アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(510)東大作「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」

岩波新書の赤、東大作「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」(2023年)のタイトルとなっている「ウクライナ戦争」とは、2022年2月からのロシアによるウクライナ侵攻を指す。

2022年2月24日、ロシア大統領のウラジーミル・プーチンはウクライナへの「特別軍事作戦」に基づき首都キーウをはじめ、ウクライナ各地への攻撃を開始。これを受けてウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキー大統領は同日、18歳から60歳までの男性を原則出国禁止にする「総動員令」に署名し、両国は戦争状態に入った。本書はそのロシアのウクライナ侵攻から一年経過し、いまだ終結の兆(きざ)しが見えない戦争継続中に執筆されたものである。

「ロシアによるウクライナ侵攻開始から1年。核兵器の使用も懸念される非道で残酷な戦争を終結させる方法はあるのか。周辺国や大国をはじめとする国際社会、そして日本が果たすべき役割とは何か。隣国での現地調査を踏まえ、ベトナム、アフガニスタン、イラクなど第二次世界大戦後の各地の戦争・内戦を振り返りつつ模索する」(表紙カバー裏解説)

東大作「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」の副題は「『和平調停』の限界と可能性」である。本書には以前の戦争・内戦での和平交渉の「限界と可能性」の実態を振り返り、また現今のウクライナ戦争を人道的立場から批判したり、実戦における核兵器使用を懸念したり、このウクライナ戦争でロシアとウクライナの当事国以外の第三国、アメリカや日本が果たすべき役割を提言したりで、あれこれ述べているけれども正直、私はそこまで真剣に真面目に読む気になれなかった。読んでも内容が頭に入ってこなかった。

昨今のウクライナ戦争に関し、「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」の「戦争をどう終わらせるか」以前に「なぜ戦争を始めてしまったのか!? 」の疑問の不信感が絶えずいつも先に起こってしまうからだ。

岩波新書「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」にて今さら改めて「和平調停の限界」云々を指摘されるまでもなく、私達は同時代に生きる世界史的実感として、一度始めた戦争は容易に終わらせることが出来ないことを既に知っている。そもそも戦争は当事国にて一方の国が、相手国を徹底的に打ち負かし、軍事的な圧倒的勝利が達せられなければ原理的に終結しない。首都陥落とか生物化学兵器・核兵器使用による市民虐殺の大損失を相手側に与える所まで行かなければ一度始めた戦争は終わらない。このことは第二次世界大戦以後の現代世界を概観すれば明白だ。

確かに第二次世界大戦時には、ナチス・ドイツがパリに進軍し軍政の直接支配でフランスを降伏させるとか、英米の連合軍がドイツのベルリンを陥落してヒトラーを死に追いやりナチスのファシズム体制を壊滅させるとか、アメリカが広島・長崎に原爆投下した上で日本に無条件降伏を迫るなど、いずれも相手国を徹底的に打ち負かし、首都陥落や核兵器使用による市民殺害の圧倒的な損失を与えての戦争集結の事例があった。ところが第二次大戦後の今日の世界では、首都陥落のための直接的な無差別攻撃や生物化学兵器・核兵器の大っぴらな使用は人道的観点から国際世論上もはや出来なくなってしまっている。また現代における軍事兵器の、どの国家でもテロ組織であっても比較的安価で容易に入手・使用できる量的拡大と、比較的軽装備でしかし相手に徹底的な相当ダメージを与えることが可能な質的深化とにより、戦争にて交戦の一方国が相手国を徹底的に打ち負かしたり、大差をつけた軍事的な圧倒的勝利に達することは今やほとんど不可能になっている。このことは第二次世界大戦後に、いまだ「休戦」状態で実は戦争継続している朝鮮戦争、アメリカが直接に軍事介入して長期化の泥沼を見せたベトナム戦争、幾度も何次にも渡り繰り返される中東戦争の事例からも明白であろう。そして、今般のウクライナ戦争においても。

岩波新書「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」出版時で、すでに開戦から一年近くが経過している。だがロシアとウクライナ双方とも相手から軍事的な圧倒勝利を得ることができずに戦局は互いに一進一退の膠着状態の泥沼の様相である。ゆえに戦争は長引いて、終結の兆候は見られない。現代世界において一度始めた戦争はなかなか終わらない。これまでに述べたように、原理的に言って今の時代、一度始めてしまった戦争は容易に終わらせることはできない。昨今のウクライナ戦争に関し、岩波新書「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」を手に取り読む以前に「なぜわざわざ戦争を始めてしまったのか!? 」の不信の思いが虚(むな)しく漂(ただよ)うだけである。

確かに今般のウクライナ戦争にて、完全停戦の平和が到来の戦争終結とまでは行かなくても、部分的で一時的な休戦、ないしは戦闘の小康休止の状態はあるのかもしれない。近代の戦争は、それを遂行する交戦権と軍事力とを有する国家の政治権力が主体の、相手を凌駕(りょうが)し圧倒的物量に物を言わせた総力戦であり消耗戦であって、軍事兵器たる武器弾薬と、それら兵器を用いて実際に戦う兵士がいなければ戦争の開始と継続は難しい。そして、それら武器弾薬と戦闘兵士は無尽蔵ではなく限りがあって、武器弾薬の生産供給能力の鈍化や多数の戦闘兵士の死傷にて、やがて物量的に不足し尽きるであろうことから、数十年単位の長期に渡り今回のウクライナ戦争が延々と続くとは考えにくい。

特に動員される多くの前線兵士が死傷する犠牲の人的損失は、人道的観点から大いに問題である。教科書的に言って、近代の人間の権利規範たる人権は「生命・財産・自由の保全」であるが、近代社会における戦争は各人の生命・財産・自由の保全を絶えず危険に晒(さら)し、相当な確率で剥奪するものであるから人道上かなり問題なのである。また戦場以外の銃後にても無差別な都市爆撃、偶発的なミサイル被弾、突発的なテロ攻撃により、子供や女性や高齢者を含む多くの一般市民も時に死傷して深刻な戦争被害を被(こうむ)る。かつ大多数の人々の平和な日常は脅(おびや)かされ、特に大国のロシアを相手に劣勢を強いられがちなウクライナにて、またロシア国内でも厭戦ムードがやがては高まり、「戦争継続反対」の世論がいつ噴出してもおかしくはない。ただそこまでの戦争長期化の段階に行くまでに、戦争に動員される兵士と非戦闘員の一般市民が死傷の大量犠牲の人的損失、都市全体や道路・橋梁・ダムなどの社会インフラ破壊の被害(特に原発施設の破壊は破滅的な結末を即にもたらす!)、その他にも国土の自然環境の荒廃など、一度失ってしまえば回復し取り戻すのに困難な、何しろ戦争で亡くなってしまった人間はもう二度と生き返り戻ってこないのだから、その損失の規模と内実の深刻さたるや相当なものがある。

こうした戦争遂行によりもたらされる人的被害の犠牲や人々の生活環境への負荷や自然環境への悪影響ら諸々の事情を考慮の、いわゆる「リスクとコスト」原則の素朴な損得勘定の観点から考えた場合でも、何度も繰り返ししつこく言って申し訳ないけれども(苦笑)、「戦争をどう終わらせるか」以前に「なぜ戦争を始めてしまったのか!? 」の疑問の不信が先立ち、「そもそも戦争など安易に始めてしまうべきではない」の明確な結論であるのだ。

この点に関し、今回のウクライナ戦争にて共に最終的に開戦決断に傾いたロシアとウクライナの両国、戦争開始に至るまで外交努力で双方の言い分の落とし所を探り、修復不可能な関係決裂の戦闘開始の危険領域にまで後先考えずに突っ込んでしまわないよう、事前に周到に相互に開戦回避できなかったロシアのプーチン大統領とウクライナのゼレンスキー大統領の両人の両国が同程度に問題なのである。どうも世間的には「帝国主義的な領土獲得の野心をもってウクライナ侵攻を始めたロシアのプーチン大統領が全面的に悪で、その大国ロシアに抗する小国ウクライナのゼレンスキー大統領は善で完全正義」というような「善vs悪」の単純図式が広く浸透し共有されて、その図式でウクライナ戦争を安直に語りたがる人がメディアに露出の国際政治の専門家や軍事評論家や日本の政治家にも多くいるが、そういったことではない。「ロシアのプーチン大統領は悪で、ウクライナのゼレンスキー大統領は善」などということは絶対になく、外交的な様々な交渉努力にて事前に戦争回避できず、開戦決断をしてしまったプーチンもゼレンスキーも現代世界では両方が同程度に愚かで悪なのである。

ロシアのウクライナ侵攻から始まるウクライナ戦争(2022年─)の事例から、現代世界に生きる私達は積極的に学ぶべきだろう。そもそも安易に戦争を始めてはいけない。特に東アジアにおいて、今後に発生が懸念される朝鮮半島有事、また台湾海峡有事にて、例えば北朝鮮という国には核不拡散の国際規約に反する核開発疑惑があり、テロ国家やそれに準ずる組織を物資提供の面で秘密裏に支援している疑いもあり、また東アジアの近隣諸国の人々をかつて拉致していた事実があったとしても、そうした「ならず者国家」の北朝鮮に対し、まさかの朝鮮半島有事の際に韓国に味方して、同盟国たるアメリカと日本が軍事協力の武器援助や後方支援をしたり、多国籍軍の友軍として積極的に軍事共闘して戦禍をいたずらに拡大させてはならないのである。

同様に、現在のウクライナ戦争を踏まえ、近い将来の来たるべき台湾海峡有事が懸念されている。以前の冷戦時代にはウクライナを始めとする東欧諸国は、西側陣営と対立する東側陣営のソビエト連邦の一部であり、旧ソ連の支配圏にあった。ところが冷戦終結後に東欧地域でロシアからの独立が相次ぎ、NATO(北大西洋条約機構)加盟を熱望して次々と東欧諸国が西側の欧米勢力に急速に接近し編入されつつある事態を懸念したロシアのプーチン大統領の、東欧ウクライナのロシアから離脱の憂慮、すなわち西側ヨーロッパへの露骨な歩み寄りが、今回のロシアによるウクライナ侵攻の主要な動機になっていた。ウクライナは数ある東欧諸地域の中でも最東に位置し、ロシアと直に国境を接している。そのウクライナが西側の欧米側にあからさまに付いて西ヨーロッパに編入されてしまうことは、確かに東側ロシアのプーチン大統領にとって相当な脅威であった。

旧冷戦の負債由来の、これと同じ構造が東アジアにもあった。かつての中国共産党たる中華人民共和国と、第二次大戦後の冷戦下での国共内戦にて、その中国から追いやられた以前の国民党たる台湾との戦後における台湾独立をめぐる中国と台湾との対立から、台湾を中国に回収して国共内戦の分裂から中国統一を成し遂げたい「一つの中国」の大国・中国の念願があるため、中国による台湾への侵攻である台湾海峡有事が今日、憂慮されているわけである。

この場合でも、昨今のウクライナ戦争でのウクライナのゼレンスキー大統領ばりに「他国からの不当な侵略支配に対しては断固として戦う。毅然(きぜん)とした愛国心の発露で自由のためには戦争も辞さない」などというような、劇画的な英雄調子(ゼレンスキーは大統領就任前まで政治の経験なく、元コメディアンで元俳優。政治の素人で政治家実務の経験に乏しいためヒーロー的な自分に陶酔しがち)の戦争焚付の好戦的態度で、小国の台湾は中国に臨んではいけないし、同様に大国の中国は威圧的な軍事制圧の戦争手段により、台湾回収の「一つの中国」の念願を果たそうとしてはいけない。また中国と対峙する台湾支援のアメリカや日本は、台湾海峡有事にて中国と台湾の双方が修復不可能な関係決裂の戦闘開始に至らないよう、事前に相互に両国が戦争回避するような粘り強い外交努力の働きかけを続けなければならない。アメリカや日本の第三国が、台湾と中国の当事国の背後から「代理戦争」のかたちで無駄に戦争を煽(あお)ってはいけない。

