アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(509)米原謙「徳富蘇峰」

(「岩波新書の書評」ですが、中公新書の米原謙「徳富蘇峰・日本ナショナリズムの軌跡」に関連して、今回は徳富蘇峰について書きます。念のため、米原謙「徳富蘇峰・日本ナショナリズムの軌跡」は岩波新書ではありません。)

徳富蘇峰(1863─1957年)は明治から昭和の戦後期にかけて活動した日本のジャーナリスト・評論家である。

蘇峰は幕末に生まれて、昭和の戦後に没している。徳富蘇峰は明治と大正と昭和を生きて近代日本と共にあった。まさに「近代日本を体現した」人物であった。徳富蘇峰をして「近代日本ナショナリズムの体現と行く末」などとよく言われる。明治維新から自由民権運動、日清・日露戦争、大正デモクラシー、第一次世界大戦、昭和ファシズム、十五年戦争、戦後民主主義の時代までの全てを一人の男が同時代に生きて経験しているとは話が出来すぎている。人は自身が生まれてくる時代や没する年月を指定できない(本当はより厳密に言って人生が始まる生まれてくる年月は指定出来ないが、人生が終わる没する年月だけはコントロールできる。自殺という非情手段によって)。

徳富蘇峰の交遊は勝海舟、伊藤博文、森鴎外、与謝野晶子、渋沢栄一、山本五十六、東条英機、中曽根康弘ら、その交際関係は広きに及ぶ。またこの人はジャーナリストであったので当時存命であった板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望らとの実際の知己もあった。幕末の1863年に生まれ戦後の1957年まで生きて、その時点でこれら幕末から昭和へかけての今となっては「歴史上の人物」である人々と多くの交際・知己があったというのは実に驚くべきことである。これはひとえに明治・大正・昭和と近代日本の時代に並走して、長く生き抜いた徳富蘇峰その人の希少な生によるものであった。

幕末から明治、大正、昭和の時代を生き抜き、「近代日本を体現した」とされる徳富蘇峰の生涯をここで概観しよう。

徳富蘇峰は1863(文久3)年、肥後国(現在の熊本県)に生まれる。徳富家は代々、肥後水俣で庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。維新後の1872(明治5)年には熊本洋学校に入学。熊本洋学校で「新約・旧約聖書」にふれて西洋の学問やキリスト教に関心を持ち、1876(明治9)年に横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)結成に参画。同76年8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも、同年10月に京都の同志社英学校に転入学。同年12月に同志社の創設者、新島襄により洗礼を受け、蘇峰はキリスト者となる。

若き蘇峰は言論で身を立てようと決意し、東京で新聞記者を志願したがかなわず、1881(明治14)年、熊本に帰郷して自由党系の民権結社、相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。1886(明治19)年、徳富蘇峰は「将来之日本」を刊行して「平民主義」の主張を展開する。

蘇峰のいう「平民主義」とは、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「欧化政策」を「貴族的欧化主義」と批判して、国民の自由拡大と生活向上のためには政府・貴族の上からではなく、「平民」の下からの西洋化の開化が必要だとする平民的急進主義の主張である。その上で軍事の「武備ノ機関」に対し、産業の「生産ノ機関」を重視し、産業を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人の人権尊重と平等社会の実現をめざすという、暴力の「腕力世界」に対する批判と、平和の生産力の強調を含むものである。徳富蘇峰の「平民主義」は、自由民権運動下での当時の藩閥政府に抗する痛烈批判であって、明治政府による国権主義・軍備拡張論に公然と異を唱えて自由主義・平等主義・平和主義の立場に立つものであった。

徳富蘇峰「将来之日本」は自由民権運動に高揚する当時の多くの若者を魅了し好評を博した。この出版界での初めての成功を受けて、蘇峰は言論団体「民友社」を設立。月刊誌「国民之友」を主宰した。民友社には弟の徳富蘆花をはじめ山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩らが入社した。さらに1890(明治23)年には民友社とは別に国民新聞社を設立して「国民新聞」を創刊。以後、徳富蘇峰は明治・大正・昭和の三代に渡り、時代のオピニオンリーダーとして華々しく活躍することとなる。

従軍記者として日清戦争後も旅順にいた32歳の時、1895(明治28)年、戦勝講和にて日本が獲得した遼東半島に対するロシア・ドイツ・フランスによる還付要求である、いわゆる三国干渉の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を強く批判し、国家に対する失望感を蘇峰は吐露してしまう。そうして遼東半島還付の三国干渉に強い衝撃を受けた蘇峰は、この頃から、かつての自由民権運動下での、明治政府による国権主義や軍備拡張論に公然と異を唱える自由主義・平等主義・平和主義の立場の平民主義から、次第に好戦的な軍備拡張論・強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じていった。

