰国させる。ブルジョワ政権の臨時政府への対抗で、レーニンのボリシェヴィキら共産主義者を支援しプロレタリア革命運動を焚き付けて目下、交戦国であるロシアの内部崩壊を狙ったのである。

そうしてロシアに帰国したレーニンは武装蜂起し、遂には臨時政府を倒してソヴィエト政権を成立させる(十一月革命)。臨時政府のロシア共和国に取って代わった社会主義政権のソ連は、自国にかなり不利な条件のもと即時講和の戦争離脱の方針(「平和に関する布告」)を打ち出し、また他地域でのプロレタリア革命勃発の連鎖を恐れる欧米各国による、社会主義国・ソヴィエトに対する厳しい包囲網たる反革命の対ソ干渉戦争を招いて、ドイツの当初の思惑通りソヴィエトは一時的に弱体化した。

戦争で敵国に勝つためには、戦場にて直接的に軍事力で相手を圧倒する以外に、交戦相手の政府に敵対する反政府勢力を秘密裏に支援して、戦時に政権交代の革命やクーデターを促すことで敵国を内部崩壊させ間接的に結果、戦勝を得るやり方もある。これは効率的な謀略であり、極めて高度な政治的裏工作である。レーニンによる史上初の社会主義革命であるロシア革命の成就には、こうした当時の交戦国・ドイツからする謀略の後押しもあったのである。

岩波新書の書評(512)クリストファー・ヒル「レーニンとロシヤ革命」

「季節と読書」の関係で言うと毎年、夏の暑い盛りの八月になると、太平洋戦争ら先の日本の戦争についての書籍をなぜか読みたくなる。これは私が紛(まぎ)れもない日本人であるからに相違ない。同様に冬の寒い季節になると、今度はロシア革命に関する書籍を決まって無性に読みたくなるのであった。これには社会主義革命であるロシア革命の運動理論であり、その思想的原動力となったマルクス・レーニン主義に私が一目置き、昔から熱中していたことによる。ただし私は昔も今もこれまでに一度も日本共産党に入党したことはないし、自分が共産主義者だと思ったこともないのだが。

寒い冬の季節にロシア革命についての書物を手に取り読むと、極寒ロシアで当時に革命に関わった人たちのことに思いを馳(は)せ思いが募(つの)り、読んで胸が熱くなる。極寒の厳しい環境の中で生活の困窮から人々が立ち上がり、その流れが社会主義革命の一大潮流にまでなって遂には既存の政治体制打倒の刷新に至り、世界史が大きく転回する。厳しい寒冷気候地域で勃発した史上初の社会主義革命であるというのが、ロシア革命の絶妙な味である。気候的寒さに共産主義志向の社会主義革命はよく似合う。

ここで「ロシア革命」の概要を軽く確認しておこう。

「1917年にロシアで起こった三月革命(ロシア暦二月革命)と十一月革命(ロシア暦十月革命)のこと。特に史上初の社会主義革命である後者を指すこともある。第一次世界大戦中、ロシア社会の矛盾は一層深刻になった。外国資本は引きあげ、低い労働条件はさらに低下し、労働者は革命化した。また軍は拙劣な指導と劣悪な装備のため連敗し、兵士も革命化した。さらに戦争への農民・家畜の動員は農業生産を低下させ、輸送ルートは麻痺して、都会の食糧危機を招いた。1917年3月、首都の食糧危機が原因で革命がおこり、300年あまりに渡ったロマノフ朝の支配は終わった。その後成立した臨時政府はブルジョアジー側に立ってイギリス・フランスとの関係を重視し、戦争継続策をとったが、労・農・兵はパンと平和を求めてソヴィエトに結集し、二重権力の状態となった。ボリシェヴィキの指導者レーニンは亡命先から帰国後、ソヴィエト内での勢力拡大に成功し、11月7日臨時政府を打倒し、社会主義政権を樹立した」

ロシア革命を概説した書籍は昔から数多くある。図版・イラスト豊富な初学者向けの易しい入門書から、箱入り重厚な専門研究書までロシア革命に関する書物は実に様々にある。ジョン・リード「世界を揺るがした十日間」(1919年)、トロツキー「ロシア革命史」全5巻(日本語版、2000年)、E・H・カー「ロシア革命」(1979年)などは、やはり必読で定番の古典であろう。岩波新書でいえば、クリストファー・ヒル「レーニンとロシヤ革命」(1955年)やドイッチャー「ロシア革命五十年」(1967年)らの新書があった。特にクリストファー・ヒル「レーニンとロシヤ革命」は古いものだが、ゆえに最新のロシア革命研究の成果は盛り込まれてはいないけれど、革命指導者であるレーニンに焦点を定め、「革命のまえ」「革命」「革命のあと」の三部構成でレーニンを中心にロシア革命を初学者向けに簡潔に概説していて、本書は名作であると思う。現在でも十分に読まれる価値がある。

またレーニンの著作「帝国主義論」(1916年)、彼が生涯に渡り書き留めたマルクスについての文章を集成した岩波文庫のレーニン「カール・マルクス」(1971年)も古典の名著であり、その理論的精密さは今でも無心に読まれるべきものがある。

