アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(517)田中彰「小国主義」(その3 石橋湛山)

前々回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、前回と今回で中江と石橋について改めて個別に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は、大正・昭和の経済評論家であり政治家である石橋湛山についてである。

「石橋湛山(1884─1973年)は経済評論家、政治家。 『東洋経済新報』の記者。大正デモクラシーの風潮のもとで、小日本主義といわれる朝鮮・満州など植民地の放棄、平和的な経済発展などの政策を提唱。のちに東洋経済新報社社長。第二次世界大戦後、第1次吉田内閣の蔵相。1956年首相。日中・日ソ国交回復に尽力するも、病気のため2ヶ月で総理を辞任」

石橋湛山は大学卒業後、新聞社に就職しジャーナリストとして活動して、その都度、数回に渡りみずから志願し軍隊に入隊している。その後、経済専門誌出版事業の東洋経済新報社に入社する。「東洋経済新報」誌上で経済評論を発表し続け、やがて頭角を現し、東洋経済新報社の主幹(編集長)を経て代表取締役(社長)となる。石橋湛山は現場の叩き上げの経済記者から東洋経済新報社の社長にまで登り詰めたのであり、非常に優秀である。石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつも私はする。

石橋湛山は「小日本主義」を唱えた。小日本主義とは大正・昭和の時代、政府がとる軍事による大陸侵出の膨張路線である大日本主義に対し、平和的な貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州らの日本の植民地放棄を主張する立場である。特に満州事変後と韓国併合後の、満州と韓国の日本による植民地支配と外地への日本人移民の流出を強く批判したことから、小日本主義は「満韓放棄論」「移民不要論」と呼ばれることもある。石橋は小日本主義の論陣を張って、同時代の対華二十一カ条要求、シベリア出兵、満州事変ら大国主義の政治を厳しく批判した。 

石橋湛山の小日本主義の植民地政策批判に関しては、「どういった理由で石橋が、当時の政府にとっての最重要国策である東アジアへの大陸膨張路線の新たな植民地の獲得・経営たる大日本主義を批判し、台湾・朝鮮・満州の植民地放棄を説いていたか!?」その内容を見極める必要があるだろう。石橋湛山による小日本主義の主張は、「青島は断じて領有すべからず」(1914年)、「一切を棄(す)つるの覚悟」(1921年)、「大日本主義の幻影」(1921年)らの評論にてその都度、展開されているが、各論説ともに毎回連続し通底してある「日本が植民地放棄をすべき」主な論拠は以下の2点に集約される。

(1)日本が東アジアの大陸に侵出を重ね多数の植民地を獲得し植民地経営しても、何ら経済利益が見込めない。むしろ日本内地から台湾・朝鮮・満州の外地の植民地への資産持ち出しや現地支配の行政コストにより、日本の植民地経営は毎年、累積赤字が膨らむ一方であり、植民地の獲得・経営は経済的に無価値である。「日本の帝国主義的な覇権伸張」といった自国の領土拡大という目先の「小欲」の満足に溺(おぼ)れることなく、大局的見地から日本にとっての本当の意味での国益を考えるとき、一切の植民地を放棄をして、内地のみの小日本主義に徹するべきである。

(2)東アジアにて日本が奔放自由に軍事衝突の戦争を仕掛け戦勝にて多数の海外植民地を得ることは、中国分割など同じくアジア侵出を進める欧米列強の反感を買い、遂には日本が「極東の平和に対する最大の危険国」と見なされ警戒される。それで日本が国際的に孤立すれば諸外国との通商貿易にて大きな障壁となり、日本の国益を著(いちじる)しく損ねる。また軍事侵攻により露骨に中国侵略して現地の中国人に「不抜(ふばつ)の怨恨」を抱かせ結果、日本製品不買(ボイコット)運動ら海外市場からの締め出しを日本企業が喰らう懸念もあり、通商上、植民地獲得で大国化の膨張路線は日本にとって得策とは言い難い。ゆえに、わが国は植民地放棄の小日本主義に徹した方がよい。

これら石橋による、小日本主義における2つの「日本が植民地放棄をすべき」主要論拠が、いずれも日本にとっての経済的なコスト原則の損得勘定に依拠していることに留意されたい。思えば、石橋湛山は「東洋経済新報」の記者が出自の経済評論家なのであって、同時代の日本の海外政策を考える際にも最後はことごとく日本にとっての経済利益の話に収束させて、そうした経済的観点から思考判断するのが常であった。この意味で冒頭で述べた、石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつもするの、私の感慨理由も納得して頂けると思う。