1897(明治30)年、対外侵出路線の国家主義政策に賛同し政府に接近していた徳富蘇峰は、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任して、案の定、政府に囲い込まれ従来の強固な政府批判の論調をゆるめた。これを受けて、自由民権運動時代の蘇峰の平民主義を知っていた社会主義者の堺利彦ら反政府系の人士より、徳富蘇峰はその「変節」を非難されるも、「予としてはただ日本男子としてなすべきことをなしたるに過ぎず」と述べて、自身に対する「変節漢」「日和見主義」「時流便乗派」の批判を退けた。

この後、蘇峰は山県有朋や桂太郎ら政府内の強硬右派の軍閥グループとの結びつきを深め、1901(明治34)年には第1次桂内閣の成立とともに桂太郎を支援して、1904(明治37)年の日露戦争の開戦に際しては主戦論への国論の統一と国際世論の働きかけに努めた。1910(明治43)年、韓国併合ののち、初代朝鮮総督・寺内正毅の依頼に応じ、蘇峰は朝鮮総督府の機関新聞社である京城日報社の監督に就いた。「京城日報」は、あらゆる新聞雑誌が発行停止となった併合後の朝鮮でわずかに発行を許された日本語新聞(日本の朝鮮総督府の意向に沿った御用新聞)であった。翌11年に蘇峰は貴族院勅選議員に任じられている。ここに至って徳富蘇峰は山県有朋ら有力政治家の後ろ盾を持って強力な情報発信で世論形成をなす、時代の代表的なジャーナリスト・評論家となっていたのである。

日清・日露戦争の明治が過ぎて大正の新時代に入ると、言論人としての蘇峰は大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、そしてそれら両者を統合する「皇室中心主義」を唱えた。

続く昭和の時代、1931(昭和6)年に起こった満州事変以降、蘇峰はその日本ナショナリズム論ないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで、さらに精力的に活動する。1940(昭和15)年、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出し、1941(昭和16)年12月には東條英機首相に頼まれ、対米英戦である大東亜戦争開戦の詔勅を添削している。1942(昭和17)年には日本文学報国会を設立して、みずから会長に就任。日本文学報国会は戦時の思想統制の下、多くの文学者が網羅的かつ半ば強制的に会員とされ、国策たる戦争協力のために活動させられたものであった。こうした戦中の文学者・ジャーナリストの国家への動員協力の貢献が認められて1943(昭和18)年、徳富蘇峰は三宅雪嶺らとともに東條内閣のもとで文化勲章を受章している。だが1945(昭和20)年7月に日本の敗戦がいよいよ濃厚となり、連合国側よりポツダム宣言が発せられた。その際、蘇峰は受諾に反対。戦争継続の本土決戦を強く主張し、昭和天皇の非常大権の発動を画策。しかし実現しなかった。

日本の敗戦を受け1945(昭和20)年9月、蘇峰は自虐を交えて自らの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とする。長い間、戦前・戦中の日本における世論形成の最大のオピニオンリーダーであった徳富蘇峰は、同年12月、連合国軍最高司令官総司令部から戦犯容疑で逮捕命令対象者のリストに名を連ねたが、老齢のために自宅拘禁とされ後に不起訴処分が下された。公職追放処分を受けたため、1946(昭和21)年、貴族院勅選議員など全ての公職を辞して静岡の熱海に蟄居(ちっきょ・「謹慎」の意)。また同年には戦犯容疑をかけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして戦時に授与された文化勲章も返上した。

蘇峰は終生のライフワークであった「近世日本国民史」の執筆を続け、1952(昭和27)年に全巻完結させた。「近世日本国民史」は、史料を駆使して織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な歴史書であり、1918(大正7)年の寄稿開始から完成までに34年間もの長い歳月が費やされていた。

