アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(404)⽊下武男「労働組合とは何か」

岩波新書の⾚、⽊下武男「労働組合とは何か」(2021年)の上梓に⾄る概要はこうだ。もともと著者が「労働組合論」の講義を法政⼤学にて1984年から⼗数年間、担当してきて、通年授業の半分以上は労働組合史の歴史部分であって、これを⼀冊の書籍にまとめたいという気持ちが前からあった。しかし「本当の労働組合」の歴史を受け⽌めるような状況に⽇本の労働運動はないと書籍にまとめるのを躊躇(ちゅうちょ)していたところ、若⼿の組合員からの「労働組合史の⼊⾨書があればいいのに」の声を聞いて、「(労働組合の)歴史から学ぶ姿勢は⼤切であり、いま必要なのは労働運動の現状を踏まえた分析と改⾰の構想だ」と強く思うようになり、それが本新書の執筆につながったいう。そうした旨の本書の執筆意図が結語の「あとがき」に記されている。

そのため⽊下武男「労働運動とは何か」は、欧⽶と⽇本における労働運動の形成から発展までの労働組合史を詳述する「歴史編」と、今⽇の⽇本の労働組合の問題を分析し、それへの提⾔をなす「分析編」の⼆つの内容からなる。当然、後者の現在の⽇本の労働組合ならびに組合運動の問題指摘の「分析」は、前者のヨーロッパとアメリカそして⽇本の労働組合の「歴史」を踏まえて為されているわけである。本書は全8章よりなるが、歴史編は「第⼀章・歴史編1・ルーツを探る─『本当の労働組合』の源流は中世ギルドにある」を始めとして5つの章、分析編は「第三章・分析編1・労働組合の機能と⽅法」ら3つの章にて構成されている。

また本書の表紙カバー裏解説には次のようにある。

「⽇本では『古臭い』『役に⽴たない』といわれる労働組合。しかし世界を⾒渡せば、労働組合が現在進⾏形で世界を変えようとしている。この違いは、⽇本に『本当の労働組合』が存在しないことによる。社会を創る⼒を備えた労働組合とはどのようなものなのか。第⼀⼈者がその歴史と機能を解説する」

なかなか挑発的な強い⾔葉の本書解説⽂である。「⽇本には『本当の労働組合』が存在しない」と著者は⽇本の労働運動を⼀⼑両断、明確に⾔い切る。「⽇本に『本当の労働組合』が存在しない。社会を創る⼒を備えた『本当の労働組合』とはどのようなものなのか」。このうち後者の「社会を創る⼒を備えた『本当の労働組合』とは」は、⻄洋における労働運動形成の労働組合史のパートの「歴史編」で詳述されている。「もともとの『労働組合論』講義で通年授業の半分以上は労働組合史の歴史部分であった」旨を著者が明かしていることからも分かるように、「そもそもヨーロッパ中世にてギルド(職⼈集団)の原理を源流とする労働組合がどうやって成⽴し、近代の産業⾰命を経て労働運動がどのように変化し発展したいったか。その過程で押さえるべき社会を創る⼒を備えた、本来あるべき『本当の労働組合』とは、どのようなものであるのか」を歴史的に掘り起こして書き⽰す労働組合成⽴史のパートは記述が丁寧で、さすがに読み応(ごた)えがある。

「社会を創る⼒を備えた、本来あるべき『本当の労働組合』とは何か」については、資本家が労働者間に競争をけしかけ結果、労働者同⼠の団結を挫(くじ)くという労働職場における競争原理を問題視して否定する、エンゲルスとマルクスの実際の分析指摘(例えば、エンゲルス「労働者相互間の競争こそ、現在労働者がおかれている状態のなかでもっともわるい⾯」、マルクス「労働者の不団結は、労働者⾃⾝のあいだの避けられない競争によって⽣みだされ、⻑く維持される」)に依拠して、本書では次のように述べられている。