気に入らない他国をガツンと軍事行動の力に訴え強硬に処してやっつければ一時的に溜飲(りゅういん)が下がるかもしれないが、そういうのは現代の国際政治にて賢明ではない。もはや言うまでもなく、原理的に言って今の時代、一度始めてしまった戦争は容易に終わらせることはできない。そして、戦争遂行によりもたらされる人的被害の犠牲ら諸々を考えた場合、いわゆる「リスクとコスト」原則の素朴な損得勘定の観点からして、「そもそも戦争など安易に始めてしまうべきではない」の結論に到達するのは自明だからである。

岩波新書の書評(509)米原謙「徳富蘇峰」

(「岩波新書の書評」ですが、中公新書の米原謙「徳富蘇峰・日本ナショナリズムの軌跡」に関連して、今回は徳富蘇峰について書きます。念のため、米原謙「徳富蘇峰・日本ナショナリズムの軌跡」は岩波新書ではありません。)

徳富蘇峰(1863─1957年)は明治から昭和の戦後期にかけて活動した日本のジャーナリスト・評論家である。

蘇峰は幕末に生まれて、昭和の戦後に没している。徳富蘇峰は明治と大正と昭和を生きて近代日本と共にあった。まさに「近代日本を体現した」人物であった。徳富蘇峰をして「近代日本ナショナリズムの体現と行く末」などとよく言われる。明治維新から自由民権運動、日清・日露戦争、大正デモクラシー、第一次世界大戦、昭和ファシズム、十五年戦争、戦後民主主義の時代までの全てを一人の男が同時代に生きて経験しているとは話が出来すぎている。人は自身が生まれてくる時代や没する年月を指定できない(本当はより厳密に言って人生が始まる生まれてくる年月は指定出来ないが、人生が終わる没する年月だけはコントロールできる。自殺という非情手段によって)。

徳富蘇峰の交遊は勝海舟、伊藤博文、森鴎外、与謝野晶子、渋沢栄一、山本五十六、東条英機、中曽根康弘ら、その交際関係は広きに及ぶ。またこの人はジャーナリストであったので当時存命であった板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望らとの実際の知己もあった。幕末の1863年に生まれ戦後の1957年まで生きて、その時点でこれら幕末から昭和へかけての今となっては「歴史上の人物」である人々と多くの交際・知己があったというのは実に驚くべきことである。これはひとえに明治・大正・昭和と近代日本の時代に並走して、長く生き抜いた徳富蘇峰その人の希少な生によるものであった。

幕末から明治、大正、昭和の時代を生き抜き、「近代日本を体現した」とされる徳富蘇峰の生涯をここで概観しよう。

徳富蘇峰は1863(文久3)年、肥後国(現在の熊本県)に生まれる。徳富家は代々、肥後水俣で庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。維新後の1872(明治5)年には熊本洋学校に入学。熊本洋学校で「新約・旧約聖書」にふれて西洋の学問やキリスト教に関心を持ち、1876(明治9)年に横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)結成に参画。同76年8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも、同年10月に京都の同志社英学校に転入学。同年12月に同志社の創設者、新島襄により洗礼を受け、蘇峰はキリスト者となる。

若き蘇峰は言論で身を立てようと決意し、東京で新聞記者を志願したがかなわず、1881(明治14)年、熊本に帰郷して自由党系の民権結社、相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。1886(明治19)年、徳富蘇峰は「将来之日本」を刊行して「平民主義」の主張を展開する。

蘇峰のいう「平民主義」とは、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「欧化政策」を「貴族的欧化主義」と批判して、国民の自由拡大と生活向上のためには政府・貴族の上からではなく、「平民」の下からの西洋化の開化が必要だとする平民的急進主義の主張である。その上で軍事の「武備ノ機関」に対し、産業の「生産ノ機関」を重視し、産業を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人の人権尊重と平等社会の実現をめざすという、暴力の「腕力世界」に対する批判と、平和の生産力の強調を含むものである。徳富蘇峰の「平民主義」は、自由民権運動下での当時の藩閥政府に抗する痛烈批判であって、明治政府による国権主義・軍備拡張論に公然と異を唱えて自由主義・平等主義・平和主義の立場に立つものであった。

徳富蘇峰「将来之日本」は自由民権運動に高揚する当時の多くの若者を魅了し好評を博した。この出版界での初めての成功を受けて、蘇峰は言論団体「民友社」を設立。月刊誌「国民之友」を主宰した。民友社には弟の徳富蘆花をはじめ山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩らが入社した。さらに1890(明治23)年には民友社とは別に国民新聞社を設立して「国民新聞」を創刊。以後、徳富蘇峰は明治・大正・昭和の三代に渡り、時代のオピニオンリーダーとして華々しく活躍することとなる。

従軍記者として日清戦争後も旅順にいた32歳の時、1895(明治28)年、戦勝講和にて日本が獲得した遼東半島に対するロシア・ドイツ・フランスによる還付要求である、いわゆる三国干渉の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を強く批判し、国家に対する失望感を蘇峰は吐露してしまう。そうして遼東半島還付の三国干渉に強い衝撃を受けた蘇峰は、この頃から、かつての自由民権運動下での、明治政府による国権主義や軍備拡張論に公然と異を唱える自由主義・平等主義・平和主義の立場の平民主義から、次第に好戦的な軍備拡張論・強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じていった。

1897(明治30)年、対外侵出路線の国家主義政策に賛同し政府に接近していた徳富蘇峰は、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任して、案の定、政府に囲い込まれ従来の強固な政府批判の論調をゆるめた。これを受けて、自由民権運動時代の蘇峰の平民主義を知っていた社会主義者の堺利彦ら反政府系の人士より、徳富蘇峰はその「変節」を非難されるも、「予としてはただ日本男子としてなすべきことをなしたるに過ぎず」と述べて、自身に対する「変節漢」「日和見主義」「時流便乗派」の批判を退けた。

この後、蘇峰は山県有朋や桂太郎ら政府内の強硬右派の軍閥グループとの結びつきを深め、1901(明治34)年には第1次桂内閣の成立とともに桂太郎を支援して、1904(明治37)年の日露戦争の開戦に際しては主戦論への国論の統一と国際世論の働きかけに努めた。1910(明治43)年、韓国併合ののち、初代朝鮮総督・寺内正毅の依頼に応じ、蘇峰は朝鮮総督府の機関新聞社である京城日報社の監督に就いた。「京城日報」は、あらゆる新聞雑誌が発行停止となった併合後の朝鮮でわずかに発行を許された日本語新聞(日本の朝鮮総督府の意向に沿った御用新聞)であった。翌11年に蘇峰は貴族院勅選議員に任じられている。ここに至って徳富蘇峰は山県有朋ら有力政治家の後ろ盾を持って強力な情報発信で世論形成をなす、時代の代表的なジャーナリスト・評論家となっていたのである。

日清・日露戦争の明治が過ぎて大正の新時代に入ると、言論人としての蘇峰は大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、そしてそれら両者を統合する「皇室中心主義」を唱えた。

続く昭和の時代、1931(昭和6)年に起こった満州事変以降、蘇峰はその日本ナショナリズム論ないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで、さらに精力的に活動する。1940(昭和15)年、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出し、1941(昭和16)年12月には東條英機首相に頼まれ、対米英戦である大東亜戦争開戦の詔勅を添削している。1942(昭和17)年には日本文学報国会を設立して、みずから会長に就任。日本文学報国会は戦時の思想統制の下、多くの文学者が網羅的かつ半ば強制的に会員とされ、国策たる戦争協力のために活動させられたものであった。こうした戦中の文学者・ジャーナリストの国家への動員協力の貢献が認められて1943(昭和18)年、徳富蘇峰は三宅雪嶺らとともに東條内閣のもとで文化勲章を受章している。だが1945(昭和20)年7月に日本の敗戦がいよいよ濃厚となり、連合国側よりポツダム宣言が発せられた。その際、蘇峰は受諾に反対。戦争継続の本土決戦を強く主張し、昭和天皇の非常大権の発動を画策。しかし実現しなかった。

日本の敗戦を受け1945(昭和20)年9月、蘇峰は自虐を交えて自らの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とする。長い間、戦前・戦中の日本における世論形成の最大のオピニオンリーダーであった徳富蘇峰は、同年12月、連合国軍最高司令官総司令部から戦犯容疑で逮捕命令対象者のリストに名を連ねたが、老齢のために自宅拘禁とされ後に不起訴処分が下された。公職追放処分を受けたため、1946(昭和21)年、貴族院勅選議員など全ての公職を辞して静岡の熱海に蟄居(ちっきょ・「謹慎」の意)。また同年には戦犯容疑をかけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして戦時に授与された文化勲章も返上した。

蘇峰は終生のライフワークであった「近世日本国民史」の執筆を続け、1952(昭和27)年に全巻完結させた。「近世日本国民史」は、史料を駆使して織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な歴史書であり、1918(大正7)年の寄稿開始から完成までに34年間もの長い歳月が費やされていた。

1957(昭和32)年11月2日、死去。享年95。蘇峰の絶筆の銘は「一片の丹心渾(す)べて吾を忘る」。

以上、徳富蘇峰の生涯を振り返るに当たり、長い記述となったが、ジャーナリスト・評論家としての蘇峰の生涯の画期の大きな分岐は、やはり日清戦争終結後の、戦勝講和にて日本が獲得した遼東半島に対するロシア・ドイツ・フランスによる還付要求である三国干渉に強い衝撃を受け、この頃より、かつての自由民権運動下での、明治政府による国権主義や軍備拡張に公然と異を唱えていた自由主義・平等主義・平和主義の平民主義の立場から、その都度、政府に迎合し同伴・参画して次第に好戦的な軍備拡張論・強硬な国権論・国家膨脹主義へと大きく転じていく思想転回にあるといえよう。蘇峰も自身の思想遍歴について次のように述べていた。

「維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては国民的膨張たり」(徳富蘇峰「日本国民の活題目」1895年)

このように「尊皇攘夷→自由民権→国家膨張主義」と時代により左右への思想の振れ幅が大きい徳富蘇峰に対し、存命の時から「変節漢」「日和見主義」「時流便乗派」の批判は多くなされた。蘇峰と以前に親しかった社会主義者の堺利彦は、平民主義の市民的自由主義な言論から後に強硬な国家主義的言説に転じた蘇峰に対し、「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」と疑念を表した。また蘇峰と同学の同志社大学の法学者の田畑忍は、戦時に軍国主義と伴走し言論人として戦争協力の世論形成をなしたため日本の敗戦時には「ジャーナリスト・知識人の戦争責任」を追及され窮地にあった蘇峰に対し、以前の「変節」をもって、「どうぞ先生、もう一度民主主義者になるような、みっともないことはしないでください」と丁寧に皮肉まじりの釘をさす程であった。

ジャーナリスト・評論家の言論人としての徳富蘇峰の生涯に渡るいくつかの思想的転回に関し、蘇峰の評伝や研究にて昔から様々な解釈・評価がある。例えば近年の米原謙「徳富蘇峰・日本ナショナリズムの軌跡」(2003年)では、「蘇峰は青年時代より一貫して日本が国際社会から敬意ある待遇を受けることを主張してきたのであり、日本の国際的地位の変動に従い、その都度、蘇峰のナショナリズムは平民主義から国家主義、軍国主義へと組み替えられていった。徳富蘇峰は変節漢というよりは、いわば便宜主義者」の旨で蘇峰に関し全体に肯定的に書いていた。

