アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(455)塩沢美代子「結婚退職後の私たち」

岩波新書の青、塩沢美代子「結婚退職後の私たち・製糸労働者のその後」(1971年)の概要は以下だ。

「15、6歳で製糸工場に就職した女性たちの結婚退職後を追う。二百余名の主婦たちの生活の実態と、厳しい労働条件のもとで過した経験が、彼女たちにどのように根づいているかを明らかにした。1971年9月刊」(表紙カバー裏解説)

本書は大変に読後感が良い。本新書を手に取り実際に読み始める前から、本書を実際に読んでいる最中も、本書を読み終わった読了後に至るまで、いつの時でも本の内容が予測でき、また読んで私の予測通りの内容であり、自身の経験からも深く納得できる。この好印象は、本書が私が日常的に考えている問題意識の枠内に常にあって、自分の知識の総量や経験域を超えることがない、いわば「自身の想定範囲内にある内容書籍」に岩波新書「結婚退職後の私たち」が該当するからに他ならない。

私は、高校生の時と後に大学進学後の10代後半から20代前半にかけて修行の自己鍛錬のつもりで相当に力を入れ集中的に多くの本を読んだが、当時はそれまで大した読書習慣もなく、書籍から学んだ知識の蓄積や実生活での経験値や社会への関心の問題意識も全くなかったので、若い時分の読書は毎回たいそうキツくて辛かった。一冊の書籍を読み終わるまでに相当な時間がかかったし、全部を読み終わっても意味が分からず同じ本を何度も繰り返し読んだり、本文をノートに書き抜き要約メモを取りながら読んでみたり、全般に苦しくて辛い読書が多かった。もっとも若い頃の読書は、それまでの自分の知識や経験の明らかに外部にあり、未知の新世界へ自分を連れて行ってくれる「強度ある学びの苦しみの儀式」のようなもので、私にはかなり意義あるものだったけれど。

それが年を経るにつれ、自身の中で知識の総量や経験の蓄積や社会への問題意識の高まりが多少なりともあって、昨今では前よりかは幾分、楽に余裕を持って良読後感が得られる楽しい読書を少しだけ積み重ねられるようになってきたのだから、自分の中でちょっと報われた思いもある。

さて岩波新書「結婚退職後の私たち」は、前述通り、大変に読後感が良い。本新書を手に取り実際に読み始める前から、本書を実際に読んでいる最中も、本書を読み終わった読了後に至るまで、いつの時でも本の内容が予測でき、また読んで私の予測通りの内容であり、自身の経験からも深く納得できるのであった。この好印象の内実を本新書の内容に引き付け具体的に挙げてみると、

(1)本書は1971年出版で、当時の1970年代には多くの女性工員が現場を退き、すでに結婚退職しているなか、後日かつての敗戦後の1945年から労働運動が高まりを見せた1960年代までの製糸工業に従事の当時の若年女性工員らを追跡し、彼女らにアンケートを行うことで戦後の繊維産業の女性労働問題を振り返り、総括して記録保存する旨の書籍になっている。

(2)本書出版の1970年代時には、本書で回想されるほどの日本の製糸工業における若年女性工員の労働環境の深刻な困難は、確かに見られなくなった。しかし、かつて工員であった結婚退職後の彼女らは結婚後にも継続して、繊維産業とは別な、夫が労働従事する業界や企業組織内での労働運動を新たに家族として支えたり、現に今もパート・臨時で働いており自身が労働問題に直面していたり、また女性の社会参加や婦人の権利確立のための市民運動、消費者運動に積極参加しているケースが多く見られる。

(3)本書でのアンケートを見ると、かつて製糸工業に若年従事していた女性工員の彼女らは、相当な割合で後に結婚し、多くが既婚者で現在家庭を持っている。その際の結婚の経緯は、親・親族や知人による紹介の「見合い結婚」が半数を占め圧倒的である。そしてかなりの確率で結婚生活に破綻なく(離婚することなく)、「結婚退職後の私たち」の多くの女性がその後も配偶者や子供と円満な家庭生活を送っていることが、本書のアンケートから分かる。

