アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(264)梶村秀樹「朝鮮史」(その3)

(前回からの続き)朝鮮の人々の日本への渡航による「在日朝鮮人の形成」について、梶村秀樹「朝鮮史」(1977年)に「在日朝鮮人人口の推移」の図表が掲載されている(163ページ)。

そのグラフによると、在日朝鮮人の人口推移は1911年は2527人、1915年は3917人で極めて少数かつ微増であるのに、1920年から30189人で十倍以上の急増に転じ、1930年には298091人でさらに約十倍に激増、1935年には1190444人で百万人を越え、日本の敗戦間近の1945年の8月の時点で内地の朝鮮人は2100000人と二百万人以上の最高潮に達している。それから日本の敗戦を経て、1946年9月には647006人の三分の一以下の激減に転じる。

1920年代に日本へ渡航の在日朝鮮人が急増した理由は、「朝鮮史」の梶村によれば、

「一九二0年代に入り、日本独占資本は本格的な資本輸出を要求する段階に達し、…日本の独占資本が従事体制下の朝鮮におしつけたのは、日本の工業化にともなう安価な食料と労働力の供給の役割だった。したがって、二0年代の資本輸出は農業部門と関連加工・流通部門が中心となった。米騒動の経験にかんがみ、日本での低米価と安定供給のため、総督府は、国家資本を農業部門に投入して生産力を増大させ、増大分を移出させることを内容とする『産米増殖計画』を立案し、いわゆる朝鮮経済の『米モノカルチュア化』を推進した。…それに先立って、地主主導の米の商品化・輸出だけは確実に拡大されていった。こうした歪んだ商品経済の農村への浸透は、小農商品経済の発展を制約し、その階層分化を進行させ、多くの貧農=過剰労働力を析出させた。…こうして人口圧力におしだされ、あてどもなく村を離れる農民が漸増した。…このような朝鮮民衆の生きるために必死にならねばならない状況を利用して、日本帝国主義は、日本への渡航政策をたえず調節しながら、そのつど資本が必要とする規模だけ、かれらを日本の労働の場の最底辺に導入したのである。かくして、在日朝鮮人労働者階級は、一九二0年代に本格的に形成され、その規模は以後加速度的に増大していった」(160・161ページ)

以上が梶村による、1920年代から日本への渡航し労働する在日朝鮮人の人口が急増した理由の説明記述である。日本統治下の朝鮮総督府による1920年代からの「産米増殖計画」は、日本に米を供給するための植民地農業への移行であった。植民地・朝鮮に指導された米の増産と日本への過剰輸出かつ安定供給が、朝鮮経済の「米モノカルチュア化」を急激に押し進め、そうした歪んだ商品経済の農村への浸透は農村での階層分化を促し、小作農の人々を困窮させ土地の収奪・農民の没落が進行した。結果、過剰労働力として離村する多くの人々が出た。

そのような植民地統治下で困窮する朝鮮民衆を日本の帝国主義は安価な労働力として内地に取り込み、その都度、朝鮮人労働者の日本への渡航をたえず調整しながら国内資本が必要とする規模だけ、誠に都合よく日本の労働現場の最底辺(炭坑、発電所、鉄道・道路敷設、軍港・飛行場建設の各現場)に投入し、日本の独占資本は生産拡大を遂げたのであった。

また「産米増殖計画」にての日本への過剰安定供給による朝鮮経済の「米モノカルチュア化」は、朝鮮半島での1人当たりの米の供給量激減をもたらし(1920年から1936年までの植民地下の朝鮮人1人当たりの米消費量は、内地日本人のそれの半分以下であった。「産米増殖」計画の本質・161ページ)、自給能力を失った朝鮮の人々は、不足する朝鮮米の代わりに満州(中国東北部)産のアワ・ヒエを食べた。

さらに1940年代以降の日本へ渡航の在日朝鮮人、百万人規模の激増理由は、同様に梶村の説明記述によれば以下である。

「朝鮮人の日本への強制連行は、一九三九年の『募集』に始まり、形式上は四二年以降の『官斡旋(かんあっせん)』、四四年以降の『徴用』と、三段階に区分されるが、動員人数が天下り的に割り当てられ、面の官員がひざづめに談判にきたり、…『契約書』があろうがなかろうが、実質的には強制であった。わずか数年前の恐慌時には、強制送還までしていたのだが、戦時インフレ経済に入るや、日本の青年の徴兵によって生じた労働力の不足を、このような手段で埋め合わせることによって、日本独占資本は生産拡大を遂げたのである」(184ページ)

1940年代になると宗主国・日本は、植民地・朝鮮から「募集」や「官斡旋」や「徴用」により直接に朝鮮人を安価な労働力として内地に動員させるようになる。戦時日本の青年の徴兵によって生じた労働力の不足を補うために。こうした背景が、1940年代以降の日本へ渡航の在日朝鮮人、百万人規模の激増理由としてあった。 