レーニンを始めスターリンや毛沢東ら共産主義者で社会主義革命をなした政治指導者は革命後の政治も含めて、同志間での権力闘争や一党独裁、自身への個人崇拝強要や人民に対する粛清弾圧ら実際に大いに問題もあるけれど、彼ら共産主義者はマルクスの文献を読み込んで政治的実践に臨んでおり、文献を読めるし理論考察もできる知識蓄積と理論研鑽(けんさん)とで相当に鍛えられた、俗に言う「勉強ができて頭が良い秀才」な人達であった。事実、レーニンや毛沢東はマルクス主義の文献を読んで、政治・経済の表面的なものにとどまらない、弁証法的唯物論の物事の道理に関する深い洞察を有していた。彼らは、単なる権力奪取で自身が権力者としてありたい私的欲望の動機のみで動いていたわけでは決してない。

共産主義者が志向する社会主義革命には、前近代の封建的専制に対する批判と、近代の資本主義国の帝国主義的振る舞いに対する理論闘争の明確な批判意識の「革命の大義(正当性)」があった。史上初の社会主義革命であるロシア革命において、革命の理論的正当性は、例えば「平和に関する布告」(1917年)、ブレスト=リトフスク条約(1918年)に見られる「無併合・無賠償・民族自決」という第一次世界大戦でのソヴィエト独自の戦争終結方式の原則のうちに見事に集約されていた。欧米各国の資本主義の帝国主義が戦勝によりアジア・アフリカら第三国を併合し賠償請求して各地域の民族自決を否定し次々に植民地化して覇権を広げていく動きの完全な逆を行って、「無併合・無賠償・民族自決」の原則を掲げ、それら帝国主義的な資本主義国と対抗することでレーニンが指導の社会主義国のソ連は自らを鍛え上げ、ロシア革命の理論的正当性を保持したのであった。第一次大戦下でレーニン指導のソ連は、「無併合・無賠償・民族自決」といった誰もが公然と否定できない国際人道上の正義の看板を味方につけていた。

これら「平和に関する布告」、ブレスト=リトフスク条約に象徴的に見られるロシア革命時のレーニンによる帝国主義戦争に対する批判(「平和に関する布告」)といった自らに理論的正当性を引き寄せる国際政治姿勢の戦略は、現実に当時のソ連が北欧や東欧らの第三国に対し「無併合・無賠償・民族自決」の他国尊重の「平和」の正義で誠実に処したかどうかは別にして、たとえそれが建前上のポーズであったとしても実に見事だという他ない。ロシア革命をなしたウラジーミル・レーニンは確かに「理論的には」正しかったのだ。

最後に岩波新書の青、クリストファー・ヒル「レーニンとロシヤ革命」の帯にある文章を載せておく。

「ロシヤ革命の影響は年をへるごとに世界的にひろまり、現在世界の三分の一では社会主義が現実となっている。いかなる人もこの事実に眼を掩(おお)うことはできないであろう。本書はなんら予備知識をもたない読者を対象に、レーニンの活動と思想の発展のあとを辿(たど)り、彼の生涯の事業であった革命の本質と成果を解明する。著者はイギリスの著名な歴史学者」

岩波新書の書評(511)出口治明「生命保険とのつき合い方」

岩波新書の赤「生命保険とのつき合い方」(2015年)の著者である出口治明については、

「出口治明(1948年─)は日本の実業家。訪問商談の保険外交員をなくした直販のネット通販型の保険会社であるライフネット生命保険株式会社の創業者。一時は立命館アジア太平洋大学学長の役職にもあった。『大の読書家で読書好き』を自認して、これまでに読んだ本は1万冊以上、著作も40冊以上あり、自著には人気でベストセラーとなったものも多数ある。『たった一度きりの人生を存分に楽しんで生きる。人生の楽しさは喜怒哀楽の総量にある』の言葉が、出口の著作には繰り返しよく書かれている」

また岩波新書の赤、出口治明「生命保険とのつき合い方」の概要は以下だ。

「生命保険に入る前に、これだけは知っておこう─、あなたに必要な保険の種類、保険金の額、加入期間は?結婚した時、子どもができた時、あるいは中高年になった時、何を優先させるべき?加入前の注意点から、他の契約への乗り換えのタイミング、保険料決定の仕組みまで、分かりやすく丁寧に解説します」(表紙カバー裏解説)

出口治明「生命保険とのつき合い方」は歴代の岩波新書の中でもかなり異色の新書だ。比較的硬派で学術的な固い新書本刊行イメージがある従来の岩波新書にて、本書は生命保険会社が公式発行の「保険新規加入の顧客のために書いて読ませる販売促進用パンフレット」、もしくは保険加入を迷っている人に対面で、保険外交員が「なぜ生命保険が必要なのか」「どの種類の保険プランがあなたに合っているか」を熱心に語る、保険勧誘のセールストークのような内容である。