私は、米原謙「徳富蘇峰・日本ナショナリズムの軌跡」での蘇峰理解はまったく駄目だと思う。「尊皇攘夷→自由民権→国家膨張主義」の幾度かの思想転回にて、徳富蘇峰が物心両面にて自身にとって極めて有利な社会的地位や名声や世評の人気をいつも得ていたからだ。もともと故郷・熊本から上京し言論で身を立てようとジャーナリスト志望であった蘇峰は、進学・就職の立身出世に何度もつまづき、しかし、いよいよの論壇デビューで初めて世に名を売ったのが自由民権運動高揚下での平民主義の主張であった。その後、多くの民権運動家や社会主義者の仲間たちが処罰され没落する中で、徳富蘇峰は日清・日露戦争以降の主戦論での国家主義への転向、大正デモクラシー期における軍閥の山県有朋への接近で優遇されて、貴族院勅選議員の公的地位にもあった。さらには昭和ファシズムの十五年戦争期における軍国主義への傾斜にて、日本文学報国会の会長となり、文学者・ジャーナリストたちを戦争協力へ牽引する公的立場にあった。また蘇峰は戦時の東條内閣のもとで文化勲章も受章している。

明治から大正そして昭和と連続して、いつの時でも徳富蘇峰は強力な情報発信で世論形成をなす、時代の代表的なジャーナリスト・評論家であり続けた。なぜか徳富蘇峰だけが近代日本で例外的に、そのような人気の公的社会地位を常に確保できていたのだ。このことから徳富蘇峰その人が「いつの時代でもその都度、自身が利するよう時代の最先端の流行の勝ち馬に乗り換え続けた軽薄な人、決して尊敬されない悪しき人物の典型例」としか私には思えない。

現代でも時代の最先端の流行や風潮にうまく乗ることで先行者利益を得ようとしたり、人気者になったり、そのことで自分だけが利益享受の優越の高みに立って人々を指導したり、世に出て目立って自身の有能さの実績自慢の自分語りをやたらやりたがる、社交的で目立ちたがりで露出狂な自分大好きな軽薄な人はいる。そのような人を見たり、そういった人に出くわしたりする度に、明治から大正そして昭和の時代にかけて活動した近代日本のジャーナリスト・評論家の徳富蘇峰のことを思い出し、私は馬鹿らしい心持ちになってしまう。

岩波新書の書評(508)竹内実「毛沢東」

「毛沢東(1893─1976年)は中国共産党、中華人民共和国の最高指導者。湖南省出身。反軍閥運動・農民運動を行って頭角を現し、1921年、中国共産党の設立に参加した。31年創立された中華ソヴィエト共和国臨時政府の主席になり、長征の途上の遵義会議で党内の主導権を握って抗日戦争・内戦を指導した。中華人民共和国の初代主席に就任して社会主義・中国の建設を進めたが、1950年代末の大躍進政策に失敗して大きな犠牲を出したため、国家主席の地位を劉少奇に譲った。その後66年から文化大革命をおこし、劉少奇らを追放して実権を奪い返した。1976年9月に病死」

毛沢東は現在の中国でも伝説的人物であり、人々に人気である。確かに毛は中国共産党の設立に当初より参加のメンバーで、計画経済に基づく国家社会主義の体制作りを進めた共産主義者であったため、資本主義には否定的であり、資本主義的言動をなす同志、劉小奇らを「走資派」(資本主義に走る党幹部、官僚、知識人らに対する蔑称)と呼び、資本主義の復活をはかる彼ら反・毛沢東派を失脚させて独裁体制を敷いた。文化大革命(プロレタリア文化大革命、1966─77年)にて毛沢東は資本主義要素の一掃と社会主義化徹底のために政治や社会や文化のあらゆる領域にて粛清・処罰を連発し、毛による独裁体制を確立させ、毛沢東思想の絶対化を完成させたのだった。おまけに毛が後継に指名した林彪(りんぴょう)ともやがて袂(たもと)を分かち、毛暗殺のクーデターをはかったとして林彪も失脚・死去の顛末であった。批林批孔運動(ひりんひこううんどう、1973年)の展開にて、林彪の死後にも執拗に彼を批判追及する毛沢東であったのだ。さらには天安門事件(第一次、1976年。人々から絶大な支持を集めていた首相の周恩来が病没。北京の天安門広場に市民が捧げた弔花を市当局が撤去したことで、弔花撤去に激怒した民衆と軍・警察が衝突した事件)にて、毛沢東の独裁下で反主流派であった鄧小平(とうしょうへい)を暴動の黒幕と見なして失脚させる。しかし毛沢東の死(1976年9月)を機に、失脚させられていた鄧小平が最高実力者として後に復権し、それまでの文化大革命の毛沢東路線を是正して、鄧小平は経済を柱に国防、工業、農業、科学技術の4部門(「四つの現代化」)での中国の近代化をはかる改革開放路線に着手した。

毛沢東死去後の1970年代後半から今日に至る2020年代の中国では、毛がかつて「走資派」と呼び、中国の資本主義化の発展をはかる反・毛沢東の立ち位置で文化大革命下にて粛清され失脚させられていた反文革派の鄧小平らが復権し、以前の資本主義の完全否定・社会主義下の計画経済の徹底から、経済の近代化を果たそうとする市場経済の改革開放路線が新たに取って変わった。近代中国史にて計画経済から市場経済への路線変更の転換の契機は明らかに1976年の毛沢東の死にあった。1970年代後半からの鄧小平の指導下にて、鄧の後継であった胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)、江沢民(こうたくみん)らの中国首脳が続き、さらには2000年代の胡錦濤(こきんとう)を経て社会主義市場経済での経済を中心とした改革開放路線は継続推進されて、2020年代の今日の中国共産党・中華人民共和国の最高指導者たる習近平(しゅうきんぺい)体制に繋(つな)がるわけである。事実、習近平指導下の中国は、毛沢東の独裁体制下の資本主義要素の一掃と社会主義化徹底からは程遠い、それとは正反対の国家による市場経済促進の改革開放路線であった。今日の習近平指導体制下の中国は、名目的には社会主義国・中国であるにもかかわらず、専制的な共産党指導部の政府を後ろ盾とした資本主義的発展を急速にはかる、実際は皮肉にも「資本主義の最高段階」(レーニン「帝国主義論」1916年)ともいうべき、軍事と経済とで世界の各地域へ膨張拡大を不断になす帝国主義的覇権国家・中国なのであった。

このように生前の毛沢東の社会主義的な政治信条とは明確に異なる、現在は反・毛沢東派が由来の経済の改革開放路線に基づく現代中国であったが、毛沢東が、第二次世界大戦時に抗日戦争・国共内戦を指導し戦後、中華人民共和国の初代主席に就任して今日の中国という国家の枠組みを築いたというその権力創出の揺るぎない正統性と、かつての文化大革命の時代からやられていた毛沢東の個人崇拝の政治的遺産があったため、それらに依拠する形で現在の中国政府の党指導部も、中華人民共和国の建国の父たる毛沢東を前面に押し出して人々のナショナリズム高揚の団結をはかり、また急速な資本主義化の下、中国国内での人々の貧富の格差の不公平感や政治的不満の封じ込めを毛沢東を利用してなそうとする。そうした現中国政府のイデオロギー的な宣伝利用があって、毛沢東は現在の中国でも伝説的人物であり、人々に人気なのであった。

岩波新書の赤、竹内実「毛沢東」(1989年)は毛沢東の評伝である。だが、記述されているのは中日戦争時の1930年代から戦後の国共内戦を経ての毛沢東による中華人民共和国の成立、文化大革命の時代、そして毛の晩年と死去までの時代に限定した内容になっている。これには、本書を読むと分かるが、著者の竹内実も発行の岩波新書編集部も、本新書が以前に出ていた岩波新書の青、貝塚茂樹「毛沢東伝」(1956年)の続編の認識があるからだと思われる。かつての貝塚茂樹「毛沢東伝」では「毛沢東伝を書いてきて一九三七年の、中日戦の勃発のあたりで、一まず筆をおくこととした」の文章が最後にあって、本書は毛沢東の生い立ちから共産主義者としての自己形成、中国国内での国共内戦、その後の1937年の中日戦争開戦前後までの評伝内容となっていた。そのため本書の竹内実「毛沢東」は貝塚茂樹「毛沢東伝」の続編評伝となるべく、本論では毛沢東の生い立ちや青年時代は省略して、中日戦争時の1930年代から書き起こされ、続く第二次国共合作、第二次世界大戦終結後の国共内戦を経て中華人民共和国の建国にて国民党を台湾に追いやった戦後の時代、中国共産党内での同志との激しい権力闘争、独裁体制を敷いた文化大革命を経て、毛沢東の晩年と死去までの事柄に集中して詳細に述べている。このことからして岩波新書の竹内実「毛沢東」を読む以前に、まず同岩波新書の貝塚茂樹「毛沢東伝」を読んでから、その後に貝塚「毛沢東伝」の実質的続編である竹内「毛沢東」に当たるのが適切であろう。

岩波新書「毛沢東」では最後に毛の生涯とその政治的意義を総括する際に、著者の竹内実が秦の始皇帝に言及して、秦の始皇帝ともども毛沢東を中国史における「皇帝型権力」の典型としている結論の考察が印象的だ(「始皇帝と毛沢東」200─204ページ)。中華人民共和国を建国し、自身に対する個人崇拝を人々に強要して、粛清と処罰の嵐であった文化大革命ら徹底した反資本主義で社会主義化の独裁政治を時に行なった毛沢東は、焚書坑儒をやり法学統治による厳しい思想統制と儒者弾圧を行うことで初めて古代中国を統一した秦の始皇帝に模され、著者の竹内実により否定的に評されているのだった。

竹内実「毛沢東」は1989年の書籍であり、本書の執筆時に起きた同時代の天安門事件(第二次、1989年。中国民主化の指導者的存在であった胡耀邦の死を機に学生たちの間で民主化運動が高揚。政府が軍隊を出動させ、北京の天安門広場にて民主化を要求する学生・市民を武力弾圧した事件)に触れ、冒頭に「序・天安門上の毛沢東」の序論を置いていた。北京の天安門広場に毛主席記念堂があり、天安門正面には毛沢東の大きな肖像画が掲げられている。なるほど、この冒頭の序論から民主化を封じる現代中国の動きに対し、岩波新書の赤、竹内実「毛沢東」は暗に一貫して批判的筆致で書き出されていた。

「毛沢東の革命路線から開放政策へ、そして戒厳令へ。中国は四十年間、激動を続けてきた。中国社会主義革命とは何であったのか。本書は毛沢東の社会主義のモデル、文化大革命期の思想と行動を詳細に分析する。また彼を育んだ湖南省の風土や詩に託された人生観を考察し複雑な人物像に光を当て、毛沢東の現代中国における位置を明らかにする」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(507)古田元夫「東南アジア史10講」

東南アジアは、アジアのうち南シナ海周辺に位置する国々を指す地域区分である。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島とその他の群島部よりなり、ほとんどの地域が年中高温の熱帯気候に属する。

地図上で見ると、東南アジアは右上の北東で東アジアの中国と接し、かつ左横の西南で南アジアのインドとも接して、東アジアの中国文化圏と南アジアのインド文化圏とに挟(はさ)まれ、両文化の影響をいつの時代でも強く受けた地域であった。東南アジアに接する東アジアの中国と南アジアのインドが昔から比較的安定した分裂の少ない大国(時に帝国)であり、それとは対照的に中国とインドの両文化圏に挟まれた東南アジアが多民族で多宗教で多文化である多様性を保って、昔から多くの国々が並立してあることも、この地域が東アジアの中国文化圏と南アジアのインド文化圏の強大な二大文化圏に挟まれてある地理的条件にその一因は遠からず由来している。

