アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(261)見田宗介「社会学入門」

岩波新書の赤、見田宗介「社会学入門」(2006年)は他の方の書評にてよく評されるように、タイトル通りの理論的な「社会学入門」というよりは、その「社会学入門」のさらに一歩手前の初歩に位置する、これから社会学を学ぶ人へ向けて社会学の原初の心得を説くようなエッセイ風の新書だ。そのため、本当の意味での「社会学入門」で社会学創始の古典的理論家たるコントやスペンサーの業績、社会学の基本概念や主な手法、国別・時代別の社会学史概観を学びたい人には、見田「社会学入門」ではなくて、例えば新明正道「社会学史概説」(1954年)あたりをまずは無難に読んでおけ、ということになる。

このように岩波新書「社会学入門」は、どちらかといえば見田宗介の社会学に関するエッセイ的書籍であるのだが、本書の最初の読み所は「社会学とは何か」について、著者の見田が熱心に語る箇所にある。「近代の社会科学は経済学、法学、政治学と専門科学に分化し、しかも哲学、宗教学、文学、歴史学の伝統的学問もあれば心理学の新興の専門科学もあるのに、それらをやらずに、なぜあえて社会学なのか!?」「社会学は近代の社会科学の専門分化を一度破棄して様々な対象領域を扱うため、場合によっては節操のない、『社会学』の名のもとに何でもありな学問になってしまう」の偏見中傷すらある。社会学とは時に誤解されやすい学問である。そうした点も踏まえて「社会学とは何か」について、岩波新書「社会学入門」の中で著者の見田宗介は以下のように述べる。

「社会学は〈越境する知〉とよばれてきたように、その学の初心において、社会現象のこういうさまざまな側面を、横断的に踏破し統合する学問として成立しました。…現在の社会学の若い研究者や学者たちが魅力を感じて読んでいる主要な著者たちは、すべて複数の─経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学、等々の─領域を横断する知性たちです。けれども重要なことは、『領域横断的』であるということではないのです。『越境する知』ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとってほんとうに大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。…『領域横断的』であること、『越境する知』であることを、それ自体として、目的としたり誇示したりすることは、つまらないこと、やってはいけないことなのです。ほんとうに大切な問題をどこまでも追求してゆく中で、気がついたら(近代知のシステムの専門分化主義の)立て札を踏み破っていた、という時にだけ、それは迫力のあるものであり、真実のこもったものとなるのです」(7─9ページ)

その上でさらに次のように続ける。

「問題意識を禁欲しないこと。人生の他のどんな分野においても、禁欲は大切なことであり、ぼくたちは禁欲的に生きなければいけないものですが、学問の問題意識においてだけ、少なくとも社会学という学問の問題意識においてだけは、ぼくたちは、禁欲してはいけないのです」(9ページ)

おそらく察するに、社会学者の見田宗介は「伝統的な近代の社会科学がすでに専門分化してあり、それらをやればよいのに、なぜあえて社会学なのか」「社会学は近代の社会科学の専門分化を一度破棄して様々な対象領域を扱うため、節操のない何でもありな学問だ」の偏見中傷に常日頃からさらされ、それへの反論の意識が暗にあるに違いない。だからこそ、社会学という学問が従来学問のカテゴリーを越境する「領域横断的」であるのは、新奇さを狙って「領域横断的」であるような最初からそれ自体が目的ではなくて、現代社会の課題に対する問題意識を「禁欲」せずに、どこまでも自分に誠実に追求していたら、たまたま社会学は「領域横断的」な「越境する知」になってしまっていたとする見田宗介の語りである。

この「社会学とは何か」に関する「社会学における問題意識を禁欲しないことの大切さ」を説く見田の記述は、岩波新書「社会学入門」にて決して読み逃してはいけない最初の、そして最大の箇所であると私には思える。

東京大学教養学部の見田ゼミ出身の社会学者の中で世間的に有名なのは、大澤真幸や宮台真司になろうか。大澤真幸のいわゆる「大澤社会学」の書籍を読むにつけ、またメディアに露出する宮台真司の発言を聞くにつけ、「アニメやゲームや若者の流行風俗に関する、この人たちのサブカルチャー批評を柱とした社会学は、果たして学術的な社会学的考察といえるのか」「到底、学問とはなり得ず、単なるマニアによるオタク語りなのでは」「大澤も宮台も『社会学』の名のもとに言いたい放題で何でもありか(苦笑)」と正直、私は思わないこともないのだけれど、そうした「社会学者の」大澤真幸や宮台真司ら不肖(ふしょう)の弟子へ向けての、師の見田宗介からの必死の擁護の援護射撃のようにも思え、「社会学入門」での先の「現代社会に対する切実な問題意識の結果として社会学は領域横断的な学問になる」旨の見田の語りは(少なくとも私には)誠に味わい深い。

岩波新書「社会学入門」にて、その他、本書に掲載の見田宗介「コモリン岬」の最後での「やったな。あいつら!」の見田の喝采を読むにつけ(見田の「コモリン岬」は学校教科書にも掲載されている有名なエッセイで、インドに滞在した際の現地の少年達との交流を描いたもの)、「こうした見田宗介の若者へ心を開いた日頃の接し方からして、東大の見田ゼミが学生人気で毎年満員だったのは納得だ」と思えるし、第三章での「夢の時代と虚構の時代」における、戦後日本に対する「理想の時代・夢の時代・虚構の時代」の三区分論を読むと、後に弟子の大澤真幸が同じく岩波新書「不可能性の時代」(2008年)の中で師の見田の考察を補足して「理想の時代・虚構の時代・不可能性の時代」の三区分論に新たに鋳直した続きの議論が思い出され、見田「社会学入門」に続けて大澤「不可能性の時代」も再読したくなる。同様に本書での第五章「二千年の黙示録」における吉本隆明「マチウ書試論」(1954年)の「関係の絶対性」についての見田の読みが優れていて、これまた吉本「マチウ書試論」も私は読み返したくなる。

冒頭に書いたように岩波新書の赤、見田宗介「社会学入門」はタイトル通りの理論的な「社会学入門」というよりは、その「社会学入門」のさらに一歩手前の初歩に位置する、これから社会学を学ぶ人へ向けて社会学の原初の心得を説くエッセイ集のような新書だ。だが、著者の見田宗介の人柄が読み取れ、読み物として大変に面白い。