アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(508)竹内実「毛沢東」

「毛沢東(1893─1976年)は中国共産党、中華人民共和国の最高指導者。湖南省出身。反軍閥運動・農民運動を行って頭角を現し、1921年、中国共産党の設立に参加した。31年創立された中華ソヴィエト共和国臨時政府の主席になり、長征の途上の遵義会議で党内の主導権を握って抗日戦争・内戦を指導した。中華人民共和国の初代主席に就任して社会主義・中国の建設を進めたが、1950年代末の大躍進政策に失敗して大きな犠牲を出したため、国家主席の地位を劉少奇に譲った。その後66年から文化大革命をおこし、劉少奇らを追放して実権を奪い返した。1976年9月に病死」

毛沢東は現在の中国でも伝説的人物であり、人々に人気である。確かに毛は中国共産党の設立に当初より参加のメンバーで、計画経済に基づく国家社会主義の体制作りを進めた共産主義者であったため、資本主義には否定的であり、資本主義的言動をなす同志、劉小奇らを「走資派」(資本主義に走る党幹部、官僚、知識人らに対する蔑称)と呼び、資本主義の復活をはかる彼ら反・毛沢東派を失脚させて独裁体制を敷いた。文化大革命(プロレタリア文化大革命、1966─77年)にて毛沢東は資本主義要素の一掃と社会主義化徹底のために政治や社会や文化のあらゆる領域にて粛清・処罰を連発し、毛による独裁体制を確立させ、毛沢東思想の絶対化を完成させたのだった。おまけに毛が後継に指名した林彪(りんぴょう)ともやがて袂(たもと)を分かち、毛暗殺のクーデターをはかったとして林彪も失脚・死去の顛末であった。批林批孔運動(ひりんひこううんどう、1973年)の展開にて、林彪の死後にも執拗に彼を批判追及する毛沢東であったのだ。さらには天安門事件(第一次、1976年。人々から絶大な支持を集めていた首相の周恩来が病没。北京の天安門広場に市民が捧げた弔花を市当局が撤去したことで、弔花撤去に激怒した民衆と軍・警察が衝突した事件)にて、毛沢東の独裁下で反主流派であった鄧小平(とうしょうへい)を暴動の黒幕と見なして失脚させる。しかし毛沢東の死(1976年9月)を機に、失脚させられていた鄧小平が最高実力者として後に復権し、それまでの文化大革命の毛沢東路線を是正して、鄧小平は経済を柱に国防、工業、農業、科学技術の4部門(「四つの現代化」)での中国の近代化をはかる改革開放路線に着手した。

毛沢東死去後の1970年代後半から今日に至る2020年代の中国では、毛がかつて「走資派」と呼び、中国の資本主義化の発展をはかる反・毛沢東の立ち位置で文化大革命下にて粛清され失脚させられていた反文革派の鄧小平らが復権し、以前の資本主義の完全否定・社会主義下の計画経済の徹底から、経済の近代化を果たそうとする市場経済の改革開放路線が新たに取って変わった。近代中国史にて計画経済から市場経済への路線変更の転換の契機は明らかに1976年の毛沢東の死にあった。1970年代後半からの鄧小平の指導下にて、鄧の後継であった胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)、江沢民(こうたくみん)らの中国首脳が続き、さらには2000年代の胡錦濤(こきんとう)を経て社会主義市場経済での経済を中心とした改革開放路線は継続推進されて、2020年代の今日の中国共産党・中華人民共和国の最高指導者たる習近平(しゅうきんぺい)体制に繋(つな)がるわけである。事実、習近平指導下の中国は、毛沢東の独裁体制下の資本主義要素の一掃と社会主義化徹底からは程遠い、それとは正反対の国家による市場経済促進の改革開放路線であった。今日の習近平指導体制下の中国は、名目的には社会主義国・中国であるにもかかわらず、専制的な共産党指導部の政府を後ろ盾とした資本主義的発展を急速にはかる、実際は皮肉にも「資本主義の最高段階」(レーニン「帝国主義論」1916年)ともいうべき、軍事と経済とで世界の各地域へ膨張拡大を不断になす帝国主義的覇権国家・中国なのであった。