以前に沢木耕太郎「深夜特急」全三巻(1986─92年)という旅行記があった。沢木の「深夜特急」は昔からよく読まれている若者旅行記の人気の書籍である。沢木耕太郎「深夜特急」は、大学卒業して就職活動し銀行に内定したのに、せっかく決まった会社勤めを初日で辞めた沢木が乗り合いバスにてユーラシア大陸を横断できるか友人らとの賭けに始まる一人旅の話だ。本シリーズは後にバックパッカーの間で誰もが読む定番のものとなり、「若者が旅へ出る理由」を醸成して、日本における個人旅行流行の一翼を担った。昔は沢木の「深夜特急」を読んで、「自分も」と東南アジアやインドへ長期滞在で格安旅行をするバックパッカーになる若者が多くいたのだった。

「深夜特急」の中で当時の沢木はユーラシア大陸を横断するに当たり、まず日本から香港とマカオに飛び、その後に東南アジアに入る。最初に行ったマレー半島のマレーシアやシンガポールは東南アジアの東部に位置し、そこに滞在の巻の記述は旅先の街も人にもまだ東アジアの中国文化の影響を強く感じられる。ところが沢木が旅を続けタイのバンコクを経由する西漸の前後で、次第に街の空気も人々の感じも東アジアの中国のそれを脱して、明らかにこれまでの旅とは異質な西アジアのインドの雰囲気に徐々に変わっていくのだ。このことは現地に行かなくても、沢木耕太郎「深夜特急」の紙面から如実に感じ取ることができる。少なくとも私は昔に沢木「深夜特急」を初読の時から、「同じ東南アジアでありながら、香港から入り東の中国文化圏から西漸するにつれての西のインド文化圏へ次第に移行していく何とも言えない空気感」といったものを書籍を介して確かに感得することができた。このことからも、「東南アジアは北東で東アジアの中国と接し、かつ西南で南アジアのインドとも接して、東の中国文化圏と西のインド文化圏とに挟まれ、両文化の影響をいつの時代でも強く受けた地域であったのだ」と自信をもって強く私は言える。

さて岩波新書の赤、古田元夫「東南アジア史10講」(2021年)である。本書は、一国の歴史を古代から近現代まで新書の一冊で全10講の内に一気に書き抜こうとする岩波新書の「××史10講」シリーズの中の一冊である。もともと本企画は、坂井榮八郎「ドイツ史10講」(2003年)と柴田三千雄「フランス史10講」(2006年)と近藤和彦「イギリス史10講」(2013年)の三新書から始まった。後に多くの各国史が続く。直近のものでは北村暁夫「イタリア史10講」(2019年)と立石博高「スペイン史10講」(2021年)とがあった。そして今般の「××史10講」シリーズの古田元夫「東南アジア史10講」である。これまでのものが「ドイツ」や「イギリス」や「スペイン」ら一国の歴史であったに対し、今回は特定の国ではない、広い地域である「東南アジア」についての「××史10講」に変則的になっていることに少し意外な思いがするのであるが、岩波新書の「××史10講」シリーズ、現時点での最新新書の「東南アジア史10講」を先日さっそく読んでみた。

本書は東南アジアの歴史を先史の時代から現代に至るまで通史の形式で新書一冊のわずか280ページほどの「10講」、全10章で一気に概観するものである。原始・古代の青銅器文化と初期国家形成の時代から、中世と近世における各文化の隆盛と地域国家の興亡、近代を経ての東南アジアに対する西洋諸国の植民地支配とそれへの抵抗としての現地の人々の民族意識・ナショナリズムの高まりら、いつの時代にも東南アジアの歴史には人々の生の営みが同量の同密度であった。また同じ東南アジアとはいっても,そのなかでの地域の時代の特色差も明らかにあった。

しかし今日、私達が東南アジアの歴史を通史として一冊の新書にて簡略に概観する際には、各時代の各地域を等価に厳密に参照するのではなくて、ある程度、歴史の概論に偏(かたよ)りを持たせ偏向して見ていく要領も必要だろう。何しろ、多くてもわずか300ページほどの紙数制限があり新書一冊の形式で東南アジアの古代から近現代までの歴史を各時代とも詳細に記述するのは不可能であるし、それならば東南アジア通史の中で著者が重要と考える時代の歴史事項に焦点を絞って集中的に論じるしかない。

なるほど、岩波新書「東南アジア史10講」の目次を見ると「10講」の章立ては以下のようになっている。

「第1講・青銅器文化と初期国家の形成・先史時代~9世紀、第2講・中世国家の展開・10世紀~14世紀、第3講・交易の時代・15世紀~17世紀、第4講・東南アジアの近世・ 18世紀~19世紀前半、第5講・植民地支配による断絶と連続・19世紀後半~1930年代(1)、第6講・ナショナリズムの勃興・19世紀後半~1930年代(2)、第7講・第二次世界大戦と東南アジア諸国の独立・1940年代~1950年代、第8講・冷戦への主体的対応・1950年代半ば~1970年代半ば、第9講・経済発展、ASEAN10、民主化・1970年代半ば~1990年代、第10講・21世紀の東南アジア」

「東南アジア史10講」のうち、最初から第3講までのわずが60ページほどで先史時代から17世紀の近世以前までの東南アジアの歴史を極めて手早く簡略に述べて、その後に第4講から第10講で、全10講の内の半分以上にあたる7つの章の200ページ以上を使って、近世以降の近代(18世紀)から現代に至るまでの東南アジア史に傾注し集中的に述べているのであった。これは各時代に対する公平な歴史記述配分の原則からすれば、不均衡で不適切な章立て構成に思えるかもしれない。だが東南アジア史の全体を他著にも当たりあらかじめ知っている者からすれば、ある意味、賢明で妥当な全体の構成であり、東南アジア全時代の通史を執筆する際の記述の妙であると思う。東南アジア史の大きな流れは、

「青銅器文化→初期国家と中世国家→各国の海上交易→ヨーロッパ勢力の接近→西洋による植民地化→第二次世界大戦→民族自決と冷戦→ASEANによる統合」

となろうか。確かに、この中で後半の「ヨーロッパ勢力の接近→西洋による植民地化→第二次世界大戦→民族自決と冷戦→ASEANによる統合」に重点を置き、あえて偏向して記述するのが「東南アジア史10講」を執筆する際の絶妙な落とし所ではある。東南アジアの歴史では近代以降に、植民地支配や民族自決やナショナリズムら特に学ぶべきものが多くある。

また岩波新書の古田元夫「東南アジア史10講」は日本語で主に日本の読者に向けて書かれた書籍であるから、本新書に当たる際には「東南アジア史」の通史をただ漠然と読むのではなく、東南アジアに対する日本の関係性の歴史部分を私達は意識して重点的に読むべきだろう。この意味で、本書の「第7講・第二次世界大戦と東南アジア諸国の独立」での「二・日本の戦争」の節は決して軽く読み流してはいけない。最新の東南アジア史研究の成果に基づき、本論にて著者により指摘されている、

「東南アジア諸国での日本の軍政に当たり、結果としてヨーロッパからの植民地支配から脱させたものの当初、日本による占領が東南アジア現地の独立を支援するもののごとく受け止められないよう日本軍は細心の注意を払っていた。日本にとって東南アジアの占領は、日本が必要とする重要資源を確保し(「重要国防資源獲得」)、作戦軍が現地で必要な物資調達をなし自活できるようにすること(「治安恢復」「現地自活」)が最重要課題だったからである。ところが1943年以降、戦局の悪化で日本の現地支配が困難になってくると日本は米英連合軍に対抗するための戦争協力を占領地住民にいっそう強く求めざるを得えない事情から、ビルマとフィリピン、インドネシアらに対し相次いで『大東亜解放』の『独立』スローガンを付与し、日本の『指導』に服する範囲での形式的な『独立』の容認に転じた」(147─149ページ)

「経済面では、日本軍は東南アジアで、それまでに築かれていたフランスやオランダら旧宗主国との関係とアジア域内交易の貿易構造を切断して、日本を東南アジアの鉱産物資源やその他の戦略物資の独占的輸入国とした。しかし、日本の経済力が脆弱であったため、従来のヨーロッパ諸国の植民地支配とは異なる形で、十分な対価なしの資源の略奪という、いわば『最悪の植民地支配』となった。戦争末期の経済的混乱が招いた最大の悲劇は1945年にベトナム北部で発生した大飢饉である。インドシナに日本が最も期待した戦略物資は米であり、日本や他の日本支配地域への輸出と、現地の日本軍の自活に用いるための過剰な米輸出により、当時のベトナム北部は深刻な飢饉に見舞われた」(150ページ)

らの、第二次世界大戦時における東南アジア史にての、日本国と日本人の東南アジアの人々に対する加害性の問題は是非とも押さえておかなければならないであろう。

「ASEANによる統合の深化、民主化の進展と葛藤─。日本とも関わりの深いこの地域は、歴史的に幾多の試練を経験しながらも、近年ますます存在感を高めている。最新の研究成果にもとづき、東アジア史・世界史との連関もふまえつつ、多様な人びと・文化が往来し、東西世界の交流の要となってきた東南アジアの通史を学ぶ」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(506)大江健三郎「親密な手紙」

岩波新書の赤、大江健三郎「親密な手紙」(2023年)は岩波書店の月刊誌「図書」に2010年から2013年まで連載された、各人についての思い出を語る大江の文章を収録したものである。

「窮境を自分に乗り超えさせてくれる『親密な手紙』を、確かに書物にこそ見出して来たのだった。渡辺一夫、サイード、武満徹、オーデン、井上ひさしなどを思い出とともに語る魅力的な読書案内。自身の作品とともに日常の様々なできごとを描き、初めて大江作品に出会う人への誘いにもなっている。『図書』好評連載」(表紙カバー裏解説)

本書は、大江健三郎(1935─2023年)が70代半ばの時の執筆連載で大江の晩年に当たる著書である。大江健三郎は70代半ばを越えた2010年代以降は長編、中短編ともに新作小説の執筆発表なく、評論・エッセイの大きな仕事もあまりやらなくなっていた。2010年代に入り、以前に発表した小説に手直しし最終版の決定稿として集成の自選集を編(あ)んだり、自身のこれまでの作家生活を振り返るインタビューに答えるなどの仕事が主要なものになっていた。岩波の月刊誌「図書」に2010年から2013年まで連載の、今般の岩波新書「親密な手紙」を読むにつけ、「これは大江健三郎の絶筆に近いものだ。あーもう大江の新作は読めないのだな」とこみ上げてくる静かな感慨が私にはあった。「親密な手紙」は大江健三郎のほぼ「絶筆」に当たると言ってよい。

岩波新書「親密な手紙」は、印刷の文字ポイントが大きく余白も多くあり、もともと一冊の新書にするには字数が少なく、それでも200ページ弱の一冊の新書にして出したいために岩波新書編集部が工夫し相当に苦労して何とかまとめた感がある。大江健三郎が大学在学中に当時最年少で芥川賞を受賞し学生作家として文壇デビューした若い頃から以後、ほぼ途切れることなく壮年期まで精力的になした大江の書き仕事(小説と評論・エッセイともに)を追跡し、全作品を繰り返し何度も読んでいた私には、「いよいよ大江健三郎の大江文学も終わりの季節か」の完結した思いがあった。

大江健三郎は、いつの時代でもともかく連続性の完結性ある一貫したブレない作家であった。少なくとも一読者の私にはそういった好印象である。この人は、その時々の時代の同時代性を小説モチーフにたくみに取り込んできた。フランスの実存主義哲学の流行、安保闘争、社会党委員長襲撃刺殺の右翼青年のテロ、米ソ冷戦下での核兵器使用危機に関する「想像力」の問題、被爆地・ヒロシマと太平洋戦争時の沖縄戦のこと、日本の天皇制への批判と戦後民主主義の擁護、アジア・太平洋戦争における近隣アジア諸国の人々に対する日本人の戦争責任、第九条を焦点にした憲法改正議論、オウム真理教の問題に絡めた宗教的魂の問題、東日本大震災に伴う福島第一原発の放射能漏(も)れ過酷事故のことなど。

