アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(365)大内兵衛「社会主義はどういう現実か」

以前に、稲垣武「『悪魔祓(ばら)い』の戦後史・進歩的文化人の言論と責任」(1994年)という書籍があった。本書は、1991年のソ連崩壊という共産国の破綻を見届けた上で、かつての米ソ冷戦体制下にて日本の戦後民主主義や反戦平和運動や基地反対闘争や労働市民運動を推進した左派リベラルな戦後知識人らの当時の言動を再度取り上げて徹底批判する内容である。

本書では200人以上の、著者によれば「戦後長らく論壇を支配していたが、九一年末のソ連解体で遂に引導を渡され、ソ連の道連れとなって歴史の舞台から退場した」とされる戦後の「進歩的文化人」の論文ならびに著書が、次々に批判されている。本書は、例えば「『ソ連』に憑(つ)かれた人々」「毛沢東の魔術」「すばらしき北朝鮮」らの各章よりなり、かつてソ連の共産体制を称賛したり中国の毛沢東主義の文化大革命を肯定したり、北朝鮮の金日成体制の擁護をなした戦後の日本の知識人の言辞を彼らの論文と書籍から引用し、仮借なく批判し尽くしている。

今回の「岩波新書の書評」で取り上げる大内兵衛「社会主義はどういう現実か」(1956年)に対しても、稲垣武「『悪魔祓い』の戦後史」によれば、以下のような皮肉混じりの揶揄(やゆ)も入った一刀両断な完膚なきまでの痛烈批判であった。

「ここで、進歩的文化人の代表ともいえる、経済学者の大内兵衛に登場を願わなければならないだろう。大内がフルシチョフのスターリン批判の前年、五五年五月から六月にかけて日本学術会議のソ連・中国学術視察団に加わった際の旅行記『社会主義はどういう現実か』を開いてみよう。『社会主義は理想か科学か』との章にはこうある。『私も社会主義を勉強すること実に四十年であるが、なにぶん進歩がおそく、社会主義がユートピアであるか科学であるかは、今まではっきりわからなかった。しかし、ここへ来て、いろいろの見学をして見て、それが科学であることがしかとわかった』。これはモスクワの科学アカデミーでの送別の宴での大内の挨拶である。この素朴な賛辞にソ連側はさぞ尻のこそばゆい思いをしただろうが、いまなら、世界でただひとつ『科学的社会主義』を堅持していると称し、他は偽物だとしている日本共産党も渋い顔をするだろう」

そうして、さらに以下のように続く。

「また、専門の経済学の分野ではこんな記述がある。『ロシアの経済学は二十世紀の後半において進歩的な特色のある学問として世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。…こういう歴史の変革のうちに経済学者としていよいよその光彩を加える名はレーニンとスターリンでありましょう』。レーニン、スターリンが光り輝く経済学者だって?たしかにレーニンは『社会主義イコールソヴェトプラス電化』という単純素朴な発展方程式を発明したし、スターリンは二0世紀において強制収容所の無数の政治犯による奴隷労働で、未開地に運河やダムを造るという秦の始皇帝式開発システムを編み出した」(「ソ連に憑かれた人々・スターリンは輝く経済学者?」)

稲垣武「悪魔祓いの戦後史」を読んで私が一貫して感じるのは、この人は批判の俎上(そじょう)に載せる戦後日本の文化知識人らの著作を最初から最後まできちんと読んでいないのではないか、という疑いだ。この稲垣武という人は、左派リベラルな知識人の言動を批判し全否定したい強烈な意図が何よりも最初にあって、そこから旧ソ連や中国や北朝鮮を支持したり是認したり肯定したり好感を持ったりした当時の日本の知識人らの言動部分だけ彼らの論文・著書から探し、その文章だけを引用し拡大して全面批判している。

先に引用した稲垣武による、大内兵衛「社会主義はどういう現実か」の批判文章を一読すれば、いかにも大内は冷戦下のソ連の社会主義体制をやみくもに賛美し、ソ連のレーニンとスターリンを能天気に熱狂的に崇拝しているかのように思えるけれど(笑)、岩波新書の「社会主義はどういう現実か」を最初から最後まで子細に丁寧に読んでみれば決してそのようなことはない。直接に書かれてはいない、だが暗にある著者の言外の意も含めて、岩波新書「社会主義はどういう現実か」では、アメリカや日本の資本主義経済における不況恐慌や失業や貧困差別や公害や労働者の職場環境の問題に関する大内兵衛の強い危機意識があって、それら資本主義社会の経済問題への対抗の処方箋(しょほうせん)の一つとして「ソ連の経済学は空想社会主義の根拠のないユートピアではなく、現実に根差した科学的な経済学理論であり、そのことからレーニンとスターリンの経済政策は世界レベルの物として一定の高い評価ができるし、また私たち資本主義経済の国の人間が学ぶべきものもある」の旨を書いているに過ぎない。

