アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(265)稲垣良典「現代カトリシズムの思想」

近年(2017年)、岩波新書の青、稲垣良典「現代カトリシズムの思想」(1971年)が復刊されていたので先日、読んでみた。岩波新書編集部による本新書の公式紹介文は以下だ。

「社会があらゆる面で大きな転換期を迎えた時代において、カトリック思想は何を思考しうるのか。神、信仰、ニヒリズム、善、正義…人間にとって根源的な問題を深く見つめ、私たちが生きる世界の本質をとらえる。神学であり哲学でもあるカトリシズムの真髄と、知られざるその現代的展開を第一人者が論じた名著」

カトリシズムの思想に限らず、現代社会にて確かにキリスト教思想は読まれなければならない。例えば、近代思想の基調たる個人主義も人権思想も、ヨーロッパのキリスト教思想から発している。今日の社会にて普遍的な政治原理である民主主義は、人民主権と権力制限の2つの原理を内実とするけれども、その発想由来の源泉をたどれば、かの人民主権も権力制限もキリスト者による世俗の政治権力に対する対抗の「宗教的寛容」、決して世俗の政治権力から個人の内面信仰は強制や干渉は受けない、そうした世俗の現実国家から干渉・侵食されることのない個人の内面的信教の自由保障の問題として最初にあった。つまりはキリスト者における思想・良心の内的自由の確保のそれから根源的に発して、政治権力(現存国家)への対抗としての人民主主権と権力制限を経て、民主主義の思想へと連なるのであった。今日、世界中で志向されている民主主義の理念や民主政治の制度がキリスト教文化のヨーロッパ地域の発祥であるのは決して偶然ではない。

少なくとも「現代キリスト教思想」の意義とは、こうした政治学史の民主主義や人権思想の根本由来の面から理解され、ゆえに「現代社会にて確かにキリスト教思想は読まれなければならない」と切実に私は思うのだが、このような個人の「宗教的寛容」の内面的自律性の思想萌芽は実のところ、キリスト教史では宗教改革以後のプロテスタント思想においての話であり、岩波新書の稲垣良典の本書タイトルは酷薄にも宗教改革以前の「現代カトリシズムの思想」なのであった(笑)。

本新書読後の私の感想を率直に言おう。本書の至る所で「われわれがこんにち自らの思想を形成してゆくにあたって、対話の相手としてカトリシズムを無視することはできない」旨の著者の主張が目立つが、なぜキリスト教思想の中であえてカトリシズムなのか!?しかも、なぜか著者が本書にて展開し称揚しているのはカトリシズム思想の中でも、さらにトマス・アクィナスのスコラ哲学的カトリシズムのそれへ異常に狭く限定されるのであった。

なるほど、本新書の奥付(おくづけ)を見ると著者の稲垣良典は、本書以前に「トマス・アクィナスの共通善思想」(1961年)や「トマス・アクィナス哲学の研究」(1970年)のトマス・アクィナスに関する書籍を連続して出し、トマスの「神学大全」(1274年)の日本語訳にも参加しているキリスト教の中世スコラ哲学、なかでもトマス・アクィナスを専門に研究する、本新書執筆時には九州大学文学部教授の職にある人なのであった。しかもトマス・アクィナス以外での氏の著書には「法的正義の理論」(1972年)や「平和の哲学」(1973年)といったタイトル書籍も見られ、稲垣良典においては、トマス・アクィナスのスコラ哲学を主とする中世カトリシズム思想を読み直し、それを現代社会の「法的正義」や「平和」の原則理念と結びつけて語ることで、キリスト教の「中世」カトリシズムを「現代カトリシズムの思想」として復権させようとする。トマスのスコラ哲学に関し、それが持つもともとの思想的内実の深さを再確認し、現代的「正義」や「平和」の観点の有用性から読み直して再評価させようとする著者の志向が強い。

こうした書き手の稲垣良典の強い意向を汲(く)むなら、中世カトリシズム思想の内に個人の人格尊重や社会正義の執行や平和の哲学理念を読み込み、「現代カトリシズムの思想」として強調する内容の「Ⅳ・人格共同体と社会正義」の章が本新書の中で特に読み所であるといえる。その他、近代哲学の主客二元論をある意味克服した「Ⅲ・ニヒリズムと希望」の章も、今日読んで非常に示唆に富む。

トマス・アクィナスの中世スコラ哲学は、現代社会理論の人格の観念や社会正義の理論や平和の思想とは親和性があって相性がよく、この「Ⅳ・人格共同体と社会正義」の章での著者の語りは饒舌(じょうぜつ)で強気であり、筆致はなめらかである。だが他方、「Ⅴ・カトリシズムと現代科学」の章になると、トマスのスコラ哲学が前近代の典型的な中世キリスト教思想であるため、カトリシズムの神秘的な普遍的宇宙論(天動説の主張など)は、近代以降の実証的で経験主義な現代科学からあからさまに否定されて分(ぶ)が悪く、「現代カトリシズムの思想」を説く本書での著者の語りは苦戦を強(し)いられ、明らかにトーンダウンして本章記述も、どこか歯切れの悪い護教論的で防戦一方な苦しいものになってしまう。そうした著者による各章ごとの筆の勢い落差が本新書にて半畳の入れ所の笑い所か。

周知のようにトマス・アクィナスという人は中世キリスト教学を体系的に理論化したイタリアの神学者である。イスラム文化圏からヨーロッパに逆輸入され、「理性のみ」ゆえに当時のカトリック教会から警戒されていた古代ギリシア哲学のアリストテレスの思想と、「信仰を主とする」中世のキリスト教神学を統合させて、いわば「理性と信仰」の調停を図(はか)り、形而上学的理論のスコラ哲学を大成させた人であった。そのためトマスにとって当時の最新の自然科学は、学術思索の対象外であった。彼は哲学や神学への仕事には抜群なものを見せたが、実証主義や経験主義に基づく最新の自然科学分野には弱い。

トマス・アクィナス「神学大全」は、ヨーロッパ古代のギリシア哲学的理性とヨーロッパ中世のキリスト教的信仰とを統合する壮大な書物であり、全三部に分かれて、最後の第三部執筆の中途でトマスは「自分はもはや何も書けない」と突如言い出し、そのまま49歳の若さで急逝してしまう。こうした経験・実証の自然科学の知見に弱いトマス・アクィナスのキリスト神学的業績に、稲垣良典「現代カトリシズムの思想」も見合っているというべきか。「カトリシズムと現代科学」について述べる段になるとトマス同様、稲垣の筆も途端に苦戦を強いられるの印象だ。

それにしても「なぜキリスト教思想の中であえてカトリシズムなのか!?しかも著者が本書にて展開し称揚しているのはカトリシズム思想の中でもさらにトマス・アクィナスの中世スコラ哲学のそれへ、なぜ異常に狭く限定されてしまうのか」。キリスト教思想の現代的意義を説くに当たり、殊更(ことさら)にカトリシズムに限定せずに、後の理神論やプロテスタント思想など、より幅広いキリスト教思想を繰り込んで総体的に論じてもよいのでは、の率直な思いが岩波新書の青、稲垣良典「現代カトリシズムの思想」を読むにつけ、私には一貫して残る。