「(註─エンゲルスとマルクス)⼆⼈のこの分析の視点が重要である。経営者が労働者を過酷な状況に追いこんでいるのは当然だが、経営者の横暴で悪辣(あくらつ)な仕打ちが労働者の悲惨な状態を⽣んでいると、短絡的にとらえてはいけない。むしろ敵ではなく、味⽅にこそ、労働者の内部にこそ、悲惨な状態を⽣みだす根源であると指摘している。ここが重要である。これが労働組合の本質に直結する。『労働者⾃⾝のあいだの避けられない競争』に労働者の状態悪化の原因があるのだから、これを引っくり返せばいい。競争ならば競争を規制すればよいということになる。エンゲルスは先の⽂章につづけて『だからこそ労働者は組合(アソシエーション)をつくってこの競争を排除しようとつとめる』と書き、また『組合』と『ストライキ』は『競争を廃⽌してしまおうとする労働者の最初の試みである』と述べている」(「労働組合とは何か」69・70ページ)

これは本書を⼀読して「実に⾒事な記述だ」と私は感⼼する他ない。⼀般に労働組合に関しては、

「労働組合とは、 労働者の連帯組織であり、誠実な契約交渉の維持・賃上げ・ 雇⽤⼈数の増加・労働環境の向上などの共通⽬標達成を⽬的とする集団である。組合が取り組みべき労働問題の主要なものとして、(1)児童・婦⼈の労働問題、(2)労働時間制限と最低賃⾦の問題、(3)失業問題、(4)労働組合問題、(5)住宅問題を挙げることができる」

とするような妙に変に薄められた無難な「労働組合」解説がなされたりするけれども、「『労働者⾃⾝のあいだの避けられない競争』に労働者の状態悪化の原因があるのだから、これを引っくり返せばよい」とするマルクスとエンゲルスの指摘に着⽬し、「職場環境からの競争の排除」を「労働組合の本質」と定義する著者の⽊下武男の本論記述は、繰り返しになるが「実に⾒事だ」と私は感⼼する他ないのである。というのも労働運動の歴史を振り返ってみれば、いつの時代でも労働者各⼈の連帯の⼒を挫いて労働組合を分断させ無⼒化するのは、同じ職場環境の同⼀賃⾦にて労働しているのに個⼈の能⼒や頑張りが何ら勘案・査定されていないとする⼀部労働者の不遇感の不満につけこんだ、資本家や会社組織から労働者に向け暗にそそのかされる抜け駆けや、激烈に強いられる完全能⼒歩合の労働者同⼠の競争の扇動(せんどう)であるからだ。

結果、労働者の困難は昔も今も一貫して資本家・会社組織から強いられる競争導入での互いの分断による、雇用確保や賃金や職場環境らに関する孤立・分断された労働者疎外の問題につながっているのである。

事実、私達の周りには「働かざる者⾷うべからず」「能⼒のない働きの少ない者は職場で冷遇・抑圧されて当たり前」とか、「会社組織の利益・業績上昇に貢献しない者は去れ」「職場に競争原理を導⼊してこそ、⼈々は危機感を持って互いに切磋琢磨し皆が努⼒向上する」などといった⾔辞をいまだ弄(ろう)する⼈がいる。今さら⾔うまでもないが、「資本家にとっての雇⽤・労働者にとっての労働」とは、労働者が資本家が所有の企業組織に貢献して利益を出すこと以外に、労働者各⼈にとって労働賃⾦を得て収⼊を確保し、⽇々の⽣活を成り⽴たせる⼈間の⽣存という社会保障的側⾯がある。「職場に競争原理を導⼊してこそ、⼈々は危機感を持って互いに切磋琢磨し皆が努⼒向上する」云々のスポーツ・チーム運営のような素朴な例え話に簡単にだまされてはいけない。能⼒が劣る実⼒を発揮できない選⼿がレギュラーになれず、せいぜい試合に出られないスポーツ競技とは違って、労働雇⽤は労働者当⼈(とその家族)の⼈間の⽣存に関わるのだから、完全能⼒歩合の労働者同⼠の競争を安易に職場に持ち込んではいけない。