石橋は台湾や朝鮮や中国の人達に対し、民族自決の原則を尊重し彼らのことを思って東アジアの人々の各国の独立を認めるような、他者の権利保障の規範原則の立場から、日本による海外の植民地支配批判の小日本主義を主張したのでは決してない。当面の日本にとって軍事侵略による植民地の獲得・経営が、日本の経済利益に全くなっていない(むしろ、逆に多大な経済損失を日本にもたらしている)という理由により、当時の日本の国策たる大国主義を批判し植民地放棄の小日本主義を彼は力説したのである。当の石橋湛山からすれば、日本の繁栄のために植民地は経済利益の点で全く必要でない。事実「朝鮮、台湾、樺太ないし満州は日本にとって経済利益に何らなっていない。だから、それら地域に対しては 『自由解放 』の政策で処するべき」旨の単純素朴な考えなのである。このように、民族自決の原則を尊重して東アジア地域の人々の解放と各国の独立を認める、他者の権利保障の規範原則の立場よりの日本の植民地放棄の主張では全くないことから、石橋は、例えばイギリスによるインドの植民地支配に関し「英国にとってインド支配は大いなる経済利益がある」ため肯定し、欧米列強によるアジアの植民地支配は積極的に認めて好意的であった。

日本にとっての経済利益の国益を考えた場合、軍事の戦争による大国化の膨張路線(大日本国主義)は得策でないので植民地の獲得・経営に依(よ)らない形で、つまりは日本は植民地放棄をして、直接の戦争による戦禍を出さない非軍事的な大陸アジアへの経済進出を果たすべき、の石橋の本意であるのだ。もともと日本が海外の東アジアへ侵出を果たすべきの日本国繁栄の念願はあるが、ただその実現のための現実的な方法として、軍事による戦争や植民地の獲得・経営のあまりに露骨な「力(暴力)の手段」に頼らないというだけなのであり、何も石橋湛山その人が戦前日本の軍国主義や日本による東アジアの植民地支配そのものを正面から問題視し、正当に批判していたわけでない。

台湾や朝鮮や中国ら東アジア領土分割の実質的な現地支配に、日本を加えた欧米各国が邁進していた当時の国際政治下にて、大陸アジアでの利権獲得に際し目に見えた戦禍を伴わない、直接の軍事行動(つまりは戦争)と植民地獲得以外での非軍事で経済的な日本によるアジア支配を石橋湛山は主張しているのであり、確かに戦争否定の日本の軍国主義批判で表層は「平和主義」的論調であるが、経済利益の点でイギリスによるインドの植民地支配を容認するなど、近隣アジアの人々の民族自決や独立解放を何ら強く訴えていないことから、石橋湛山は決して民主的な自由主義者、人道的な反戦平和主義者ではなかった。

ここに至って、石橋湛山が戦前の軍国日本の植民地政策を現象的に批判し、植民地放棄の「小日本主義」を主張したからといって、近代日本にて大勢を占めた当時の戦争翼賛の軍国主義に抵抗する、「例外的で貴重で希(まれ)な自由主義者であり反戦平和主義者」と即断して安易に石橋を称賛するような軽率は慎(つつし)まなければならないだろう。「真のリベラリスト」といった安直な石橋評価は、もともと経済評論家であり、そのため極めて「経済的な」石橋湛山その人に対する本質的理解を欠いている。

さて、石橋湛山の生涯には戦前・戦中の小日本主義の論説をめぐる経済評論家としての活動に加えて、戦後にもう一つの人生のクライマックスがあった。石橋は以前の小日本主義に基づく日本の植民地政策批判(植民地放棄の主張)の過去から、敗戦後は戦時から日本のアジア侵略の軍国主義を批判していた数少ない「正統な自由主義者」「筋金入りの反戦平和主義者」であると一部の人達に相当激しく誤解されていたのである(苦笑)。そのため敗戦時の石橋湛山は「リベラルで民主的な好人物」と見なされ、世間の評判はそこそこ良かった。そこで戦後日本の新しい平和憲法の国政下にて衆議院議員総選挙に出馬し(石橋は左派リベラルの日本社会党から誘いを受けるも、これを断わり、あえて保守政党の日本自由党公認で出馬している)、何度か選挙に挑戦の末、見事当選を果たし、石橋は東洋経済新報社の記者・経済評論家から転身し晴れて政治家になる。初めは日本自由党に所属し、1955年の自由党と日本民主党との保守合同を経て現在の自由民主党(自民党)に参画した。石橋は自身が専門の経済分野に精通し、数々の経済政策で着実に実績を積み重ねて、後に自民党総裁となり、当時自民党が政権与党であったため、遂には石橋湛山は第55代内閣総理大臣となって、1956年に石橋内閣の組閣に至る。

だが、ここが石橋湛山という人の全くのツキのなさと言うか、不運の極みの人生の酷薄さと言うか、石橋は総理就任直後、脳梗塞の発作に倒れ、2ヶ月で内閣総理大臣を辞任。石橋内閣は早々に退陣を余儀なくされてしまう。石橋の首相在任期間はわずか65日であった。幸いなことに病状は回復し、1957年の内閣退陣の後も長く生きて石橋は1973年まで存命であったが、肝心の首相就任の大切な時期に脳梗塞の病に襲われ、内閣総理大臣の重責をまっとうできずとは、何よりも石橋本人が無念であったに違いない。部外者の私からしても、戦後の石橋湛山はいかにも気の毒である。