アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(403)佐和隆光「経済学とは何だろうか」

岩波新書の⻩、佐和隆光「経済学とは何だろうか」(1982年)は、「経済学とは何か」とか「経済学とは何であるか」のタイトルではない。「経済学とは何だろうか」である。この「何だろうか」の優しく素朴な問いかけが、ともすれば10代の少年少⼥向け読み物たる「ジュヴナイル」の響きをもたらし錯覚させるのだが、本新書はとても10代の中⾼⽣が読むような初学者向けの易しい書籍ではない。ある程度の経済学の知識をあらかじめ持っていないと、なかなか理解できない⼤⼈に向けた本格的な岩波新書となっている。

佐和隆光「経済学とは何だろうか」を昔から私は知って何度も読み返してはいるけれど、少なくとも私にとって本書は「難しい」のであった。毎回読んでも「完全に読み切れて理解しきれた」の感触を私は本新書から得ることが出来ない。だから、何度も事あるごとに岩波新書の佐和「経済学とは何だろうか」を私は読み返してしまう。

⼀般に私達がある物事について「難しい」と感じる場合、その難しさを嫌って感性的に反発し、むやみやたらと忌避したり、簡単に根をあげ、そのものへの取り組みを安易に断念してしまわずに、「なぜそれが⾃分にとって難しいと感じられるのか」⼀度冷静に客観的に分析してみるとよい。そうした「難しさの由来についての客観分析」から、ある種の「困難さ」に処する道が開けてくることは往々にしてある。

岩波新書の佐和隆光「経済学とは何だろうか」が私にとって毎回「難しい」と感じられる理由は、本書が⼀読その易しい語り⼝の⽂章記述とは裏腹に、内容に関して本来は⼀冊か時にそれ以上の複数書籍の紙数を使って丁寧に論じるべき事柄であるにもかかわらず、著者の佐和隆光がそれ相当の事を本書内のわずか⼀章の30ページとか50ページ⾜らずで⾮常に短く凝縮して書いているので、そのため記述が具体事例の少ない極度に抽象化されたものとなったり、その⽂章理解に必要な基本の前知識や使⽤概念の定義説明を⽋いていたりする不親切による。岩波新書「経済学とは何だろうか」の中で論じられている内容は、本来はわずか200ページ程の新書に収まりきるものではないのに、著者の佐和隆光が⼀冊の新書の内に密度濃く数冊分の書籍の内容を強引に詰め込んで⼒業(ちからわざ)で論述しているため本新書を読むものには、そもそもの考察内容が複雑で⾼度であることに加え、それゆえ「難しい」と感ぜられてしまうのだと思う。

⼀般に私達はページ数の多い分厚い書籍の⽅が記述の少ない薄い冊⼦よりも読むのが⼤変で難しいと思いがちだが、実はそうではない。むしろ逆である。ページ数が多い分厚い書籍の⽅が丁寧に繰り返し多くの字数を割(さ)いて、より具体的にその⽂章理解に必要な基本の前知識や使⽤概念の定義説明まで時に加えて説明されているから(そのため⾃然と字数が多くなりページ数が多い分厚い本になる)、⼀⾒、読むのが⼤変だと思えるけれど、実のところ記述が少ない薄い書籍よりも易しかったりする。

ここで佐和隆光「経済学とは何だろうか」の⽬次を⾒よう。本書は5つの章よりなる。

「Ⅰ・経済学は〈科学〉たりうるか ─時代・社会と理論の有効性、Ⅱ・制度化された経済学─⼀九五0─六0年代のアメリカ、Ⅲ・⽇本に移植された経済学─『⾼度成⻑』期の社会と学問、Ⅳ・ラディカル経済学運動とは何であったか─七0年代の新古典派批判、Ⅴ・保守化する経済学─実感派の台頭と⼋0年代の展望」

本論各章の概要を要約するには相当な字数を要するし、経済学専攻でなく本格的に経済を勉強してこなかった経済学に素⼈の私には正確な要約は私の能⼒を越えて⼿に余るので、各⾃、本新書を⼿にとって実際に読んで頂きたい。そして、ここでは岩波新書「経済学とは何だろうか」に当たるために要する「事前に押さえておくべき経済学の知識とは何か」や、「同じレーベルの岩波新書内で本新書に関連して事前に何を読んでおけばよいか。ないしは本書の後に続けて読んで理解を深めておくべき岩波新書」を私なりに⽰すことで以下、佐和隆光「経済学とは何だろうか」を読むための案内(ガイド)としたい。