また今⽇の特に2000年代以降、⾃⺠党保守政権下での新⾃由主義政策(ネオリベラリズム)推進による社会保障のケアなく、市場万能原理により過酷な⽣存競争にさらされ、⼤多数の⼈々が使い捨てられて⾃⼰責任論(「不安定雇⽤で貧困なのは能⼒不⾜で努⼒が⾜りない本⼈の責任」とする暴論)にて社会の貧困格差は合理化され、放置される過酷な現状を現代の私達は⾝を持って知る所である。この労働者各⼈の現在の困難においても、『労働者⾃⾝のあいだの避けられない過酷な競争』の結果の押し付けの⾃⼰責任論に労働者の状況悪化の原因があるのだから、組合(アソシエーション)を結成して労働者同⼠を分断させる労働者間での⽣き残り競争を規制すればよいということになる。つまりは、「だからこそ労働者は組合(アソシエーション)をつくってこの競争を排除しようとつとめる。組合とストライキは競争を廃⽌してしまおうとする労働者の最初の試みである」(エンゲルス)のだ。

であるならば、岩波新書「労働運動とは何か」でのもう⼀つの論点である「⽇本に『本当の労働組合』が存在しないのは、なぜか」の理由に関しても、「⽇本で社会を創る⼒を備えた『本当の労働組合』がなかなか成⽴しないのは、職場での労働者間での競争の焚(た)きつけであることは明⽩」として、労働現場での競争を積極的に是とする、ないしは黙認する⼈々の間に広く根強くある意識形成の問題を議論の整合性を得るために中⼼的に取り上げ、集中して考察すべきであろう。

ところが、本書では戦後の⽇本社会における年功序列型の終⾝雇⽤制度(定期⼀括採⽤⽅式の下で正社員として新規採⽤され、その後、内部昇進制の出世の階段を登り、やがては定年退職に⾄る、企業もよほどのことがない限り解雇せず雇⽤し続けるという⽇本企業の雇⽤保障の慣⾏)により労働者は安定し、よい意味で労働者個⼈が分断され、ゆえに諸外国に⽐べて各⼈が連帯すべき労働組合の必要性が相対的に低かったという、元からある⽇本社会での労働運動の⾮活性化の問題。それに加え、⼀転して昨今での⽇本型雇⽤の年功序列型の終⾝雇⽤制度の崩壊により、⼈々は⾮正規雇⽤や失職を余儀なくされ、雇⽤不安・貧困・過酷な労働環境という「野蛮な労働市場」に「⾃由(フリー)な」個⼈として各⼈が放り出されるが、しかし、ここにきて元からの⽇本における労働運動の⾮活性にて、今⽇の⽇本社会では労働組合が正常に機能していないことを主に指摘する外在的な時代状況的分析に終始してしまっている。そうして、「本当の労働組合」とそれを形成するエネルギーである「ユニオニズム」創造のための現実的提⾔(「ユニオニズムの創り⽅」5つの⽅途)の最終章での結論のまとめに著者の筆は移るのであった。

この点に関しては、マルクスとエンゲルスの指摘から「労働者の困難は、昔も今も一貫して資本家・会社組織から強いられる競争導入での互いの分断による、雇用確保や賃金や職場環境らに関する孤立・分断された労働者疎外の問題にあり、それゆえ労働者のための労働組合の本質は職場環境からの競争の排除」であるのだから、労働現場での競争を積極的に是とする、ないしは黙認する⼈々の間に根強くある労働観の⼈間意識の問題を、岩波新書の⽊下武男「労働組合とは何か」に当たる読者は各⾃便宜に補⾜しながら、より精密に読み込むべきであろう。

「なぜ私達は(特に現在の⽇本⼈は)労働現場での競争を積極的に是とする、ないしは黙認してしまうのか(例えば「能⼒のない働きの少ない者は職場で冷遇・抑圧されて当たり前」とか、「職場に競争原理を導⼊してこそ、⼈々は危機感を持って互いに切磋琢磨し皆が努⼒向上する」といった⾔辞の発生由来は何か)。そのような労働者を分断し労働組合を無⼒化する職場での競争是認の意識を成り⽴たしめる、⼈々の間に広範に根強くある労働観、ひいては社会観や⼈間観の源泉・由来とは⼀体、何であるか!?」⼀度は考えてみるべきである。