1957(昭和32)年11月2日、死去。享年95。蘇峰の絶筆の銘は「一片の丹心渾(す)べて吾を忘る」。

以上、徳富蘇峰の生涯を振り返るに当たり、長い記述となったが、ジャーナリスト・評論家としての蘇峰の生涯の画期の大きな分岐は、やはり日清戦争終結後の、戦勝講和にて日本が獲得した遼東半島に対するロシア・ドイツ・フランスによる還付要求である三国干渉に強い衝撃を受け、この頃より、かつての自由民権運動下での、明治政府による国権主義や軍備拡張に公然と異を唱えていた自由主義・平等主義・平和主義の平民主義の立場から、その都度、政府に迎合し同伴・参画して次第に好戦的な軍備拡張論・強硬な国権論・国家膨脹主義へと大きく転じていく思想転回にあるといえよう。蘇峰も自身の思想遍歴について次のように述べていた。

「維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては国民的膨張たり」(徳富蘇峰「日本国民の活題目」1895年)

このように「尊皇攘夷→自由民権→国家膨張主義」と時代により左右への思想の振れ幅が大きい徳富蘇峰に対し、存命の時から「変節漢」「日和見主義」「時流便乗派」の批判は多くなされた。蘇峰と以前に親しかった社会主義者の堺利彦は、平民主義の市民的自由主義な言論から後に強硬な国家主義的言説に転じた蘇峰に対し、「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」と疑念を表した。また蘇峰と同学の同志社大学の法学者の田畑忍は、戦時に軍国主義と伴走し言論人として戦争協力の世論形成をなしたため日本の敗戦時には「ジャーナリスト・知識人の戦争責任」を追及され窮地にあった蘇峰に対し、以前の「変節」をもって、「どうぞ先生、もう一度民主主義者になるような、みっともないことはしないでください」と丁寧に皮肉まじりの釘をさす程であった。

ジャーナリスト・評論家の言論人としての徳富蘇峰の生涯に渡るいくつかの思想的転回に関し、蘇峰の評伝や研究にて昔から様々な解釈・評価がある。例えば近年の米原謙「徳富蘇峰・日本ナショナリズムの軌跡」(2003年)では、「蘇峰は青年時代より一貫して日本が国際社会から敬意ある待遇を受けることを主張してきたのであり、日本の国際的地位の変動に従い、その都度、蘇峰のナショナリズムは平民主義から国家主義、軍国主義へと組み替えられていった。徳富蘇峰は変節漢というよりは、いわば便宜主義者」の旨で蘇峰に関し全体に肯定的に書いていた。

私は、米原謙「徳富蘇峰・日本ナショナリズムの軌跡」での蘇峰理解はまったく駄目だと思う。「尊皇攘夷→自由民権→国家膨張主義」の幾度かの思想転回にて、徳富蘇峰が物心両面にて自身にとって極めて有利な社会的地位や名声や世評の人気をいつも得ていたからだ。もともと故郷・熊本から上京し言論で身を立てようとジャーナリスト志望であった蘇峰は、進学・就職の立身出世に何度もつまづき、しかし、いよいよの論壇デビューで初めて世に名を売ったのが自由民権運動高揚下での平民主義の主張であった。その後、多くの民権運動家や社会主義者の仲間たちが処罰され没落する中で、徳富蘇峰は日清・日露戦争以降の主戦論での国家主義への転向、大正デモクラシー期における軍閥の山県有朋への接近で優遇されて、貴族院勅選議員の公的地位にもあった。さらには昭和ファシズムの十五年戦争期における軍国主義への傾斜にて、日本文学報国会の会長となり、文学者・ジャーナリストたちを戦争協力へ牽引する公的立場にあった。また蘇峰は戦時の東條内閣のもとで文化勲章も受章している。

明治から大正そして昭和と連続して、いつの時でも徳富蘇峰は強力な情報発信で世論形成をなす、時代の代表的なジャーナリスト・評論家であり続けた。なぜか徳富蘇峰だけが近代日本で例外的に、そのような人気の公的社会地位を常に確保できていたのだ。このことから徳富蘇峰その人が「いつの時代でもその都度、自身が利するよう時代の最先端の流行の勝ち馬に乗り換え続けた軽薄な人、決して尊敬されない悪しき人物の典型例」としか私には思えない。

現代でも時代の最先端の流行や風潮にうまく乗ることで先行者利益を得ようとしたり、人気者になったり、そのことで自分だけが利益享受の優越の高みに立って人々を指導したり、世に出て目立って自身の有能さの実績自慢の自分語りをやたらやりたがる、社交的で目立ちたがりで露出狂な自分大好きな軽薄な人はいる。そのような人を見たり、そういった人に出くわしたりする度に、明治から大正そして昭和の時代にかけて活動した近代日本のジャーナリスト・評論家の徳富蘇峰のことを思い出し、私は馬鹿らしい心持ちになってしまう。