「Ⅰ・経済学は〈科学〉たりうるか ─時代・社会と理論の有効性」では、「経済学が社会『科学』たりうるか」が問題とされている。従来よく⾔われるように経済学を始めとして政治学や歴史学は、⾃由意思をもった⼈間主体による、時にムラ気のある⼀回限りの偶然な状況・対象への働きかけなのであって、そこには物理学や化学らの⾃然科学とは違って、確固たる厳密な理論や因果の法則や精密な数値化や再現性の成⽴の余地はない。「果たして、そうした経済学が⼀つの学問として社会『科学』たりうるのか!?」そういったことが主に考察されている。さらには「ある特定の時代と社会にて、ある特定学派の経済理論が真理価値と⾒なされ⾃明のものとされて、⼈々の間に妥当理論として強⼒に根付く仕組みは何なのか」。この問題について、同じ岩波新書でいえば、例えば⼤塚久雄「社会科学の⽅法」(1966年)と⼤塚「社会科学における⼈間」(1977年)にて、「経済学を始めとして政治学や歴史学は社会『科学』たりうるか」「社会科学の真理性や時代的妥当性をそれ⾃体に保障するものは⼀体何であるか」が、新書⼀冊を使ってそれぞれ⻑く論じられている。しかしながら、佐和隆光「経済学とは何だろうか」では、第1章のわずか50ページ弱でこの⼤問題を極めて簡略に記述してしまっている。ここに先に述べた以下のような指摘への対応がある。すなわち、「本来は⼀冊か時にそれ以上の複数書籍の紙数を使って丁寧に論じるべき事柄であるにもかかわらず、著者の佐和隆光が⼀冊の新書の内に密度濃く数冊分の書籍の内容を強引に詰め込んで⼒業で短く論述しているので本新書を読むものには『難しい』と感ぜられてしまう」。

続く第2章以降は、第⼆次世界⼤戦終結後の1950年代から本新書を執筆時の1980年代までのアメリカと⽇本での主流の経済学を時代ごとに振り返る構成になっている。「Ⅱ・制度化された経済学─⼀九五0─六0年代のアメリカ」は1950年から60年代のアメリカの経済学史の概観であり、ここでは経済学にとどまらない、近代社会における学問成⽴の社会的仕組みや、その専⾨化がもたらす近代の学問の問題⼀般をあらかじめ知って、それから本章記述に当たるのが望ましい。加えて、トマス・モアらヨーロッパ絶対主義下での「ユートピア思想」と後のマルクス主義の「経済学批判」の前知識、その上でカール・ポパーの「歴史主義批判」の概要知識も要(い)る。

そして「Ⅲ・⽇本に移植された経済学─『⾼度成⻑』期の社会と学問」では、今度はアメリカから⽇本の経済学の話に移って、戦前・戦後の⽇本の経済学潮流を概観しながら、経済学を通しての「⽇本における諸外国からの思想や学問の受容(変容)問題」、つまりは「単に使える技術やイデオロギーとして、近代経済学を始めとする⻄洋の思想学問を変容させ受容してきた⽇本の雑種⽂化の問題」に本質的に触れている。例えば以下のような本⽂記述、「結局のところ、…アメリカから⽇本に移植された近代経済学は、もともとの姿とは似て⾮なるものに改変された上で、この国の社会にゆるぎない定着をとげたのである」(138ページ)。ここでも同じ岩波新書でいえば、丸⼭眞男「⽇本の思想」(1961年)が同様に「⽇本における思想・学問の受容問題」を扱っており、本書のこの章を読む際には、その前後で丸⼭「⽇本の思想」も併(あわ)せて読まれたい。