(1)について、確かに岩波新書「結婚退職後の私たち」は、多くの女性工員が現場を退き、すでに結婚退職している中で、かつての敗戦後の1945年から労働運動が高まりを見せた1960年代までの製糸工業に従事の当時の若年女性工員らを追跡し、彼女らにアンケートを行うことで戦後の繊維産業での長時間労働や低賃金待遇や劣悪な職場環境の女性労働問題を振り返り、総括して記録保存する旨の書籍になっている。本書出版時の1970年代時点での現在進行形の深刻な職場環境問題を取り上げる告発ルポではなくて、以前に労働従事していた「製糸労働者のその後」を各人に対するアンケートにより追跡し集計し明らかにして、かつての女性の労働問題や現在の女性の権利、社会参加に関する問題を考えようとする本新書の視角が新しく変則的で面白いと思う。ここが岩波新書「結婚退職後の私たち」の一つの読み所であり、本書のウリとも言える。

本新書では、1945年の日本の敗戦を受けて戦争で崩壊した日本経済の立て直しから高度成長時代に至るまでの間の時代─昭和20年代から30年代にかけて、当時15、16歳で中学卒業後、早くも親元を離れ会社の寮で集団生活を送りながら製糸工場に労働従事した若年の女性工員、そして本書執筆時の1970年代には30代から40代の年齢に達している以前の女性製糸労働者を全国各地から探し出し、彼女らにアンケートを送付して集計、その上で分析。結婚して姓が変わっていたが、それでも名簿上で現住所が分かった300名の昔の製糸労働者の仲間に、その後の結婚の経緯から今の生活状況、その中での政治的社会的な動きとの自身の関わりを互いに報告しあう趣旨で詳細なアンケートを実施した結果、200名の仲間がアンケートに答えたという。このアンケート結果を元に本書は執筆されている。

ただ逆に言えば、もう本書を執筆・出版の1970年代の時点で製糸工業に従事の若年女性工員の労働問題のトピックは、大々的にクローズアップされるべき深刻問題ではなく、繊維産業従事の女性の職場環境の問題は大幅に改善され、そこまでの大した社会ルポ告発の大問題にはならなくなってしまった。もしくは、かつて製糸工場現場での若年労働者が抱えた過酷な労働問題は、1970年代以降の今日、繊維工場の日本国内からの海外移転にて、労働力を安く上げられる第三国(中国や東南アジアやインドや南米など)に中核の生産拠点が移り、製糸労働者の職場環境問題が海外の若年女性にとっての過酷問題になって、この繊維産業従事の労働者問題は日本国内の人々には巧妙に隠蔽(いんぺい)される形となった。そのため、「結婚退職後の私たち・製糸労働者のその後」というような、戦後日本の繊維産業の女性労働問題の昔を今日、あえて振り返る旨の、やや無理筋な変則形式の書籍になったとも考えられる。こういった醒(さ)めた意識の冷静な読みも岩波新書「結婚退職後の私たち」には必要であろう。

(2)に関しては、ここが何よりの読み所であり本論の核心だと思うが、「人は若い頃に実際に自身が経験した過酷な労働現場の問題に直面し、その改善を処して行動した結果、離職・転職や結婚退職後も、引き続き自分の事に引き付けて、その種の労働問題を懸命に考え、政治的社会的に積極行動する」ということだ。このことは、かつて製糸労働者であった「結婚退職後の私たち」の彼女らは結婚後にも継続して、繊維産業とは別な、夫が労働従事する業界や企業組織内での労働運動を新たに家族として支えたり、現に今もパート・臨時で働いており自身が労働問題に直面していたり、また女性の社会参加や婦人の権利確立のための市民運動、消費者運動に積極参加しているケースが多く見られることから了解できる。

