アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(461)青野太潮「パウロ」

岩波新書の赤、青野太潮「パウロ」(2016年)は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人であったパウロに関する新書である。パウロその人については、

「パウロ(紀元前後─60年頃)。最も重要な使徒とされる人物。パリサイ派に属し、キリスト教徒を迫害したが、のちに回心してキリスト教徒となった。東方各地を伝道して『異邦人の使徒』と呼ばれるが、その後ローマに伝道中、ローマ帝国皇帝のネロの迫害で殉教したと伝えられる。『信仰によってのみ義とされる』とするパウロの神学は、ローマ末期の教父のアウグスティヌスや、後の宗教改革に影響を及ぼした」

パウロはイエスの直弟子とされる12人の使徒の内の一人であり、初期キリスト教団の教義を確立して遠方のギリシアやローマにキリスト教を異邦人伝道し、キリスト教を特定地域民族にのみ通用する民族宗教から、多民族の信仰による普遍的な世界宗教にまで高めた古代キリスト教史における重要人物である。パウロが不在であったなら、キリスト教は古代から後の中世・近世にてヨーロッパ世界の中心を占め、人々の精神価値を歴史上長く左右するような、今日に至るまでの最重要な世界宗教の一つにはなっていなかったであろう。

岩波新書の青野太潮「パウロ」を一読しての私の率直な感想は、「本書は良くも悪くも初学者向けのパウロに関する入門的な書籍」といった所だ。「良い意味での初学者向け」というのは、仮にパウロに関する知識がゼロでパウロのことを全く知らない人であっても、本書を読むだけで短時間で効率的におおよそパウロのことが知れる点である。ここで本書の目次を見よう。岩波新書「パウロ」は全4章よりなる。

「第1章・パウロの生涯、第二章・パウロの手紙、第3章・十字架の神学、第4章・パウロの思想と現代」

最初に「パウロの生涯」を概観してまずパウロの人となりを紹介し、次に新約聖書中の「パウロの手紙」(パウロ書簡)の主な内容と読まれ方を概説し、そしていよいよ著者によるパウロ論、初期キリスト教においてパウロがなした教義解釈、パウロの思想的業績を深く論じ、最終章にて「パウロの思想と現代」で後の時代に与えたパウロの思想の影響と現代的意義を再度まとめる内容となっている。本書の中での一番の読み所は、著者が本論中にて最も熱を込めて力説する、パウロがなした教義解釈に見られるパウロの思想的業績である。これを著者はパウロにおける「十字架の逆説」といい、それをしてパウロその人を「最初の神学者」と断ずる。

本新書での最大の読み所といえる第3章の「十字架の神学」は、やや難しい初期教団にてのパウロの神学に関する解説であるが、第1章と第2章の「パウロの生涯」と「パウロの手紙」から順番に読み進めていく読者であれば、仮にパウロに関する知識がゼロでパウロのことを全く知らない人であっても、著者がいうパウロの「十字架の逆説」のおおよその話は比較的スムーズに無理なく理解できるはずである。この意味で確かに岩波新書「パウロ」は、「良い意味での初学者向けのパウロに関する親切で良心的な好著」と間違いなくいえる。

本論にて著者が力説する、パウロの「十字架の逆説」の概要はこうだ。

パウロ神学の中心にある画期は、イエスの「死からの復活」ではなくて、イエスの「死の意味」の解釈にある。全知全能の神の最も近くにいたイエスは、なぜローマ帝国の時の政治的権力とユダヤ教司祭の既存の宗教的権威により十字架の刑に処され、死ななければならなかったのか。イエスの十字架の上での苦難の死の意味とは何か!?パウロの「十字架の逆説」にて力点が置かれるのは、単にイエスが処刑されたという「イエスの死の事実」ではなく、イエスが当時最も苦しく残虐とされた十字架刑に処されたという「イエスの死の様態」である。「神の栄光」を体現するはずのイエス・キリストが、「十字架につけられたまま」の当時最も苦しく残虐とされた十字架刑にて「殺害」に処されている。ここには「イエスの贖罪(しょくざい・「神の子イエスが自ら十字架上で血を流すことでわれわれの身代わりの犠牲となり、人間の罪を贖(あが)ってくださったのだ」とする考え)以上の意味がある。これはイエスの単なる刑死、人々への身代わりのための贖罪の死ではない。最も残虐で苦しい十字架刑という「十字架につけられたままのキリスト」の死に方、「十字架上での無残な姿をさらすイエス」の死の様態にパウロがこだわるのは、そうした「十字架につけられたままのキリスト」の弱々しく無残で酷(むご)たらしい死こそが、人々が見つめ最終的に肯定するべき「福音」であり、このイエスの「弱さこそが強さである」とする「逆説」の主張がパウロにはあったからだとする。そうして「十字架につけられたままのキリスト」と同様、自分もまた弱い存在であることをキリストの死を通し知ることが「神の奥義」であり、本当の意味での「知恵」であり「賢さ」なのである。パウロからすれば、そのことをイエス・キリストを介して知ることがキリスト教の神への「信仰」であるのだ。してみると、「事実、キリストは弱さゆえに十字架につけられたが、しかし彼は今、神の力によって力強く生きておられるのである」(「コリント人への第二の手紙」13の4)。すなわち、「十字架につけられたままのキリスト」における「弱さこそ強さ」という「十字架の逆説」が成り立つ。

