アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(460)野坂昭如「科学文明に未来はあるか」

野坂昭如(1930─2015年)は、作家で歌手・作詞家であり、タレントや政治家でもあって様々な分野で活躍した多才な人であったが正直、私は昔からこの人には尊敬も感心もできず、あまり好きになれないのである。

野坂昭如といえば、今でもネット上に動画で残っていて容易に参照できると思うが、大勢の人がいる式典の壇上にて映画監督の大島渚をいきなり殴ったり、コンサートや公演やテレビでも泥酔して公の場で暴言を吐いたり、憚(はばか)ることなく性的な発言をして(昭和世代の野坂にいわせると、それは「エロ」で許されるらしい)、この人は本当に救いようがないくらいデタラメで、いい加減な人なのである(苦笑)。

野坂昭如の作家仕事の代表作に直木賞受賞の「火垂るの墓」(1967年)があった。この作品は後に高畑勲監督により劇場アニメ化もされ(1988年)、今でも名作として名高い。本作は戦時に母親を亡くし、引取先の叔母と険悪な仲になった14歳の兄(清太)と4歳の妹(節子)が敗戦前後の混乱の中を兄妹で独立して生き抜こうとするが結果、誰にも相手にされなくなり栄養失調で無残な死に至る話である。戦中から戦後の混乱の中で共に餓死してしまう兄妹の愛情を描く描写の過程で、蛍の小道具と軽快な関西弁での会話叙述が実に効果的に上手く使われている。

私も野坂の「火垂るの墓」は小説とアニメともに読んで観て、さすがに名作であるとは思う。「火垂るの墓」は、戦災孤児として妹と二人で懸命に生きた野坂の少年時代の実話のように一部の人達には未だ思われているけれど、それは誤解であれはほとんどフィクションの作り話である。作中では野坂と思われる中学生の清太が妹の節子の世話をし、戦時から敗戦にかけて兄妹二人きりで懸命に生きて、最期に幼い妹と悲しく死別する話になっている。だが実際は、野坂の母は空襲で亡くならずに生きていたし、行く先々の親戚の家で野坂ら兄妹は親族からいじめられ険悪になって家を出て防空壕で二人で生活しなくてはならないほどの困難にもあっていない。何よりも節子のモデルにあたる野坂の妹は、わずか一歳で疎開先で栄養失調のため亡くなっており当時、妹の世話をしていた中学生の野坂は妹の面倒をみることをどちらかといえば疎(うと)ましく思っていて、彼女をわざと放置(ネグレクト)したり、時に泣き止まない乳児の妹の頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあることを後に野坂自身が告白している。野坂昭如「火垂るの墓」は、むしろそのように現実には優しく妹に接して共に生きることができなかったかつての自身の実体験からの反省と、わずか一歳で亡くなった妹への贖罪の思いで書かれた、ある種のフィクションなのであった。野坂の「火垂るの墓」はさすがに名作とは思うけれど、野坂の現実とは正反対の暗に兄妹美談の誤解を招く実話調の書きぶりに、実際の野坂昭如という人を見るにつけ、私は大いに興ざめである。

以上のようなこともあって正直、私は昔から野坂昭如には尊敬も感心もできず、あまり好きになれないのである。だから、野坂の著作は仮に読んでもその場限りですぐに忘れてしまうが、例外的に「そこそこ読める」野坂の書籍も数冊あった。その内の一冊が、岩波新書の黄、野坂昭如「科学文明に未来はあるか」(1983年)である。本書での野坂は下世話なエロ話もなく、極論の過激な発言もなく例外的にまともである。これも硬派な学術新書を昔から出している伝統ある由緒正しき岩波新書レーベルの無言の圧力によるものか(笑)。とにかく本新書での野坂昭如は、いつもの野坂とは違って真面目だ。

野坂昭如「科学文明に未来はあるか」は、野坂が科学者ら6人と対談し最終章にて野坂が自身の考えをまとめる、まさに「科学文明に未来はあるか」の、現代科学の問題を指摘し人間社会における科学技術の行く末を見極めようとする内容である。ここで本書の目次を見よう。各章末尾のカッコ内は野坂と対談の科学者である。

「Ⅰ・科学はどこへ・科学と文学の対話(小野周・物理学)、Ⅱ・核兵器とコンピューターの現在(高榎尭・毎日新聞論説委員)、Ⅲ・ゴミを出す人間と廃棄物を出す産業(佐伯康治・日本ゼオン樹脂事業部副事業部長)、Ⅳ・消える自然にはびこる人間(内田康夫・生態学)、Ⅴ・生と死の老人問題(大井玄・衛生学)、Ⅵ・生存機械としての人間とヒューマニズム(長野敬・生物学)、Ⅶ・科学文明に未来はあるか」

第Ⅰ章の対談から読むと、何となくとらえ所のない漠然とした読み味になるので、「科学文明に未来はあるか」に関する野坂の考えがまとめられている総括の最終章をあえて最初に読み、その上で第Ⅰ章から第Ⅵ章までの各論対談を順番に読むと良いと思う。現代社会の科学文明に対する野坂の考えは、最終章の185ページから結語の189ページにかけて集中して述べられている。性急で短絡的な科学批判の全面否定は避け、衛生医療や産業生産・労働補助の点で発達した科学技術の恩恵を現在の人類が少なからず受けていることを認めた上で、その反面、核兵器に象徴される国家(政治権力)による兵器開発・使用の科学帝国主義や人間の尊厳をないがしろにした科学的医療による延命第一主義に対する厳しい批判、さらには科学技術の発達による廃棄物の排出や公害発生や生態系の破壊ら地球規模での環境問題を考えるべきとする、野坂昭如による「(あるべき)科学文明の未来」に関するまとめの立場表明になっている。

「一人の作家が六人の科学者に、科学の目的を、技術の現状を、人間の明日を真剣に問いかける。科学技術は人間に幸福な未来をもたらすのだろうか。それとも核兵器に象徴されるような悲惨な結末か。『科学が悪い形で使われてしまう方に僕も加担している』と語り始める本書は、『技術立国』日本の行方に警鐘を打ちならす」(表紙カバー裏解説)