その一方で自身のことも絡めて、自分が生まれ育った四国の山の中の村のこと、はからずも大学在学中に作家デビューしてしまったため自分には作家以外の社会人経験がないという劣等感(コンプレックス)、知的障がいを持って生まれてきた息子のこと、ヤクザに襲撃され、後に突然に亡くなってしまった義兄、伊丹十三のこと、自身の老いのこと、大江が九歳の時に早くに亡くなった父親のことなど、「個人的な体験」を必ず創作の小説に盛り込む作家でもあった。

思えば大江健三郎という人は、自分のことを回避できない、常に自身のことを作品主題に盛り込む「私小説的」な文学者だった。「大江さんも、自身とは全く関係ない完全創作のフィクションや、自分のことは棚に上げて社会の巨悪・不正を告発する社会派小説でも書けばいいのに…。大江さんは真面目で律儀(りちぎ)な人だから自分のことを回避できず誤魔化さずに、いつも自身の『私』が小説に露出してしまうからなぁ」という昔からの大江健三郎ファンの愛読者としての私の思いである。それでこの人は自分自身に悶々(もんもん)と悩んで自然と若い頃から酒量が増えていってしまうのである。しかも好きな酒はアルコール度数が高い、必ずしも健康に良いとはいえないウィスキーを昔から痛飲しているのだった。

大江健三郎「親密な手紙」では、「一章・人間を慰めることこそ」での岳父(妻の父)で映画監督の伊丹万作からの引用、同様に「三章・伊丹十三の声」での義兄(妻の兄)、エッセイストであり映画監督であった伊丹十三についての「親密な手紙」の文章が特に印象に残る。やはり大江健三郎にとって、義兄の伊丹十三は自身に大きな影響を与えた偉大な人物だったのである。大江には、いつも兄的存在の人に慕(した)い憧れる弟気質な所があった。

死後の「伊丹十三(から大江へ)の声」といえば、大江健三郎の小説に「取り替え子(チェンジリング)」(2000年)というのがあった。本作は大江健三郎をモデルとした老作家が、伊丹十三をモデルにした投身自殺を図った映画監督の義兄とカセットテープの音声システムを介して、死後も交信を続ける話である。大江のほぼ「絶筆」に当たると言ってよい、岩波新書の大江健三郎「親密な手紙」を読了の後、本書に続けて大江「取り替え子(チェンジリング)」の小説を読み返したい強い思いに私は駆られていた。

岩波新書の書評(505)源了圓「徳川思想小史」

(今回の「岩波新書の書評」はタイトルとは異なり、中公新書の源了圓「徳川思想小史」について、例外的の載せます。念のため、源了圓「徳川思想小史」は岩波新書ではありません。岩波新書は日本で最初に創刊された新書で全般に優れた名作良著が多いが、後発の中央公論社から出ている中公新書も、岩波書店から出されている岩波新書と同様、本格派で重厚な良質教養の新書を出し続けている。特に中公新書は歴史系の書籍が他社新書よりも充実し優れている)

源了圓「徳川思想小史」(1973年)は昔から知っているが、これはさすがに名作の名著であると思う。本新書は必読である。私は本書に関し学生の20代の時に初読して以来、何度も読み返し日々携帯し出先に持って行ったりして、しかし汚したり紛失したりで何度か同じ本を買い直したりした。源了圓「徳川思想小史」は初版は中公新書から出ていたが(1973年)、後に中公文庫から増補で再発されている(2021年)。このことからも本書は売れ続け、広く長く読者に受け入れられ読まれているに違いない。ないしは中央公論社の出版社側も力を入れて再度、推(お)して広く世に出し問いたい渾身自信のバック・カタログであろうと思われる。

源了圓「徳川思想小史」を手に取り読み返すたびにつくづく実感するのは、適切内容で簡潔な長さの要領を得たよく出来た通史の素晴らしさである。著者の「徳川思想小史」を論ずる際の、その記述の運びに感心させられる。本書は全259ページで、その中に「徳川思想小史」として江戸初期から幕末にかけての主要な思想家と学派を網羅している。ここで本書の目次を挙げておくと、

「序・徳川時代の再検討、第一章・朱子学とその受容、第二章・陽明学とその受容、第三章・古学思想の形成とその展開、第四章・武士の道徳、第五章・町人と商業肯定の思想、第六章・十八世紀の開明思想、第七章・経世家の思想と民衆の思想、第八章・国学運動の人々、第九章・幕末志士の悲願、終章・幕末から明治へ」

わずか259ページの中に、江戸初期の林羅山から幕末の吉田松陰に至るまでの約250年分の徳川時代の思想史が概説されているのである。その際の著者による記述の良さというのは、自身か好みで肩入れしよく知っている思想家や学派には多くの紙面を割(さ)いて詳細に述べるが、他方で自身のあまり好みでなかったり、よく知らない思想家や学派に対し短い字数で事務的に済ますというような著者の主観的濃淡のある書き方ではなくて、どの思想家・学派に関しても同じ程度の量で均等になるよう最初から一定字数を決めて書き出している。そうした形式的な均等構成を遵守した上で、また各人・各学派への論述の中身に際しても、              

(1)その思想家や学派の出自と生涯のプロフィールと、当人の人柄が知れるエピソードの紹介。(2)中核思想のキイワードや主要概念の解説、それを通しての思想の全体像の概説。(3)同時代の東アジア思想(中国と朝鮮)との異同や、後の明治以降の日本の近代思想に徳川思想が与えた影響など歴史的意義についての考察。

の3点を必ず押さえ書き抜いている。こうした恣意的・気分的ムラのない、始めから書く分量と内容を決め、どの思想家にも必ず均一に連続して適用される所の、いっさいブレない概説の仕方の一貫した方針が本新書に対する良い読後感を醸成して読者に供するのだ。だから、源了圓「徳川思想小史」は昔から知っているが、これはさすがに名作の名著なのだと思う。

本書から学ぶべきは、学術的な概説書以外での日常にても人物や物事への評価一般、個別具体的な商談交渉でも、その都度、気分や雰囲気のブレで奔放(ほんぽう)自由に述べすに、押さえるべき論点や話の順序や適切な話の長さの間合いをあらかじめ決めてから、毎回連続し一貫した方法により適切かつ簡潔に話すことの肝要さだ。常にそうしたことを自身の中で意識化して心がける。自分勝手に毎回自由にのびのびと話してはいけない。そうすると話の内容が説得力を持ち良い印象で毎度、相手に間違いなく誠実に伝わる。そうした会話交渉を重ねていくと着実に相手と良い関係が築けて結果、自身にも大いにプラスになる。そういったことである。

さて源了圓「徳川思想小史」に関しては、著者の源了圓が幕末の儒者、横井小楠を集中的に読み、横井小楠研究の著作を多く残している人なので、本書「徳川思想小史」でも「第九章・幕末志士の悲願」の「5・横井小楠の儒教改革」を特に意識して読むとよい。この「横井小楠の儒教改革」の項には心なしか著者の力が込められ他の項よりも幾分、強く書かれているように読める。

2000年代以後の近年ではそうでもないが、それ以前の昔は徳川時代の江戸思想史は、明治以降の近代思想に至るまでの非合理な前近代的思想の封建制イデオロギーとして儒教を始めとする古学や国学や洋学全般は極めて否定的に理解されていた。だが源了圓はそうした否定的な近世思想史研究の風潮の中で、横井小楠を始めとした江戸時代の儒者の理気論や天道の観念の内に合理的な普遍的規範を見出し、それが明治以降の近代の自然科学や自然法(人権)思想に基づく立憲主義らの近代化の効果的摂取と定着につながったとして、江戸時代の思想を例外的に高く評価した数少ない論者であった。そういった旨の著作に源了圓「徳川合理思想の系譜」(1972年、「実学思想の系譜」として1986年に講談社学術文庫より復刊)というのもあった。源了圓「徳川思想小史」に加えて、源「徳川合理思想の系譜」も名作の名著として私は強く推す。

岩波新書の書評(504)渡辺洋三「法とは何か 新版」

一般に「××とは何か」というタイトルの書籍は、「××とは××である」とする著者による主張の定義文を押さえれば一応は読み切れたといえる。岩波新書の赤、渡辺洋三「法とは何か・新版」(1998年)においても、「法とは××である」の著者の主張文をまず押さえることが肝要だ。それは本新書では以下のような手順で明らかにされている。

岩波新書「法とは何か」にて、著者は「法とは何かを考えるうえで最も大切なことは、法の精神とは何か、ということである」と最初に述べる。その上で、

「法の精神とは、一言で言えば、正義である。それゆえ、法とは何かという問いは、正義とは何か、という問いに置きかえられる。…だから、法を学ぶ者は、正義を求め、正義を実現する精神を身につけなければならない」(8ページ)

とするのである。ただ「法的正義の精神」とは言っても「正義」の内容は曖昧(あいまい)である。そもそも「正義」とは、得てして各人が「これこそが正しい、これが正義だ」と信じる主観的思い込みの暴走を招きがちなものであるし、また「正義」には反対の「悪」を発見し排斥して「悪」を壊滅させることに力点がいつの間にか移り、特定他者を勝手に「悪」と決めけ勧善懲悪の憎悪の他罰感情の爆発に任せて他人を攻撃する安直な事態にもなりかねない。「法的正義遂行」の名の下に自身のあらゆる言動が果てしなく正当化されてしまうこともある。こうした「法的正義遂行の罠」も著者の渡辺洋三はあらかじめ心得ており、実に周到である。すなわち、

「法というものをイメージする場合、ひとはしばしば、それを動かないもの、固いもの、秩序維持のためのものと、とかく考えがちである。しかし、それがいかにあやまったイメージであるかは、…いずれにせよ、法に関心を持つ者は、法的正義のゆくえを自分で見きわめ、時代の法思想をわがものとしなければならない。法的正義の問題は、根本的には、『人間の尊厳』にかかわっている。人類の歴史は、過去に数えきれない過ちとおろかさを繰りかえしてきたとはいえ、また前進と退歩のみちをジグザグに歩んできたとはいえ、それにもかかわらず、長い目でみれば、『人間の尊厳』をめざす闘いの歴史であった」(17ページ)

と述べて「法的正義」=「人間の尊厳性」の自覚と明確に定義付けるのであった。この「人間の尊厳性」の自覚とは思想的表現であり、それを法律学の制度的表現に対応させれば、「各人の基本的人権の保障」になる。岩波新書「法とは何か」において、法とは「法の精神」のことであり、それは「法的正義」=「人間の尊厳性の自覚」=「各人の基本的人権の保障」と定式化されるのであった。

岩波新書「法とは何か・新版」は全七章で3つの主な内容セクションよりなるが、最初に「法とは何か」の総論で抽象的な定義をなした後、次に「法の歴史的変動・欧米型と日本型」の項にて近代日本の法制史をさかのぼり、西洋の法律学(「欧米型」)との比較にて、明治から1945年の敗戦に至るまでの戦前の近代日本の法律(「日本型」)が、上からの国家権力の統制支配の手段に終始し(近代天皇制国家の体制維持のための道具としての法であったという歴史的事実!)、国民への権利保障の側面が極めて弱い近代日本の法体系を誠に厳しく批判的に概観する。そうして最後に「現代日本の法システム」にて、家族制度に関する民法や土地制度や消費者保護法、司法の裁判制度や労働法、子どもの権利保護、国際的な人権法らの各論で、「法的正義」=「人間の尊厳性の自覚」=「各人の基本的人権の保障」の観点から一貫して、現代日本の法制度の不備と日本社会での人々の法の精神の問題性を指摘するのであった。