つまりは、「もう最初から何らかの生命保険に加入する」の保険契約成立の前提があって、その上で有無も言わせず生命保険の販売(セールス)促進のための内容書籍なのである。「そもそも生命保険は自分には必要ないので加入しない」とか、「むしろ毎月の保険料負担が重いので保険の見直し解約を考えている」などの生命保険に新規加入しない、ないしは中途解約するの選択立場は、本書「生命保険とのつき合い方」にて元から周到に排除されている。こういうのは催眠サギ商法への注意喚起や昨今流行の行動経済学にて、「不自由な選択」「強制的な二択」と指摘される事例である。「その商品を購入することで生ずる利点や、どれを選択購入するべきか」だけを圧倒して一方的に話し相手に促して、最初から「商品を購入しない」という選択を暗に、しかし強力にさせないようにしているのである。こうした他者操作の誘導事例は、催眠サギ商法では昔からある案外ベタな古典的手口であり、「不自由な選択」「強制的な二択」と嘲笑的に呼ばれたりする。

岩波新書「生命保険とのつき合い方」の「はじめに」を読むと、著者の出口治明に対し「これから生命保険を買おうと思っている若い皆さん向けの、わかりやすい新書を書きませんか」の呼びかけがまず岩波書店からあって、その提案を受けて出口も「これ一冊を読めば安心して生命保険を買うことができる、そのような本が書けたら」という思いで本書の執筆に取り組んだ、とある。なぜ岩波書店の岩波新書にて、わざわざ「これから生命保険を買おうと思っている若い皆さん向け」で、「これ一冊を読めば安心して生命保険を買うことができる」ような、出口が創業で本書執筆時には代表取締役兼CEOであるライフネット生命保険、さらにはその他の保険会社も含む生命保険業界全体の私企業の新規顧客獲得の販売促進のための「生命保険とのつき合い方」なる書籍が出されなければならないのか、私には疑問である。事を荒立てず、より穏便に言って、本書は「これから生命保険を買おうと思っている若い皆さん(へ)向け」た、「これ一冊を読めば安心して生命保険を買うことができる」用途目的の、あらかじめ読者対象がかなり相当に狭く限定された極めて例外的で特殊な本なのだ、と思えば何とか理解できないこともないけれど。

そういったわけで目下、生命保険への加入検討やその予定もない私のような読者には、岩波新書の出口治明「生命保険とのつき合い方」は、読んであまり面白い書籍ではない。本論中に現行日本の健康保険制度や年金制度や生活保護法ら公的社会保障制度に対する、著者からの不備や「社会的セーフティネット」としての不十分さの指摘記述もあるけれど、それら議論を様々に長く述べながらも、最後はことごとく「社会保障に関する各種の公的制度には不備があって不十分だから一見、保険とは無縁に思える若い人であっても、万一の死亡・病気・怪我のリスクに備えて生命保険に加入しておくべき」の、出口が創業で経営のライフネット生命保険、もしくはその他の保険会社の生命保険への新規加入を強力に勧める保険商品の販売促進の話に結局は巧妙に回収されてしまう。本来、それ自体として深められ掘り下げられるべき日本の公的な医療・年金の社会保障制度に関する問題指摘の議論が矮小化されて、著者の私的な生命保険会社や保険販売業界全体の保険商品の売上正当化の道具に、現行日本の公的福祉政策の不備の問題議論が使われてしまうので、真面目に読んでいて中途で馬鹿らしい思いに私はなる。

ただ本新書の中で「第7章・生命保険料はこうして決められる」の章だけは読んで面白く、例外的にためになる。「生命保険料の決め方」「生命保険会社の仕組み」が、「簡易生命表」「予定利率」「逆ざや」「純保険料」ら生命保険に関する専門用語解説を通して分かりやすく述べられている。

必ずしも明確に本書に書かれてはいないが、長く生命保険業界にいて近年、直販のネット通販型の保険会社であるライフネット生命保険を創業した著者の出口治明に対して、「基本掛け捨ての生命保険では、加入者の大部分は死亡して保険金の支給請求をするわけではなく死亡例の実数は些少で、全保険料収入のうち実際に保険金・給付金の支払に使われるのは毎年度、契約者保険料全体の2割未満程度のわずかな額に過ぎないのだから(ライフネット生命保険の場合、2013年度の同社の保険料収入は7537百万、その内、保険金等支払は1196百円で、全保険料収入のうち保険金支払に使われたのは15.8%の同社開示の公式データがある)、胴元の生命保険会社が永続的に利益を出して儲(もう)け続ける詐欺的ビジネスなのでは」「生命保険を中途解約したらなぜ元本割れするのか納得いかない」等の直接の文句、ないしは間接的な嫌味が頻繁にあって、相当な日々のストレスがあるのではと思われる。

そうした外部よりの常日頃からの批判に暗に強烈に反論するような明確な意図が、本論の行間や紙面全体から悲壮感を持ってそれとなく透けて見え感じられて、本書を読むにつけ岩波新書の赤「生命保険とのつき合い方」の著者である出口治明に対し、何だか可哀想で気の毒な思いも私はする。