アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(195)坂野潤治「明治デモクラシー」

岩波新書の赤、坂野潤治(ばんの・じゅんじ)「明治デモクラシー」(2005年)の概要はこうだ。

著者によれば、これまで戦前日本の伝統となると右派の学者も左派の歴史家も家族主義、愛国心、天皇制、軍国主義だけに着目して、民主主義の「伝統」を軽視してきた。日本近代史は、上からの封建制の打破、上からの工業化、上からの立憲制、上からのファシズムと「上からの改革」ずくめの歴史と見なされているけれども、そうした「上からの」歴史観は事実に反している。このような意識から著者は、日本近代史を上からの「富国強兵」の枠組ではなく、下からの「デモクラシー」の枠組で捉えること、かつそれを「連続」的なものとして理解することに努め、そのため日本の近代を「明治デモクラシー」「大正デモクラシー」「昭和デモクラシー」という用語で分析していきたい、とする。

岩波新書「明治デモクラシー」は、その第一着手として、明治12(1879)年から明治末(1912)年までの民主化の波を「主権論」と「二大政党制論」を中心に「明治デモクラシー」として総体的に理解しようとするものである。前者の「主権論」に関しては、明治国家は「主権は天皇か人民のどちらにあるか」を突き詰めず、形式上の天皇主権、つまりは「象徴」としての天皇の主権を侵さず、君民同治(天皇と人民を共同の主権者とする考え)の立場をとった。後者の「二大政党制論」については、先の君民同治の「主権論」の思想に支えられて、明治14(1881)年の大隈重信の国会開設意見書提出、それを背景に国会開設急進派の大隈を免官した明治十四年の政変、だが大隈罷免で世論の反発が一層強くなり政府が早期国会開設公約をせざるを得なくなった国会開設の勅諭、これら明治14年の全国的な国会開設運動の高まりを著者は「明治デモクラシー」の「決定的瞬間」としている。

しかし、明治22(1889)年の大日本帝国憲法の発布によって、「主権論」と「二大政党制論」に支えられた「明治デモクラシー」は早くも衰退を見せる。「抵抗権型議会」と「参加型議会」とがあった帝国議会での「二大政党制論」は「積極主義」と「官民調和体制」に圧迫され、「明治デモクラシー」の二つの構成要素たる「主権在民論」と「議院内閣制」は、明治37(1904)年の日露戦争を境に敗退した。

ここで前述の用語について説明しておくと、「抵抗権型議会」とは、議会の多数を占めて主権在民の実現を目指すが、行政権たる政府は握らず常に野党的立場から政府の監視に徹する植木枝盛ら愛国社グループの立場をさす。他方「参加型議会」とは、議会の多数を占めた政党が政権をとり、行政と立法の双方を運営することを目指す福沢諭吉や徳富蘇峰の立場をさす。また「積極主義」とは、鉄道を中心とする公共投資を積極的に行う政治路線で、公共投資の利益配分をはかる政治のことである。同様に「官民調和体制」は、軍部や官僚や貴族院の保守勢力と衆議院で選出された民意の多数の政党、つまりは「官」と「民」の両者が利害調整をしながら国政を運営していく体制のことである。

このような明治14年の国会開設への一連の動向にての「明治デモクラシー」の最高潮時の「決定的瞬間」を経て、後に日露戦争を境に「明治デモクラシー」は衰退に至る歴史的概観を押さえた上で、著者は「明治デモクラシー」の現代への「連続」について次のようにまとめる。

本書で明らかにしたように、「主権在民」の思想は昭和20(1945)年の敗戦によって初めて生まれたものではない。それよりも65年前に明治13(1880)年には、この思想は日本近代史において、下からの自由民権運動での国会開設要求にて国民的運動の一角を支配していた。また戦後政治にての自由民主党の一党支配に対抗する政権交代を伴った「議院内閣制」の主張も、最近の10年間(註─本書執筆時の2005年を起点とする)に初めて生まれたものではない。それは明治12(1879)年の愛国社第3回大会にて明確な形で定式化され、昭和7(1932)年の五・一五事件にて政党政治が終焉するまで、日本の民主主義(デモクラシー)の有力な一角として存在しつづけていた。

坂野潤治「明治デモクラシー」は、「戦前の日本は暗黒時代で、終戦によってアメリカから初めて民主主義がもたらされた」という戦後一般に流布されているとする通説を否定し、「戦前の日本は暗黒」史観に真っ向から対決しようとする野心的な論考である。つまりは明治憲法体制下でも、ある程度は民主的であり、明治時代から天皇は「象徴」天皇であって、「主権在民論」と「議院内閣制」の民主主義(デモクラシー)の伝統が戦前日本の明治期からあったと主張する。よって現代日本の民主政治は戦後アメリカからの民主主義の移植ではなく、戦前から続いてある近代日本のデモクラシーの伝統として連綿と受け継がれてきたものである、というのであった。

こうした著者による戦前日本からの「デモクラシーの伝統」の掘り起こし考察は、例えば坂野潤治と田原総一朗の対談共著「大日本帝国の民主主義」(2006年)にて、より分かりやすく語り言葉で説明されている。この書籍も併(あわ)せて読むと本新書の理解の助けとなるに違いない。