「一九二0年代に入り、日本独占資本は本格的な資本輸出を要求する段階に達し、…日本の独占資本が従事体制下の朝鮮におしつけたのは、日本の工業化にともなう安価な食料と労働力の供給の役割だった」。安価な食糧供給と労働者動員を宗主国の日本が植民地の朝鮮に強いる。これは典型的な帝国主義支配のそれである。

統治下朝鮮における日本の諸政策は、かの地に自立的な産業移植や育成というよりは、日本の内地に安価な食糧物資や労働力を過剰供給させる収奪を伴うものであった。この意味で「日本が朝鮮の近代化を促進したのではなく、実態はむしろ逆で、日本の帝国主義と独占資本発展のために植民地・朝鮮は犠牲にされ、近代朝鮮が持っていた自立的・内在的な発展の可能性を日本の植民地化がつぶした」とする、朝鮮史研究の梶村秀樹の植民地収奪論は当たっている。

戦前から根強くあった日本人から見た朝鮮史観に、いわゆる「植民史観」というものがあった。それは以下のような他律性論と停滞性論という日本人からする朝鮮の人々に対する優越意識と、あからさまな蔑視とに支えられていた。

「朝鮮の歴史は常に外部の勢力により他律的に動かされ、朝鮮民族は本来的に弱くて自力で発展することができない停滞した民族だから、日本が『併合』して近代文明を扶植し、導いてやらなければ滅びてしまう。だから日本による朝鮮統治は欧米流の植民地支配=侵略ではなくて、恩恵を与えることなのだ」

先の「産米増殖計画」を通して朝鮮総督府が指導し、農地・水利の改良と朝鮮の米作技術の近代化を果たした「美談」とか、同様に農業部門以外の他分野でも、日本は自国の資金持ち出しで朝鮮半島のインフラ(鉄道や道路や工場や学校など)を整備し近代化させたとする、「日本が『併合』して近代文明を扶植し、他律で停滞した朝鮮を導いてやった恩恵」の「植民史観」に連なる、日本による朝鮮の植民地支配を正当化する日本人が現在でも多くいる。この人達は、おそらく戦前からの日本人の朝鮮認識たる他律史観と停滞史観を継承している。しかも、この人達は近代国家の植民地支配に、現地でひたすら略奪と破壊と殺戮と奴隷的労働酷使を繰り返す、大航海時代のスペインやポルトガルによる中南米での植民活動、ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」(1552年)のような前近代の帝国支配イメージをいまだ抱いているに違いない(苦笑)。

近代以降の帝国主義下の植民地支配では、宗主国は植民地から資源材料持ち出しのために鉄道敷設もすれば道路舗装のインフラ整備も現地にてやるし、さらに産業資本進出の段階になれば植民地域での工場稼働に伴い、現地の人々を安価な労働力として低賃金・長時間の過酷な労働環境下にて使い倒しながら、水力・ガスの動力施設の整備もする。さらには宗主国の役所が設置され本国から役人が来たり産業資本の監督者が来て現地に宿舎や屋敷を構えて住むようになれば、電気も通り町も発展して植民地のインフラ整備はされる。町には学校もできる。

ただし、それら植民地にての近代化や都市化は、宗主国の人が現地の人達のことを思って彼らに利するようにと贈与する「完全善意」の「善政」によるものではない。帝国主義の時代には、どんな先進資本主義国でも安価な土地・資源・労働力がある後進地域へ積極投資を推進する。近代以降の帝国主義下の植民地で、もう現地住民から略奪し破壊し殺戮して奴隷的労働酷使をやり放題の蛮行など、近代の巧妙な植民地収奪の産業構造的抑圧下では原理的にあり得ないのであって、植民地統治の現地にて資本投下のインフラ整備の近代化や都市化の事態に結果的に、たまたまなっただけのことである。こうしたことは少しばかり歴史を学んだだけでもすぐに分かる。

現代では欧米諸国のどんなに頭の悪い帝国主義者であっても、かつての南米・アジア・アフリカの植民地に対し、「我が国がお金を出してインフラを整備し、わざわざ近代化させてやったのに恩知らずだ」などという一部の日本人が未だ韓国や北朝鮮の人達に浴びせる暴言のような、そうした恥ずかしいことは言わない。それは「自身が歴史に無知であること」をさらけ出すことになるからだ。

こういった「我が国がお金を出してインフラを整備し、近代化させてやった」の理屈で自国の過去の植民地支配を正当化するバカな言説を吐いているのは、今日では日本国内での頭の悪い右派や保守、国家主義者や歴史修正主義者くらいである。彼らは「歴史オンチ」で非常に恥ずかしい。噴飯ものである。同じ日本人として私は、またまた嘲笑せずにいられない。