事実、岩波新書「結婚退職後の私たち」の著者である塩沢美代子(1924─2018年)の経歴を参照すると以下のようにある。

「東京生まれ。1944年、日本女子大学校家政学部第3類(社会事業専攻)卒業。戦時中の勤労動員の経験から年少労働者の指導を志し、鐘淵紡績(カネボウ)に入社、東京工場の社内学校に勤務。1949年、全国蚕糸労働組合連合会(全蚕糸労連)書記に転職。この間、日本繊維産業労働組合連合会(繊維労連)への改称(1960年)、主要組合の繊維労連から全繊同盟への分裂を経験し、1966年から1970年、大洋漁業労働組合書記を経て、後に評論活動に従事。1976年頃からアジアに視点を広げ、1981年アジア女性委員会(CAW)の設立に参加。1983年、日本での活動拠点としてアジア女子労働者交流センター(AWWC)を設立し所長に就任。AWWC所長として東南アジアの女子労働者の労働条件の解明、アジアの女子労働者のネットワークづくりに取り組む」

ここで注目すべきは、「戦時中の勤労動員の経験から年少労働者の指導を志し、鐘淵紡績(カネボウ)に入社」と「1966年から1970年、大洋漁業労働組合書記を経て」と「1976年頃からアジアに視点を広げ、1983年に日本での活動拠点としてアジア女子労働者交流センター(AWWC)を設立し、AWWC所長として東南アジアの女子労働者の労働条件の解明、アジアの女子労働者のネットワークづくりに取り組む」の各点であろう。

著者の塩沢美代子その人が「鐘淵紡績(カネボウ)」という企業に在籍した経験があり、その自身の労働者の立場から企業内での労働組合の執行部書記を務め女性工員の地位待遇向上の若年女性のための運動に当時、取り組んだのだった。そして彼女もカネボウ退職の後、今度は繊維産業とは全くの異業種である「大洋漁業労働組合」の労働運動に携わっていることも、「人は若い頃に実際に自身が経験した過酷な労働現場の問題に直面し、その改善を処して行動した結果、離職・転職や結婚退職後も、引き続き自分の事に引き付けて、その種の労働問題を懸命に考え、政治的社会的に積極行動する」の典型事例として納得の思いが私はする。

加えて、本書「結婚退職後の私たち」を執筆後に今度はアジアに視点を広げ、日本国外の若年女性や未就学児童の過酷な労働問題を取り上げる書籍を塩沢が1980年代に連続して出すようになるのは、前述したように1970年以降、繊維工場の日本国内からの移転にて、労働力をより安く調達できる海外の中国や東南アジアやインドに中核の生産拠点が移り、以前の製糸労働者の職場環境問題が現在の海外の若年女性にとっての過酷問題となって、かつてあった繊維産業従事者における長時間・低賃金・劣悪環境の労働問題は日本国内の人々には巧妙に隠蔽(いんぺい)される形となったのを受けてのことであった。そのため「結婚退職後の私たち」以降、「メイドイン東南アジア・現代の『女工哀史』」 (1983年)や「アジアの民衆vs日本の企業」 (1986年) らの著作を塩沢は連続して出すのである。こうした繊維産業の生産拠点の日本国内から海外への移転、それに伴う若年女性労働者の抱える問題の国内の日本人から海外の現地の人々への移譲という問題変移の現象も、私達は本書「結婚退職後の私たち」以降の塩沢美代子の著作経歴から読み取り、そのことを繰り込んで押さておくべきである。