原理的にいって、人間の尊厳性の自覚に裏打ちされた各人の人権保障である法的正義の実現は、それ自体独立して漠然となされるわけではなく、人権を侵害し常に抑圧する者と、人権を侵害され絶えず抑圧される者との対立の対抗関係であるから、人権保障の法理論に関しては、国家と国民、軍隊・警察と市民、資本家と労働者、企業と消費者、多数の日本人と少数の在日外国人など、現実具体的な対抗関係になる。そうして著者の渡辺洋三が重要視して法的保障を強く訴えるのは、悉(ことごと)く後者の「人権を侵害され絶えず抑圧される者」たる国民一般であり、労働者で消費者であって、またマイノリティ(少数派)の在日外国人の方である。そして前者の時に「人権を侵害し抑圧する」側の国家や軍隊や警察、企業の資本家は、法的権力濫用の弊害観点から著者の渡辺により、時に不当なまでに極めて厳しい筆致で批判的に書かれることになる。

以上のことから、本新書に関しては毀誉褒貶(きよほうへん)が激しく、本書を好意的にかなり高く評価する人々がある一方で、本書に対し全体に厳しく異常に批判的で低評価な書評やブックレビューも目立つ。岩波新書「法とは何か」に関しては、賛同の高評価と全く同意しない完全否定の低評価の、両極端な評価が混在している。いうまでもなく、本書に好意的で高評価を下すのは個人の人権保障やマイノリティの弱者の権利保護に熱心な政治的左派、国際的な人権論者や市民運動のリベラルな人達であり、他方、本新書に対し異常に厳しく非難轟々(ひなん・ごうごう)で痛烈なのは右派保守や伝統的な国家主義思想の持ち主たちなのであった。また、そうした本新書に対し極めて厳しい低評価を下す人は、現実の社会の立場でも政府や自衛隊や警察、企業経営者や管理職ら、果てしなく個人の権利保障を追求するよりは、国家の発展や社会秩序維持のために上からの統制・処罰をなす体制側に属する人、ないしはそうした体制側の思想に心情的に同調する人々が多い。

確かに、著者の渡辺洋三は本論の中で「国家の法」と「社会の法」という二分法にて法には、国家社会の秩序を守るために統制・処罰するもの(これは「国家の法」であり、例えば刑法、行政法、道路交通法などが該当)と、政治権力からの不当な抑圧介入を防ぎ個人の権利保障をなすもの(これは「社会の法」であり、例えば憲法、労働法、環境権ら今後に法的整備が求められる新たな法律などが該当)の2つの側面があることに一応は触れている。しかし、本新書で主に論じられ絶えず強調されるのは、後者の「社会の法」の権利保障としての法の側面であって、他方の「国家の法」の人々が遵守すべき法律規範やサンクション(制裁・処罰)の制定と運用に関し著者は極めて消極的で、それへの言及は本論ではかなり少ないのである。

これには、岩波新書「法とは何か」以外の渡辺洋三の著作も通読すれば分かるが、以下の主な理由が考えられる。

(1)明治から1945年の敗戦に至るまでの戦前の近代日本の法について歴史的概観をなした時に、日本では法全般が上からの国家権力の統制支配の手段に終始し、国民への権利保障の側面が極めて弱かったという近代日本の法体系についての批判と反省の意識が、法学者の渡辺洋三の中でかなり強いため。

(2)そもそも渡辺洋三は、戦後に東京大学で「川島法学」と呼ばれる法学を成した川島武宜の弟子に当たる人で、師の川島武宜その人が、左派リベラルな「戦後民主主義」の中心的な担い手の一人であり、川島は、国家(政治権力)よりする法を介しての上からの国民の服従義務ではなく、個人の権利を保障するような法律の制定・運用の意識がもともと日本人は希薄であるとする「日本人の法意識」についての問題指摘を熱心に強くなした法学者であった。そのような師である川島武宜の問題意識を引き継いで、「川島法学の正統な後継者」として渡辺洋三はあったため。

少なくとも以上の2点が押さえられ理解された上で、法学者の渡辺洋三の著作は読まれなければならないだろう。むしろ、これらの点を踏まえるなら、渡辺の書籍を読んで「法を個人の権利保障の装置として捉える思考が強すぎる」などと安易に激怒してはいけない。

岩波新書の赤、渡辺洋三「法とは何か」は、昔から読み継がれている法学の初学者に向けた入門の書であり、大学の法学部にて新入学の学生にまずは本書を読んでレポート提出を課すような定番の書籍である。渡辺「法とは何か」が「新版」として1998年に改訂されたのは、本新書の記述内容の全面的な変更ではなくて、著者の法への基本的な考えはそのままに、判例データの更新に加えて、時代の変化に合わせた国際的な人権思想やマイノリティ保護ら、著者が言うところの新たな「法的正義」の内容を加えるべく、従来の旧版の基調はそのままに著者の法的正義に関する思想をより充実・強化させるものであった。この意味で岩波新書「法とは何か・新版」は、旧版の「法とは何か」とは何ら内容に本質的な変更はない。

「法の精神とは何か。また現代社会の法体系とはどのようなものか。私たちの生活とどう関わり、どのような影響を及ぼしているのか。著者は、長く読みつがれてきた『法とは何か』(1979年刊)をほぼ二0年ぶりに全面改訂、データを一新するとともに、人権また国際法の分野をくわえた。構想あらたに書き下ろされた学生そして社会人のための最良の法学入門」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(503)伊東光晴「ケインズ」

近代の主流派経済学といえば古典派経済学であり、古典派経済学とは「労働価値説」(人間の労働が価値を生み、労働が商品の価値を決めるという理論)を理論的基調とする経済学の総称である。「古典派経済学以外に新古典派経済学の区分も必要ではないか」「例えばケインズは古典派経済学者といえるのか!?」など、古典派経済学の定義や代表的な古典派経済学者については各人異論もあるであろうが、労働価値説を基調とする古典派経済学といえば、

「スミス、マルサス、リカード、ケインズ、マルクス」

の5人の経済学者にひとまずは、まとめることができようか。

アダム・スミスは古典経済学の創始であり、倫理学に裏打ちさせる形で(「道徳感情論」1759年)、人間主体にとっての労働の生産力、資本の利潤、市場の形成ら近代経済学における基礎的概念を整理した(「国富論」1776年)。続くマルサスとリカードは、それら個々の独立した概念の有機的つながりを明らかにし、また現実の各国貿易経済への経済政策にまで落とし込んで、統計学的な「人口論」(1798年)モデルでの商品の供給・需要の全体的仕組みや、保護貿易ではない自由貿易の利点(自由貿易がもたらす利潤蓄積の増大、国富の増進)を明らかにした。

その後、ケインズは不況・失業といったさらなる現実の経済問題に対応すべく、近代国家の統一政府による、より作為的な減税・公共投資らの経済政策を案出し、完全雇用に基づく経済普及の救済策たる「マクロ経済学」(数理理論的なミクロな市場モデル分析ではなくて、個別の経済活動を集計し現実の一国経済全体に着目した経済学)の理論と実践とを提唱した。そうして最後にマルクスは、ケインズに先がけて早くも古典経済学における各人労働の、資本家と労働者との間での搾取の欺瞞(価値領有法則の転回)、また資本主義社会で広範に認めうる人間疎外の現状(資本主義体制下の包括的支配)を指摘し、古典経済学への全面批判である「経済学批判」(1859年)を展開した。このマルクスを以て近代の古典経済学は一周回り、一つのサイクルを経たということが出来る。

以下では、古典経済学の代表的な5人の経済学者のうちのケインズについて述べてみたい。

「ジョン・メイナード・ケインズ(1883─1946年)はイギリスの経済学者。国家の経済への介入を肯定的に捉える修正資本主義を唱え、経済学に大きな変革をもたらした。国家が積極的に介入・統制を行って景気の立て直しをはかるべきとするケインズの経済学は、それまでの資本主義では国家の介入を排除する自由放任(「なすに任せよ」)が基本と考えられていたことから、『修正』という言葉を冠して 『修正資本主義 』とされる。ケインズの修正資本主義は金融政策(利子率の切り下げ)と財政政策(政府による社会資本への投資)とを柱とし、第二次世界大戦開戦前夜のアメリカにて、フランクリン・ローズベルト大統領により『ニューディール政策』(「新規まき返し」の意味)という恐慌克服策として採用され実施された。全国産業復興法(1933年)やテネシー川流域開発公社の設立(1933年)らが、ルーズベルト大統領下でのケインズ主義的な修正資本主義のニューディール政策に該当する」

ケインズといえば、第二次世界大戦開戦前夜のアメリカでニューディール政策の恐慌克服策にケインズ経済学の理論政策が採用されたことから、アメリカの経済学者と勘違いされる向きも多いが、ケインズはケンブリッジ大学出身のいわゆる「ケンブリッジ学派」のイギリスの経済学者であった。ケインズ以前の経済学においては「セイの法則」が素朴に信じられていたが、ケインズはそれに「有効需要の原理」を対置した。有効需要の原理は従来経済学のセイ法則と相対するもので、「供給量が需要量(投資および消費)によって制約される」というものである。有効需要とは総需要と同義であり、消費・投資・政府支出および純輸出の和で定義される。そもそもセイの法則は「供給はそれ自らの需要を生み出す」と要約される理論で、どのような供給規模であっても価格は柔軟に変動するなら必ず需要は一致しすべてが受容される(販路法則)という考え方に立つ。セイの法則の背後にあるのは、経済は突き詰めれば全ては物々交換であり、貨幣はその仲介のために仮の穴埋めをしているに過ぎないという考えである。しかしながら、ケインズは経済全体の有効需要の大きさが国民所得や雇用量など、一国の経済活動の水準をマクロ的に決定するとし、セイの法則には所得のうち消費されなかった残りに当たる貯蓄の一部が投資されない可能性を指摘して、セイの法則を批判した。

これは有効需要によって決まる現実のGDP(国内総生産)は従来経済学が唯一可能とした完全雇用における均衡GDPを下回って均衡する不完全雇用を伴う均衡の可能性を認めたものである。つまりは、有効需要の原理を受け入れると消費性向と投資量が与えられ、そこから国民所得と雇用量がマクロ的に決定されることになり、そこでは完全雇用均衡は極限的なケースに過ぎなくなる。よって有効需要の政策的なコントロールによって完全雇用GDPを達成し、「豊富の中の貧困」という逆説を克服することを目的とした総需要管理政策(ケインズ政策)が発案されることとなる。このことを以て、従来経済学を転回させた画期で「ケインズ革命」といわれている。

セイの法則、有効需要の原理、完全雇用GDPなど何やら細かな難しい話になっているが(笑)、経済学の専門家ではない一般の私達は便宜にとりあえず以下のように大雑把に理解しておいて構わない。すなわち、ケインズは以前の経済学が理論モデルで実際の経済動向を原理的に押さえる際の不備を指摘しながら、現実経済に見合っていない、十分に経済の実態を言い当てていない分析理論不足の従来経済学への批判から、さらに一歩前へ進めて現実の景気循環への対応手段として、金融政策たる減税や財政政策たる公共投資を内実とする国家による公共政策理論を打ち立てた。この点でケインズ提唱の経済学は、まさに「ケインズ革命」と呼ばれる画期であった。従来の経済学では市場システムの自然の成り行き調和に任せること(自由放任主義=「なすに任せよ」)が基本の考え方だったのであり、時の政府が人為でできることといえば、自由放任の自由主義か、関税操作の保護貿易主義の立場を取るかの二択しかなかったのである。そこに国家が積極的に経済介入を行って景気の立て直しを含む市場コントロールをはかるべきとするケインズの登場があり、それまでの資本主義では国家の介入を排除する自由放任が基本と考えられていたことから、「修正」という言葉を冠してケインズ経済学は 「修正資本主義 」の新しい経済学とされる所以(ゆえん)である。