「Ⅳ・ラディカル経済学運動とは何であったか─七0年代の新古典派批判」は、「七0年代の新古典派批判」とあるのだからスミス、リカード、マルサスからマルクスにまで⾄る古典経済学の内容と、新古典派経済理論とケインズ理論の概要を知っておくことが必須である。その上で「七0年代の新古典派批判」として、「新古典派経済学のどこに限界があり、何が問題とされラディカル(根源的)に批判されているのか」を本書にあるように、主に3つの観点から読み取り理解することが必要だ。この章では以前に「新古典経済学批判」を徹底してやった⽇本の経済学者の宇沢弘⽂の名が出てくる。著者の佐和隆光は宇沢弘⽂の「新古典経済学批判」のラディカル経済学にある程度の共感を持っていることが、本書記述からそれとなく窺(うかが)える。このことから本書に続けて、同じ岩波新書の宇沢弘⽂「⾃動⾞の社会的費⽤」(1974年)、宇沢「近代経済学の再検討」(1977年)、宇沢「経済学の考え⽅」(1989年)を読んでおくことが望ましい。宇沢弘⽂の⼀連の著作を読むことで佐和隆光「経済学とは何だろうか」への読みの理解が深まることが期待できる。

「Ⅴ・保守化する経済学─実感派の台頭と⼋0年代の展望」では、1980年代のアメリカの経済学の動向と今後の展望について語られている。本章では、ケインズの政府の市場介⼊経済に反発するハイエクの⾃由主義経済の理論、トーマス・クーンの「科学における真理相対主義」の概要をあらかじめ知っておくべきであろう。この最終章での「実感派の台頭」という指摘には、理念や理論が不在の、⽬先の利潤回収や直近の経済成⻑確保に終始する⼩⼿先の技術・政策でしかない制度化⽡解(社会的に容認された機能を果たす体系的組織化の体をなしていない)の現状の経済学に対する著者の強い批判意識がある。ここでの「実感派の台頭」というのは、前述の同じ岩波新書の丸⼭眞男「⽇本の思想」での「実感信仰」という問題指摘の術語とほほ同じ意味で使われている。よって、この章を読む際にも丸⼭「⽇本の思想」に当たっておくべきである。ただし、著者は経済学が社会科学として成⽴する道において、そうした「⾼度に数式化された」断⽚の「実感信仰」の経済学を否定的に⾒はするけれど、だからといって以前のような理論的に体系化された「理論信仰」たるユートピア思想の経済理論やマルクス経済学を⼿放しで肯定し、それへの回帰を促すものでもない。いわば「実感信仰」と「理論信仰」の両端を⾒据え、どちらにも⼀⽅的に与(くみ)することなく、「第三の道」の⽌揚を⽬するものであるから、この議論はそう単純に簡単にはいかないのである。だから、本新書は読んで「難しい」のだ。

この点に関し最後の「あとがき」にて、著者は「『経済学とは何だろうか』という設問にたいする⼀つの答え…私の書いた答案の結論めいたものを、要約して記しておこう」と述べて、本書での主張の要約を⼀応は⾏っている(212・213ページ)。そこでの「範型(パラダイム)化され制度化された経済学」と「漸次的(ピース・ミール)⼯学として編成された経済学」の「⼆側⾯が表裏⼀体をなしている」「⼆様の経済学の双⽅を指向してやまない」「双⽅指向性(アンビバレンス)は、私個⼈の⼼情というばかりでなく、経済学の今⽇的状況をも端的に特徴づける」の著者の⾔葉を深く読み取って頂きたいと思う。

以上、岩波新書の⻩、佐和隆光「経済学とは何だろうか」について、その優しく素朴な問いかけタイトルとは裏腹に内容が「難しい」と思われる本書に当たるために要する「事前に押さえておくべき経済学の知識とは何か」を案内(ガイド)の要領で軽く述べてきた。それにしても今更ながら振り返ってみて、本書は同じ岩波新書の数々の名著と内容が重複・連続している考察記述が多い。このことから「佐和隆光『経済学とは何だろうか』は、本当に岩波新書らしい岩波新書だ。まさに岩波新書の中の岩波新書だ」の好感の思いが⾃然とわき起こる。

「経済学は現実の役に⽴っているのだろうか。戦後、アメリカを中⼼に⻑い間隆盛を誇っていた近代経済学が、今⽇混迷しているのはなぜか。〈制度としての経済学〉という斬新な視⾓から、時代や社会の〈⽂脈〉と学問との相互作⽤を明らかにし、経済学のさまざまな潮流の核にある考え⽅を解説して、新しい理論創造への道を探る」(表紙カバー裏解説)