このように生前の毛沢東の社会主義的な政治信条とは明確に異なる、現在は反・毛沢東派が由来の経済の改革開放路線に基づく現代中国であったが、毛沢東が、第二次世界大戦時に抗日戦争・国共内戦を指導し戦後、中華人民共和国の初代主席に就任して今日の中国という国家の枠組みを築いたというその権力創出の揺るぎない正統性と、かつての文化大革命の時代からやられていた毛沢東の個人崇拝の政治的遺産があったため、それらに依拠する形で現在の中国政府の党指導部も、中華人民共和国の建国の父たる毛沢東を前面に押し出して人々のナショナリズム高揚の団結をはかり、また急速な資本主義化の下、中国国内での人々の貧富の格差の不公平感や政治的不満の封じ込めを毛沢東を利用してなそうとする。そうした現中国政府のイデオロギー的な宣伝利用があって、毛沢東は現在の中国でも伝説的人物であり、人々に人気なのであった。

岩波新書の赤、竹内実「毛沢東」(1989年)は毛沢東の評伝である。だが、記述されているのは中日戦争時の1930年代から戦後の国共内戦を経ての毛沢東による中華人民共和国の成立、文化大革命の時代、そして毛の晩年と死去までの時代に限定した内容になっている。これには、本書を読むと分かるが、著者の竹内実も発行の岩波新書編集部も、本新書が以前に出ていた岩波新書の青、貝塚茂樹「毛沢東伝」(1956年)の続編の認識があるからだと思われる。かつての貝塚茂樹「毛沢東伝」では「毛沢東伝を書いてきて一九三七年の、中日戦の勃発のあたりで、一まず筆をおくこととした」の文章が最後にあって、本書は毛沢東の生い立ちから共産主義者としての自己形成、中国国内での国共内戦、その後の1937年の中日戦争開戦前後までの評伝内容となっていた。そのため本書の竹内実「毛沢東」は貝塚茂樹「毛沢東伝」の続編評伝となるべく、本論では毛沢東の生い立ちや青年時代は省略して、中日戦争時の1930年代から書き起こされ、続く第二次国共合作、第二次世界大戦終結後の国共内戦を経て中華人民共和国の建国にて国民党を台湾に追いやった戦後の時代、中国共産党内での同志との激しい権力闘争、独裁体制を敷いた文化大革命を経て、毛沢東の晩年と死去までの事柄に集中して詳細に述べている。このことからして岩波新書の竹内実「毛沢東」を読む以前に、まず同岩波新書の貝塚茂樹「毛沢東伝」を読んでから、その後に貝塚「毛沢東伝」の実質的続編である竹内「毛沢東」に当たるのが適切であろう。

岩波新書「毛沢東」では最後に毛の生涯とその政治的意義を総括する際に、著者の竹内実が秦の始皇帝に言及して、秦の始皇帝ともども毛沢東を中国史における「皇帝型権力」の典型としている結論の考察が印象的だ(「始皇帝と毛沢東」200─204ページ)。中華人民共和国を建国し、自身に対する個人崇拝を人々に強要して、粛清と処罰の嵐であった文化大革命ら徹底した反資本主義で社会主義化の独裁政治を時に行なった毛沢東は、焚書坑儒をやり法学統治による厳しい思想統制と儒者弾圧を行うことで初めて古代中国を統一した秦の始皇帝に模され、著者の竹内実により否定的に評されているのだった。

竹内実「毛沢東」は1989年の書籍であり、本書の執筆時に起きた同時代の天安門事件(第二次、1989年。中国民主化の指導者的存在であった胡耀邦の死を機に学生たちの間で民主化運動が高揚。政府が軍隊を出動させ、北京の天安門広場にて民主化を要求する学生・市民を武力弾圧した事件)に触れ、冒頭に「序・天安門上の毛沢東」の序論を置いていた。北京の天安門広場に毛主席記念堂があり、天安門正面には毛沢東の大きな肖像画が掲げられている。なるほど、この冒頭の序論から民主化を封じる現代中国の動きに対し、岩波新書の赤、竹内実「毛沢東」は暗に一貫して批判的筆致で書き出されていた。

「毛沢東の革命路線から開放政策へ、そして戒厳令へ。中国は四十年間、激動を続けてきた。中国社会主義革命とは何であったのか。本書は毛沢東の社会主義のモデル、文化大革命期の思想と行動を詳細に分析する。また彼を育んだ湖南省の風土や詩に託された人生観を考察し複雑な人物像に光を当て、毛沢東の現代中国における位置を明らかにする」(表紙カバー裏解説)