まっとうな読解力と、早急にいたずらに相手を貶(おとし)めてやり込めようとする悪意を追い払う良心とが自身の中にあるなら、自分が欲する所の特定の部分文章だけを軽く引用し、そのことをもって全面的に批判して満足するのではなく、せめて本一冊を読み飛ばすことなく最初から最後まで丁寧に子細に読み、その上で処するべきであろう。これは書評でも文芸批評でも議論の論争にても、誠実に果たされるべき相手に対する最低限の礼儀であると私は思う。

そもそも岩波新書「社会主義はどういう現実か」は、1955年の5月から6月にかけて日本学術会議のソ連・中国学術視察団にて、学術視察団員として参加した経済学博士の大内兵衛が、視察先の社会主義国たるソ連と中国を巡り見聞し考えた事を記した視察旅行の旅の記録である。ゆえに本書のサブタイトルは「ソ連・中国旅日記」なのであった。本新書は二部構成である。第一部は「日記」であり、離日の1955年5月7日からソ連で約三週間、中国で約三週間の視察旅行を経て6月25日の帰国の途に着くまで一日も欠かすことのない日々のスケジュールと、行動履歴の旅行中に毎日つけていた旅日誌からの大内兵衛の日記文章よりなる。そして第二部は「報告」であって、今回のソ連・中国学術視察団による視察旅行を経てのメンバーによる後日作成の報告文を数編収めている。

その報告書の中にある、「大新聞でも『学者なんてあまいものだ。少し御馳走をいただくと、悪いことはいわず、ほめてばかりいる』というような批評がある」の文章が印象的だ。本学術視察団には、東大教授の大内兵衛を始めとして東京大学や京都大学や東北大学や九州大学ら教授陣の名だたる人達の参加であり、彼らも経済学を始めとする各分野の専門知識と学術教養とを備えた知識人であるから、いくら何でも、稲垣武「悪魔祓いの戦後史」にある記述のような今回のソ連と中国への視察旅行を経てやみくもに、かの国の社会主義体制を賛美したり、レーニンやスターリンを個人崇拝するような短絡議論は本書には見当たらない。先に引用した稲垣による文章以外での「社会主義はどういう現実か」の書籍に書かれてある部分を丁寧に読んでいくと、むしろ逆に「学者なんてあまいものだ。少し御馳走をいただくと悪いことはいわず、ほめてばかりいる」と世間一般から思われないよう第一部の大内兵衛の旅日記でも、第二部の各人の視察旅行後の報告でも、彼らが非常に気を付けて執筆している点が多々見受けられるのである。

また視察旅行の中途でも、日本からの視察団はあらかじめソ連と中国が周到に準備し演出して日本人の視察団一行に見せたがっている視察先の風景、逆に今回の視察団を通じて日本やアメリカの東西冷戦下での西側の資本主義国に見られ伝わって欲しくないために巧妙に隠している「社会主義国の現実」の東側陣営の思惑があることも、今回の視察団一行は見抜いて暗に知っているような書きぶりである。その事は本書前半の大内兵衛の旅の日記からも、また後半の視察団メンバー各人による報告書からも文面の至るところに感じ、読み取ることができる。

だいたい第一部の「日記」部分にて、一日でも行動履歴が不明な日があるとソ連と中国側からの裏接待や秘密会合が疑われ、そうしたあらぬ誤解を受けないための予防線として毎日の視察場所や現地にて会った人物や開催された歓迎式典の詳細を大内兵衛は事細かに一日も欠かすことなく、律儀(りちぎ)に本書掲載しているフシがあり、読んで思わず私は笑ってしまう。

岩波新書の青、大内兵衛「社会主義はどういう現実か」は、日本の資本主義社会の人間疎外の経済矛盾への痛烈な問題意識を持ち、その立場から1950年代の社会主義国の経済政策の現実を現地視察にて見聞記録したものであって、しかも「学者なんて甘いもので、少し御馳走をいただいて歓待されると簡単に相手に取り込まれて悪いことは書かず、ほめてばかりいる」と思われないように相当に気遣って執筆しているフシが感じられる。この意味で本書に対する私の読後の印象は、稲垣武「悪魔祓いの戦後史」での「共産圏のソ連に憑かれた人々であり、レーニンやスターリンにイカれた人の文章」と断ずるような評価とは全く異なる。むしろ正反対である。

私たちは、かつてのアメリカとソ連の東西冷戦下にて、当時早くもスターリニズム批判をやり、ゆえに旧ソ連を含む東ヨーロッパ視察旅行にて「少し御馳走をいただいて歓待されると簡単に相手に取り込まれ、すぐに懐柔されてしまう」ことなく、氏個人のドストエフスキーとカフカ的な東欧的荒涼で不条理な文学趣向をちりばめた、誠に傑作なソ連を含む東欧の紀行文「姿なき司祭」(1969年)を書いた文学者の埴谷雄高の優れた業績をすでに持っている。岩波新書の大内兵衛「社会主義はどういう現実か」は、そうした埴谷雄高「姿なき司祭」の紀行文に近い、なかなかの力作であり、東西冷戦時代の旧ソ連と中国への当時の日本人の貴重な旅の記録だと私には思える。