最後に、以上のような本書の内容を踏まえて岩波新書「明治デモクラシー」にての坂野潤治の歴史考察の問題点をいくつか挙げておく。

(1)明治日本の下からの民主的要素(著者がいう「明治デモクラシー」)を、もちろんそうした下からの民主化要素が近代日本にあったことを私も否定はしないが、必要以上に高く見積もり肯定的に評価しすぎている。著者が言うような、「これまで戦前日本の伝統となると皆が家族主義、愛国心、天皇制、軍国主義だけに着目して、民主主義の『伝統』を軽視してきた。日本近代史は『上からの改革』ずくめの歴史と見なされてきた」ことは確かにあるが、それは研究者による偏向操作や時代への偏見ではなくて、日本の近代史を概観しかつ掘り下げ考察すればするほど、国家からの愛国心の涵養(かんよう)、近代天皇制の確立、軍国主義の台頭が他の民主的な要素を圧迫して、「上からの」政治的働きかけの要素が「下からの」民主主義の動きに対し戦前日本においては量質ともに事実として圧倒していたからである。日本近代政治の基調として明治・大正から昭和に至るまで、下からの国民参加の政治的自由は極小化され、同時に上からの国家による政治占有や国民教化の線はいつの状況でも一貫して強固にあった。

著者の坂野は、「明治デモクラシー」の最高潮時の「決定的瞬間」に全国的に展開された1881年の民衆よりの国会開設運動を挙げて、これを「下からのデモクラシー」として非常に高く評価している。確かに、そうした民権運動の高まりを政府は無視できなくなって1890年には国会開設に至るけれど、そもそも戦前日本の帝国議会には皇族議員や勅撰議員らの貴族院があり、しかも制限選挙で民意の反映が充分でなく、民意を得た公選の衆議院の貴族院よりの権限優越も予算の先議権のみであった。初期議会では超然主義内閣が頻繁に成立し、帝国議会での議席獲得の第一党が首相指名されて内閣を組閣することもなかったし、軍隊は天皇の統帥権下にあり民意の一部を担った議会は軍隊コントロールも出来なかったし、現在の国会のように、欽定憲法たる大日本帝国憲法を改正する発議の権限も戦前の議会には無かった。にもかかわらず、坂野潤治は「明治デモクラシー」としての「議院内閣制」を必要以上に高く見積もり、異常に肯定的に評価しすぎる。

何よりも著者の「明治デモクラシー」の主張根拠が、限定的な主権論のあり様と議会政治の政局史に偏(かたよ)り終始していることが異常であり不思議だ。議会外の政治領域での自由や民主化、ないしは反デモクラシーの史実に触れないのは、なぜなのか。かつ戦前の帝国議会の存在だけをして、そのまま「民主主義の実在成立」と結びつけて著者が安直に考えていることの証左か、制約が多くあった戦前の帝国憲法下の帝国議会と、戦後の日本国憲法下の国会とを安易に同一視する不用意な記述がしばしば見られる(例えば「戦後の自民党一党支配を想わせる『官民調和体制』の成立を…」などの文章)

(2)そもそもの「戦前の日本は暗黒時代で、終戦によってアメリカから初めて民主主義がもたらされた」という通説を否定したいがために、明治憲法体制下でも、ある程度は民主的であって、「主権在民論」と「議院内閣制」の民主主義(デモクラシー)の伝統が戦前日本の明治期からあったとする議論の立て方に欠陥がある。こうした考察態度は、ともすれば「戦前日本は暗黒ではなくて明るい民主的な要素もあった」と力説したいため、前述のような「明治日本の下からの民主的要素(「明治デモクラシー」)を必要以上に高く見積もり肯定的に評価しすぎる悪弊に加えて、確かにあった下からの日本の民主主権の伝統に関し、民主化の影響具合の内実程度を問うことなく、「戦前日本にもデモクラシーの伝統はあった」存在証明の実証に終始し、明治・大正・昭和の日本の近代を通して、民主主義(デモクラシー)の下からの対抗が、なぜ状況により何度とな衰退し国家の上からの抑圧に悉(ことごと)く敗北してしまうのか、その内在的追求の問いを構造的に継げない。

結局のところ、坂野潤治の日本近代の「デモクラシー」論では、「実は戦前日本にも民主主義はあったのだ」の強調の指摘で終わってしまう。本書「明治デモクラシー」を始めとして他著の「大日本帝国の民主主義」でもそうだが、坂野潤治の日本近代史の「デモクラシー」論の語りは深まりがなく平板である。いつも「戦前日本は暗黒ではなくて明るい民主的な要素もあった」の確認で終わる。日本近代政治の基調として、下からの国民参加の政治的自由は極小化され、同時に上からの国家による政治占有や国民教化の線はいつの時代でも一貫して強固にあって、もちろん下からの民主化の要素が近代日本に存在したことは否定しないが、確かにあった下からの日本の民主主権の萌芽が、明治・大正・昭和の日本近代を通して、なぜ悉く時代や国家により抑圧され敗北してしまうのか、私達が知りたいのはその内在的理由である。

(1)は「明治デモクラシー」の存在証明の実証検証は一見、厳密で正当であるように思えるが、それが明治期日本の状況の中で占める割合や実質への吟味を欠いて、限定的な狭い範囲でなされる恣意的実証操作と過大評価の問題である。(2)は「明治デモクラシー」の伝統実在の指摘と実証に終始するがゆえに、より深い内在的考察の問いが継げない、もともとある著者の「明治デモクラシー」の歴史に対する議論の立て方に起因する構造的な欠陥の問題である。

岩波新書の赤、坂野潤治「明治デモクラシー」に関しては、その他まだまだ言及したい問題はあるが、とりあえずは以上の二点を指摘しておきたい。