ここで「ケインズの新しい経済学は、今までの経済学の予定調和観の誤りを経済分析の武器を通して指摘し、国家の政策なくしては失業問題の解決も不景気の克服も不可能であることを論証した」の旨でケインズの修正資本主義にての「自由放任主義批判」解説の箇所を、岩波新書の伊東光晴「ケインズ」(1962年)から引こう。

「ケインズの叡智主義は一方では修正資本主義的な階級観を生みだしたと同時に、他方では自由放任主義に対する批判となってあらわれた。自由競争を理想とする考えは、百年以上も前からイギリスでは経済学の正統となっていた。と同時に一九世紀のなかば以来、それはダーウインの進化論の影響も受けて、放っておくならば競争による自然淘汰によって社会は進歩するという考えを色こくしていた。かつて古典派経済学が求めていたものがそれであったし、貧しい村を見ても、自由放任が最上だから、何もできないという人たちの集まりがそれであった。ケインズがこれらを批判したとき、それはこのようなダーウイン主義と結び合わさってしまった自由主義の姿を批判したのであった。知性主義者ケインズには、問題があるのに何もしないことは耐えられないことであった。…一九二六年、かれは『自由放任の終焉』を書いた。…そしてかれは、経済的悪─不安定、危険、富の不平等、失業などをとり除くために、中央銀行や政府が努力すること、海外投資を国内投資に切りかえるために、社会全体の貯蓄・投資を規制すること、さらにはどの程度の人口が妥当であるかによって人口をコントロールすることが必要であると述べている。…こうして人間の叡智による社会の運営というケインズの考えは、…政府による経済のコントロールはついでたんに貨幣制度という金融面での規制から、進んで公共投資・租税政策によるものへと拡大していったのである」(「自由放任主義批判」)

哲学者のヘーゲルの古典的な近代哲学にいまだ心酔している人達のことを蔑称の意で時に「ヘーゲリアン」と呼ぶことがあるが、同様に経済学者のケインズに傾倒しケインズ経済学を信奉している人を悪い意味で「ケインジアン」と呼称することもある。先に引用の岩波新書「ケインズ」の著者の伊東光晴にても、「ケインズの叡智主義」「知性主義者ケインズ」らの語りからそれとなく察せられるように、本新書で伊東はケインズを非常に高く評価し概ね好意的に書いている。だが、「かつての古典経済学は社会的ダーウイン主義とも結びついて自由放任を最上とし、その結果としての経済的悪─不安定、危険、富の不平等、失業らの蔓延と放置への義憤の怒りから、貨幣制度という金融面での規制や公共投資・租税政策といった政府による経済のコントロールの修正資本主義の理論提唱と実行着手にケインズは至った」とする趣旨の解説は、著者の伊東光晴の過剰なケインズへの思い入れと賞賛評価が主で、「やはり伊東もケインジアンなのか…」の少し残念な思いが私はする。

確かにケインズが活動した時代、第二次世界大戦開戦前夜の経済学界では、新たに概念創出したり、理論的モデルを打ち立てて現実の経済の実態を過不足なく事後的に説明できるような静的な観察と分析に基づく経済学であるよりは、現実経済への有効な働きかけをなす動態的で対処法的な政策経済学が切に求められていた。何となれば第二次大戦前夜の世界では大恐慌という時代の深刻問題があり、人々は不況と失業の経済的窮乏に苦しめられていたのである。そうした時代の局面にて、金融政策と財政政策を柱とする国家による公共政策理論を打ち出したケインズ経済学の「ケインズ革命」と賞されるような時代的な画期は、なるほど認めうる。しかしながら、市場の自由放任主義批判で不況や失業らの経済問題を解決しようと修正資本主義的な国家による経済コントロールの作為を理論構築したケインズにおいて、それは「叡智あふれる知性主義者ケインズ」からする「経済的悪─不安定、危険、富の不平等、失業などをとり除くため」の善意の努力の表れという観点からのみ肯定賞賛の論調で単純に述べることは、慎(つつし)まなければならないだろう。ケインズ存命の時代には、近代国家の体制下にて統一的な市場の形成や公的金融制度の確立、それに積極介入して統制しうる一元的で強権的な国家(政府)が既に成立してあったのだ。経済学者・ケインズの個人的な美徳の動機以外での、そういった市場経済コントロールを可能にさせた客観的な外的条件の数々を精密に押さえておくことも必要だ(そもそも、それら客観的な外的条件がそろっていなければ、ケインズは自身の経済学理論を着想したり、実践提唱できたりはしない)。

事実、市場を自由放任に委ねることなく、国家による積極的な経済への介入・統制を肯定的に捉えるケインズ経済学は、不況や失業の改善で人々の貧困格差を是正し救出する、時の政府による人道的な福祉国家政策を呼び込んだが、他方で政府が一国経済に積極介入して完全統制することでの強権的な独裁体制成立の温床にもなり得た。ケインズ存命時の同時代のドイツ、ならびにソ連それぞれにおける、ヒトラーのナチス・ドイツの国家社会主義政策たる統制経済、スターリンのソビエトの共産主義体制下での一党独裁による計画経済は、いずれもケインズ経済学に通ずる国による市場経済への介入・統制の手法に支えられていた。

「隷属への道」(1944年)として国家社会主義も共産主義も「統制経済」や「計画経済」の名で国が市場経済に積極介入することで経済的自由のみならず、やがては様々な分野の自由が制限されることになる、この意味でファシズム(ナチズム)とマルクス主義(スターリニズム)を同一視し、双方を全体主義として徹底批判した古典的自由主義の経済学者であるハイエクは、同世代のケインズと論争し、ケインズ経済学に対し終始否定的であった。ある程度の経済的自由を犠牲にして国家の市場経済への介入を主張する修正資本主義たるケインズの経済理論に、ファシズムやスターリニズムに通ずる全体主義的統制の罠を、自由主義者であるハイエクは確かに見ていたのだ。

その他、金融政策と財政政策を柱とする国家による公共政策理論を打ち出したケインズ経済学においては、「公共事業投資」という名目での政府要人と公的事業を手掛ける業界企業との癒着・汚職の構造的問題や、金融政策と財政政策による長期かつ過度な財政出動に伴う公的財務の逼迫・窮乏の財政不健全化の問題も指摘できる。

岩波新書の書評(502)池上嘉彦「記号論への招待」

岩波新書の黄、池上嘉彦「記号論への招待」(1984年)は、まずそのタイトルが私には昔から強く印象に残る。「記号論への招待」で、「招待」である。「記号論入門」とか「記号論概説」ではないのだ。記号論の初歩を初学者にも分かりやすく伝える「入門」や、記号論の全体のあらましを概観する「概説」ではない。本新書は確かに内容は「記号論入門」的であるが、「本書を通して記号論を少し知って、本書を機に後に記号論を本格的に学んでみるとよいですよ」の微妙なニュアンスを含む、「記号論のすすめ」といった少し腰の引けた「記号論への招待」タイトルである。

本書が出された1980年代の記号論の一般的な読まれ方は、記号=言語論そのものを深く学び知るというよりは、記号論に通底する思考が当時のポストモダンの現代思想の潮流に乗っていたことが大きい。そうした時代的な読まれ方に合致して、特に記号論は1980年代に流行し広く読まれていたのだった。1980年代には、いわゆる「ニュー・アカデミズム」のブームがあって、近代化論やマルクス主義ら従来の正統学問とされるものから少し外れた、記号論や構造主義や文化人類学やメデイア論やサブカルチャー批評などの新たな学問が「ニューアカ」と称され、80年代の日本では流行していた。その時代には、ポストモダンな現代思想がもてはやされていた。

岩波新書「記号論への招待」は1984年発行であり、本新書は当時のニューアカ・ブームの下にあった。本書で強く意識され論述の基調となっているのはソシュールの記号論である。80年代の日本のニューアカ・ブームの際によく読まれていたのはソシュールの記号論だった。ソシュールの記号論は、それまで主流であった言語論での、言語の記号は単に物事を指示したり人間間の伝達の道具として言語を捉える言語道具論と、言語はある特定民族や地域国家に先人を通し連綿と伝えられてきた文化的アイデンティティとする文化言語論との両極を退け、新たな言語理解の地平を切り拓く記号論の画期であった。それまでの近代の、割り切った指示伝達の手段としての単なる道具言語論と、「言霊(ことだま)信仰」など言葉に歴史伝統の継起を過剰に読み込むロマン主義的な文化言語論の双方を、ソシュールの記号論は容易に超えることができた。また各国、各地域の個別の言語に専門特化して偏向することなく、ソシュールの記号論は人間が使う言語一般を幅広く考察対象に置くこともできた。それゆえ80年代の近代批判=ポストモダン(脱近代)の文脈にて、ソシュールの記号論は流行人気でよく読まれていたのである。

例えば犬の鳴き声表記について、一般に英語では「バウワウ」、日本語では「ワンワン」である。英語圏のアメリカの犬と日本語圏の日本の犬とで実際に鳴き声が異なるわけはなく、犬の鳴き声はどこの国でも万国共通であるから、英語と日本語とで犬の鳴き声表記が異なるのは、言語そのもの(音韻表記のあり様)と、言語を使う人の背景文化(ある文化圏にて共通する人々の音声の聞こえ方・認知の仕方)に起因するのである。このことから言語(記号)は必ずしも指示対象を厳密に捉え反映しているわけではなく、対象と言語の間に結び付きの恣意性(恣意的な関係性!)があることが認められる。言語は決して物事の正確な反映ではない。しかしながら厄介なことに、必ずしも指示対象の正確な反映の厳密な結び付きがない恣意的言語の記号を使い続けていると、その恣意的結び付きの事実がいつの間にか忘却・隠蔽され、あたかも言語そのものが物事の正確な表記のように人々に錯覚され共同化されて、恣意的虚構の言語が新たな現実(らしきもの)を構成してしまう。先の犬の鳴き声の例でいえば、日常的に日本語を使っている私たち日本人には、確かに犬は「ワンワン」と鳴いているように実際に聞こえるし(決して日本人の耳には「バウワウ」と鳴いているように聞こえないのだ)、日本語を使う皆は、犬が「ワンワン」と鳴くことを少しも疑わない。同様にアメリカ人は、犬が「バウワウ」と実際に鳴いていることを信じて疑わないのである。

ところで、近代とは先天的にある絶対的な普遍規範から降りてきて現実を意味づける思想の時代であり、近代社会とはそうした普遍価値を志向する社会である。近代の先天的で絶対的な価値規範とそれに基づく制度・システムといえば、例えば人間主体、個人、権利、民主主義、科学合理主義…というように。そして前述のような、物事の実体に即した価値規範がそもそもないのに、ある時からその価値規範が共同化され普遍価値として、あたかも本来的に存在しているような倒錯的な価値形成のあり様を端的に暴く記号論は、極めて近代的な人間の記憶や意識、制度やシステムの当たり前の自明性・正統性を疑う、人間主体や人間を取り巻く外部環境的なものを果てしなく相対化していく脱近代(ポストモダン)の思考に上手い具合に接続していた。物事の関係性に着目した価値規範に関しての相対主義たるポストモダンの時流に、記号論の倒錯的な価値形成の考察指摘は見事、合致していたのである。

加えて、言語は壮大な差異の体系の精密な記号システムでもある。各語の音韻音節や概念や評価の言葉はそのものの実体があるため、それに対応して言語も後にあるというよりは、そもそも最初に言語という物事の相互の違いの関係性を示す差異の体系がまずあって、その違いの関係性から後に各実体が生ずるの思考である。記号論でのこうした考え方は、実体が先天的にまずあってそこから事物が絶対的に存在するのではなく、差異など最初に物事相互の関係性があって、そこから副次的に個々の事物の存在やそれへの評価が生じるとする関係の相対性に着目したポストモダン思潮に確かに合っていた。

