アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(484)朝永振一郎「物理学とは何だろうか」

大学の物理学専攻の学部に進学志望であったり、将来物理の高等知識が必要な専門職種を希望するわけではない、あくまで一般教養として物理学を知っておきたい人が取り組むべき物理は次の2つであるように思える。

1つは、高校物理レベルの教科書や大学受験問題がほぼ完答てきるくらいの、実際に手を動かして問題を解く基本に忠実な実務的な物理。もう1つは、そうした大学受験問題の背景にある物理学の学問としての成り立ちの歴史、主要な概念・理論形成の過程や物理学の成立・発展に貢献した人物らの概要を知る「物理講話」のような、読み物としての物理である。

岩波新書の黄、朝永振一郎「物理学とは何だろうか」上下(1979年)は、物理学の成り立ちの歴史、主要な概念・理論形成の過程や概要、物理学の成立・発展に貢献した人物らについて、1965年にノーベル物理学賞を受賞し、中高生に向けた講演活動を日頃から積極的に行って自然科学の啓蒙に尽力してきた著者が、物理学を本格的に学んではいない、物理の専門予備知識がない一般読者に向けて平易に語った「物理学とは何だろうか」である。よって本新書には、難解な数式や高度な理論解説はそこまで出てこない。物理を学生時代に選択し学んでいない文系学生にも読める。だが、内容は多少は難しい。

ただ本書「物理学とは何だろうか」上下を通読して、「なるほど、物理学とは何だろうか、それが分かった」ということには、おそらくならない。本書は、前述でいえぱ後者の「物理学の学問としての成り立ちの歴史、主要な概念・理論形成の過程や物理学の成立・発展に貢献した人物らの概要を知る『物理講話』のような、読み物としての物理」に属するものである。これだけでは不十分で、やはり前者の「高校物理レベルの教科書や大学受験問題がほぼ完答てきるくらいの、実際に手を動かして問題を解く基本に忠実な実務的な物理」に日々、地道に取り組む必要があるだろう。これら両方のいわぱ両輪がそろって、初めて「物理学とは何だろうか、それが分かった」の腹の底から身にしみて本当の意味で理解し納得できる、の次元にまで駆動できるのではないか。

私は高校時代、理科は化学と物理を科目選択していた。大学は物理を使わない文系学部に進学したが、学校を卒業して学生でなくなった後も大学入試の物理の問題を遊びで解いて「なるほどな、そういうことか!」と、よくよく考えられた物理学の精巧な造りに感心させられることが多々あった。「物理学とは何だろうか」それを知るには、本書のような一般書籍を読むのも良いけれど、結局の所、一見は遠回りに思えるかもしれないが、高校物理の教科書を読み、かつ大学入試の物理を実際に手を動かして問題を解く基本の実務的な訓練が必要であるように思う。

岩波新書の朝永振一郎「物理学とは何だろうか」は、昔に出た同岩波新書のアインシュタイン、インフェルト「物理学はいかに創られたか」上下(1963年)とタイトルも企画趣旨(「難解な数式や高度な理論をなるべく使わず、物理を専門的に学んだことがない初学の一般読者にも分かるよう物理学という学問の本質を平易に伝える」)も似ている。

朝永振一郎「物理学とは何だろうか」は上下二冊にて、上巻から力学、熱力学、分子力学へ順番に話は進んでいき、下巻の最後には講演「科学と文明」が収録されている。著者の朝永振一郎は本書の完成を目前に逝去した。よって岩波新書「物理学とは何だろうか」は朝永の遺稿となった。

「現代文明を築きあげた基礎科学の一つである物理学という学問は、いつ、だれが、どのようにして考え出したものであろうか。十六世紀から現代まで、すぐれた頭脳の中に芽生えた物理学的思考の原型を探り、その曲折と飛躍のみちすじを明らかにしようとする。ケプラーから産業革命期における熱学の完成までを取り上げる」(表紙カバー裏解説)