ここでは、単なる数々の律法違反という人々の罪に対するユダヤ教的な贖罪論(人々が律法を厳格に遵守することができなかったことへの罪、その「律法の呪い」に対するイエスの身代わりの贖罪)を明らかに超えている。そのような律法遵守の遂行違反の表面的な罪ではなくて、人間そのものの根源的・本質的な「弱さ」に対する贖罪としてイエス・キリストの十字架の死はあるのである。だからそこには、従来の民族宗教のユダヤ教にて、精神と生活の全てを律法に規定されその遵守にのみ躍起となり、傲慢(ごうまん)にも神の前で律法について自らの理解を絶対化してイエスを裁き、さらにはイエスを死に追いやってもなお自らの所業を神の名において正当化するユダヤ教司祭や律法学者らの倒錯した信仰のあり方を批判して、それとは明確に一線を画する、人間の弱さ、我執の人間悪の根源を見つめる世界宗教たるキリスト教としてのパウロ神学の画期があった。同時に、この「弱さを生きる」の「十字架につけられたままのキリスト」にての「弱さこそ強さ」というパウロの「十字架の逆説」は、単に全知全能の神に近い「強い生き方」を志向するヘブライ人らが待望の「超人イエス」とも明確に異なるものであった。ここにおいて旧宗教勢力のユダヤ教と、ローマ帝国支配に付き従う東方のヘブライストら両方に対し、信仰の内実の違いを明確にする「両面作戦」としてパウロの「十字架の逆説」はあったと著者は指摘するのである。

他方で、岩波新書「パウロ」が「悪い意味で初学者向け」の書籍だと私が思うのは、本論にてパウロ神学における「受動的服従」に全く触れられていない所だ。パウロにおける「受動的服従」とは、パウロ書簡「ローマ人への手紙」(13の1─4)に見られる、人間を内面の信仰と外面の生活行為とに分離し、その二元的立場から内面の精神ではキリスト教会への神の信仰を説き、同時に外面の生活行為にて世俗のローマ帝国への従順服従をキリスト者に説得する、キリスト教への信仰を保持したまま、実質は既成の世俗的な政治権力への自発的服従を人々に暗に、しかし強力に進める教えのことである。

これは従来、パウロ論ならびに初期キリスト教研究にてよく問題にされるパウロ神学の問題点である。

パウロ以前の初期キリスト教団にて、宗教上の神への信仰は世俗の政治権力者であるローマ帝国皇帝に対する崇拝拒否の不服従を意味し、それゆえキリスト者はローマ帝国により長きに渡り迫害されてきたのだった。本来は宗教的な神への信仰と世俗のローマ皇帝に対する崇拝は両立しない。しかし、このパウロにおけるキリスト教への信仰を保持したまま、実質は既成の世俗的な政治権力への自発的服従を人々に暗に、しかし強力に進める「受動的服従」にこそ、それまで時の政治権力より過酷に迫害弾圧されていた初期キリスト教団が、ローマ帝国支配下にて一転して公認の後に国教化され(313年)、遂には迫害されていた一般庶民の宗教から、ローマ帝国支配者らが好む帝国公認の体制宗教(政治権力維持のためのイデオロギー的宗教)にキリスト教がなってしまう一大転換の秘密があったと私などは見るのであるが、この点に関し本新書では何ら触れられていない。

のみならず、パウロ以前の宗教的信仰にて個人の内面の信仰と、外面の生活行為とに分ける二元的発想の思考はなかった。パウロ以前は宗教的な信仰を持つ者は何ら苦悩や矛盾の乖離(かいり)なく、内的信仰が外的な生活実践の行為にそのまま直結していたからだ。おそらくパウロのキリスト教において、人類は己のうちに信仰する精神の人間的内面を初めて発見したのである。ゆえに同様にパウロにて、人間を内面の信仰と外面の生活行為とに分離し、その二元的立場から内面の精神ではキリスト教会への神の宗教的信仰を貫くが、同時に外面の生活行為にて世俗のローマ帝国への政治的な従順服従を遂行する矛盾形態の、かの「受動的服従」は初めて成立したのであった。この「受動的服従」は宗教哲学の問題として、例えば日本中世の浄土真宗、蓮如の「王法為本」や後の近世真宗の「真俗二諦」論の二元的信仰の問題に連なる重要論点であると私は考えている。ただ蓮如の「王法為本」や後の近世真宗の「真俗二諦」の二元的信仰の問題については話が長くなるので、ここでは詳しく述べないのだが。

なるほど、岩波新書の青野太潮「パウロ」は総ページ198ページほどで200ページにも満たず、しかも各印字のポイントが大きい。本来、通常の書籍に編(あ)み直せば本書は100ページ弱の薄い冊子となり、一冊分の新書の体裁をなさないと考えられる。そうした比較的字数の少ない書籍であるから、著者が「最初の神学者」と断ずるパウロについて、本新書以外の他著にも当たることが必要であろう。この一冊をもって「パウロのおおよそは理解できた」と即断してはいけない。

パウロに関しては、イエスの死の意味を贖罪論として説いたパウロ神学の画期、初期キリスト教団におけるパウロの教義確立の功績を丁寧に解説した波多野精一「パウロ」(波多野「原始キリスト教」1950年に所収)を特に参照されたい。これは古い論文であるが今読んでも色褪(あ)せることなく現在でも通用するパウロについての基礎的考察である。波多野精一の「パウロ」は是非とも読んでおくべき重要論文であると私は思う。

「キリスト教の礎を築き、世界宗教への端緒をひらいたパウロ(紀元前後─60年頃)。この人物なくして、今日のキリスト教はないと言っても過言ではない。アウグスティヌス、ルターに多大な影響を与えたといわれる、パウロの『十字架の逆説』とは何か。波乱と苦難の生涯をたどり、『最初の神学者』の思想の核心をさぐる」(表紙カバー裏解説)