よく指摘されるように、言語学者であり記号学者であったフェルディナン・ド・ソシュール(1857 ─1913年)は存命中に公的な著作を一冊も出していない。ソシュールの記号論の概要が広く知られるのは、彼が晩年にやった大学での一般言語学の授業を聴講した学生記述の講義ノートが後に出版されてからであった。その講義ノートを手がかりに皆が後の80年代に「ラングとパロール」とか「シニフィアンとシニフィエ」など、ソシュールの記号論を読み解こうとし、またソシュールの記号論を超えることを各人が目指していたのである。ソシュールの記号論の1980年代のポストモダン時流での主な読まれ方は、記号論・言語論そのものを深く学んで知るというよりはソシュールの記号論を通して、そこに通底し集約的にある、価値形成の倒錯や差異の体系など物事の関係性に着目した相対主義の思考を摘出し、それを近代批判のポストモダン(脱近代)の文脈に乗せ、記号論以外での他学問や現代社会の解析にて幅広く読み継ぐことにあった。そういった意味で80年代に異常人気で跳(は)ねた浅田彰「構造と力・記号論を超えて」(1983年)は、なるほど記号論に依拠しながらも最後は「記号論を超えて」のポストモダン潮流に乗ったニューアカ・ブームの当時の時代の空気を如実に示す、ある意味、名著であったと思う。

岩波新書の黄、池上嘉彦「記号論への招待」に関しては、まず最終章の「記号論の拡がり・文化の解説のために」から読み始めてポストモダン時流での記号論の読まれ方、文化一般への記号論的思考の活かし方の全体像を押さえた上で、その後に冒頭の第一章「ことば再発見・言語から記号へ」に戻り詳細な内容を順次読み進めて記号論自体を学ぶ、の方法をとるとよい。

「いま広範な学問・芸術領域から熱い視線を浴びている『記号論』。それは言語や文化の理解にどのような変革を迫っているのか─。ことわざや広告、ナンセンス詩など身近な日本語の表現を引きながらコミュニケーションのしくみに新しい光をあて、記号論の基本的な考え方を述べる。分かりやすくしかも知的興奮に満ちた、万人のための入門書」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(501)芹沢長介「日本旧石器時代」

岩波新書の黄、芹沢長介「日本旧石器時代」(1982年)に関連させて、日本の原始時代の考古学上からする時代区分論の概要を確認しておこう。

まず土器の使用別による文化的時代区分がある。縄文土器が使われた時代は「縄文文化」(約1万3000年前から前4世紀頃まで)、弥生土器が使われた時代は「弥生文化」(前4世紀頃から3世紀頃まで)である。縄文土器が使用されない縄文文化よりも前の時代は「無土器文化」、もしくは土器を有する縄文文化よりも先行しているので「先土器文化」の時代とする。この土器の種類と土器使用の有無以外にも、並行して使用石器の種類による時代区分もある。石器には「打製石器」(石を打ち砕いて作った石器)と「磨製石器」(表面をなめらかに研磨加工した石器)があり、打製石器(旧石器)のみを使用の時代は「旧石器時代」(約4万年前以降)、打製石器に加えて磨製石器(新石器)も使い始めた時代は「新石器時代」(約1万3000年前以降)とする。先の土器使用による文化的時代区分と石器使用によるそれとをすり合わせると、縄文文化は打製石器と磨製石器を共に使った時代なので新石器時代、弥生文化の時代には打製石器と磨製石器に加えて、青銅器と鉄器(金属器)も使われたため、弥生文化は「金石併用時代」である。そして縄文文化以前の無土器文化(先土器文化)の時代は、打製石器のみ使用の時代であるから旧石器時代となる。

これら土器と石器の道具使用による並列した二つの時代区分が日本の原始の時代を考えるに当たり非常に都合がよいのは、土器区分による縄文文化と弥生文化の時代がまずがあって、縄文以前の時代は無土器(先土器)文化の時代と一概に曖昧(あいまい)に設定せざるを得ない所で、もう一つの石器による時代区分があるので、その区分を導入して縄文文化は新石器時代だが、縄文以前の時代は旧石器時代と規定でき、さらに旧石器時代の中でも使用される石器に見られる加工形態の相違からより細かに区分けして、縄文以前の時代を旧石器時代の前期と中期と後期の三時代に新たに時代区分できるからである。

以上のことをまとめると、

無土器(先土器)文化=旧石器時代(打製石器のみ使用)、縄文文化=新石器時代(打製石器+磨製石器の使用)、弥生文化=金石併用時代(打製・磨製石器+青銅器と鉄器の使用)

となる。

ところで、戦後のある時期まで日本列島には縄文以前の旧石器時代(無土器・先土器文化の時代)に人類が居住していたことは証明されていなかった。戦前には縄文文化以前の日本列島にはまだ人類はいなかったと一般に考えられていた。縄文土器や縄文の時代のものと目される遺構と人骨はすでに発掘されていたが、縄文以前の時代のものに関しては何ら発掘の事例がなかったのである。縄文時代の前に日本列島での人類の居住が認められ日本にも旧石器時代が存在したことを証明するには、縄文以前の古い地層から人間が製作使用した石器、もしくは人間そのものである化石人骨が出土・発掘されればよいわけである。

そして遂に1946年に先土器時代に属する群馬の関東ローム層中から石器が発見され、縄文時代に先行した土器を伴わない旧石器時代の遺跡、岩宿遺跡と認定。縄文文化以前の日本列島での人類の居住と日本にも旧石器時代が存在したことが岩宿遺跡の発見により立証された。岩宿遺跡は社会的関心を広く集め、「岩宿、世紀の大発見」「岩宿の奇跡」として当時の社会に考古学の一大ブームを引き起こしたという。縄文以前の古い地層から石器が発見され、日本における旧石器時代の存在証明になった画期から一部では岩宿遺跡の発掘にちなんで日本の旧石器時代を「岩宿時代」と呼称するほどの熱狂ぶりであった。

この1946年の岩宿の発見の後、浜北人骨(1960年に静岡で発見。当初は旧石器時代の人骨とされていたが、現在では縄文人のものとされる)、山下人骨(1962年に沖縄で発見。年代の明らかなものとしては最古)ら、日本各地で旧石器時代のものと認められる化石人骨の発見が相次ぎ、ここに至って縄文文化以前の日本列島に人類が居住していたこと、日本にも縄文文化の時代に先行する旧石器時代が存在したことは疑いようのない揺るぎない歴史的事実となった。

以上のように、日本における旧石器時代存在の証明と日本の旧石器文化の実態解明の画期と端緒になった岩宿の発見であったが、岩宿遺跡の発掘調査に関しては考古学上の学術的話題の他にも、当時の日本の考古学会内部の人的関係の愛憎対立の泥沼もあった。

群馬のローム層中から石器を発見したのは相沢忠洋である。相沢は当時20歳、食料品の行商をしながら在野で考古学研究を行っていた。相沢が群馬県新田郡笠懸村で、これまで人類は生存していないと考えられていた関東ローム層の赤土層(後の岩宿遺跡)から石器(黒曜石製の尖頭器)を発見し、採集石器を当時、明治大学学部生であった芹沢長介に見せ相談した。この相談を受けて、芹沢は同明治大学教授の杉原荘介に連絡。後に杉原を隊長とする明治大学を中心とした発掘調査隊が組まれ、岩宿遺跡の本格的な発掘調査を実施。結果、縄文文化の時代に先行する旧石器時代の存在が確実となった。

ところが、当時この重大な発見に際して学界や報道で最初の発掘者である相沢忠洋の存在は黙殺されてしまう。明治大学編さんの発掘報告書でも、相沢は単なる「調査の斡旋者」とされ、代わりに岩宿での旧石器時代の発見は後の発掘調査を主導した明治大学教授の杉原荘介の功績とされた。大学組織に属さず在野で考古学研究を行っていた相沢の功績をねたんで、相沢に対し当初は考古学会や一部の郷土史家からの黙殺や心無い非難の攻撃もあったようである(後に相沢への不当な扱いは消え、日本に旧石器時代が存在したことを証明した考古学者として、今日では岩宿遺跡の名とともに相沢忠洋の功績は世の人に広く伝わっているが)。

この事態を受けて、相沢忠洋に杉原荘介を紹介した芹沢長介は杉原に抗議。杉原は芹沢より六歳年上(ちなみに相沢は芹沢より七歳年下)で当時、杉原荘介は明治大学教授、芹沢長介は同明治大学の学部生であったが、芹沢と杉原は激しく対立し、後に芹沢は母校の明治大学から東北大学に移籍した。この騒動には岩宿の発見当初から考古学会や様々な人が動いたとされ、後日の杉原荘介は黙して語らず、「いずれ語れる時が来るだろう」と述べるにとどまったという。

さて岩波新書の黄、芹沢長介「日本旧石器時代」である。本書は芹沢がこれまでに携わってきた、岩宿を始めとする日本各地の遺跡の発掘調査での体験談や学術報告を通して、考古学上の見地から「日本(の)旧石器時代」の概要をわかりやすく述べたものだ。ゆえに日本の旧石器時代について学び知りたい読者には大変に参考になり有益である。しかしながら、これまで書いてきたような、岩宿遺跡の発掘調査に際し考古学上の学術的話題以外での、当時の日本の考古学会内部の人的関係の泥沼、芹沢長介と杉原荘介の激しい対立の不和の内情をある程度知っている読者からすれば、本論にて芹沢が杉原のことをどのように書いているか、この点も強く関心を引く本新書の読み所となろう。少なくとも私は岩波新書「日本旧石器時代」を初読の際には、この点に期待しながら本書を手に取り読んだのだった。

岩宿の発見当時、大学組織に属さず在野の考古学者であったがゆえに、最初の発掘者である相沢忠洋の存在は黙殺され、代わりに岩宿での旧石器時代の発見は後に発掘調査を主導した明治大学教授の杉原荘介の功績とされてしまった件に関し、本書では芹沢による杉原に対する批判の強い言葉はなく、ただその事実関係を淡々と述べるのみである(「岩宿遺跡を掘る」14ページ)。こうした感情を抑えて客観記述に徹した杉原荘介への言及とは対照的に、相沢忠洋については多くの紙面を割(さ)いて大変に詳しく事細かに書かれている(「相沢忠洋という人」15─22ページ)。このような本論記述の相違の対照からも、著者の芹沢長介の杉原荘介に対する負の複雑感情は推(お)して知るべしである。

前述のように岩宿の発見時には、芹沢長介は明治大学の学部生で、杉原荘介は芹沢より六歳年上で明治大学教授であり、相沢忠洋は芹沢より七歳年下で食料品の行商をしながら在野で考古学研究を行っていた。岩波新書「日本旧石器時代」の本論中でも芹沢が相沢のことを「相沢青年」と呼んで書いているのが印象的だ。二人は考古学の学徒としてよく語り、時に寝食を共にして親しく交流した。相沢は芹沢から考古学上のアドバイスを受けるべく、たびたび群馬の桐生から東京までの約120キロの距離を汽車賃節約のために自転車で日帰り往復していたという(17・18ページ)。芹沢にとって年下の「相沢青年」は親密な弟分に感ぜられたに違いない。考古学上の学術的な話以外にも、芹沢長介と相沢忠洋の二人の考古学者の友情の信頼関係が知れる記述の部分があることが、私が岩波新書の芹沢長介「日本旧石器時代」を昔から好きな一つの理由でもある。

「昭和二四年、桐生で行商を営む考古学青年、相沢忠洋によって関東ローム層から採取された黒曜石の石片が、日本旧石器研究の重い扉を押し開いた。戦後最大の考古学的発見といわれる岩宿発掘を手がけていらい、一貫して旧石器を追求してきた著者が、波瀾(はらん)にみちた発掘調査の跡をたどりながら、遺物が語る旧石器時代の日本の姿を描く」(表紙カバー裏解説)