(3)については、本書アンケートによれば、「製糸労働者のその後」を追跡する中で、「結婚退職後の私たち」の「結婚相手とどこでめぐりあったか」は、50パーセントの半数近くが「見合い結婚」であり、30パーセント強が「組合・サークルや地域の活動を通じて知り合った」で、その他「偶然に行きずりのチャンスで知り合った」「無回答」などが残りの10パーセントほどとなっている。また「結婚に踏みきったおもな理由」については、「本人への魅力(彼とものの見方や考え方が一致。人柄や持味にひかれた。おなじ思想・信条をもっていた)」が60パーセント、次に「現実的諸条件の選択(とくに強くひかれたわけではないが、結婚相手としてふさわしい人物や条件だと思った)」が20パーセント強、「妥協的要素(ためらったり避けたい気持だったが、周囲の強いすすめや相手の熱意でふみきった。結婚に焦っていた)」が残りの10パーセントほどである。

「製糸労働者」の女性工員の場合、集団就業で女性が多い(男性が少ない)職場のため、「結婚相手とどこでめぐりあったか」は、半数近い50パーセントが「見合い結婚」であるのは自然である。だが「見合い結婚」が半数を占める中で、「結婚に踏みきったおもな理由」で「妥協的要素」の当人にとって気の進まない不本意な結婚理由がわずか10パーセント程度であり、逆に「本人への魅力」ら積極的理由が60パーセントの半数以上であるのは注目に値する。総じて確率的に「結婚退職後の私たち」は当人の希望に合った幸福な結婚に至っているといえる。

私自身の実感や周囲の人々の結婚生活を見ていて、特に相思相愛の恋愛結婚や理想の異性との運命的な出会いでなく、「見合い結婚」の最初は知らない者同士であっても相手に無理な要求や理想を過剰に求めなければ、結婚生活は破綻せず、それなりに順調な幸せな人生を互いに築いていける、の確信の思いがする。逆に「熱烈な大恋愛の末の結婚」などの方が、互いのエゴや相手に対する高すぎる理想要求、結婚生活や新たな家庭への憧れが強すぎて当然のごとく後に幻滅し、結婚生活はやがては破綻して離婚に至る場合が多いと思われる。この点で、恋愛結婚も必ずしも悪くはないが、「見合い結婚」は案外に良い機縁のシステムで相当な確率で互いに幸せになれるのでは、と本新書を読んで私は率直に思った。

最後に岩波新書の青、塩沢美代子「結婚退職後の私たち」では、戦後の製糸労働者の彼女らの境遇を「現代の女工哀史」と暗に重ねる記述が多くある。思えば、明治期以来の近代日本において、多大な資本投下や膨大な工場設備や高度な専門技術を要する鉄鋼・機械の重工業とは異なり、製糸や紡績の繊維産業は、それら資本投下や工場設備や専門技術がそこまで必要ない代わりに半熟労働者による長時間で低賃金の上、細かな手先の作業を要する人海戦術の軽工業であって、製糸や紡績の繊維産業は輸出により外貨を獲得できる近代日本の主要産業であった。そうして、その軽工業の繊維産業の労働は「女工」と呼ばれる若年女子の過酷な労働に支えられていた。すなわち「女工」とは、

「近代日本の繊維産業従事の女性労働者のこと。多くは零細農家の若い女性で、当初は工女と呼ばれた。口減らし、家計補助のため前借金で出稼ぎした。逃亡を防ぐため会社の寄宿舎に拘禁され、低賃金・長時間労働と劣悪な作業環境に苦しんだ」

と一般にされる。近代日本の繊維産業に従事した女性労働者(「女工」!)の過酷な労働状況を記したものに、細井和喜蔵「女工哀史」(1925年)や山本茂実「ああ野麦峠・ある製糸工女哀史」(1968年)などがあった。本書「結婚退職後の私たち」でのかつて製糸労働者であった彼女らも、戦後日本にて、北は北海道から南は九州・沖縄まで全国各地の主に農村の子女であり、中学卒業後の15、16歳で親元を離れ会社の寮で集団生活を送りながら労働する比較的長時間で低賃金、その上で精密作業を連続して要求される過酷な労働環境下にある現代版「女工」であったのだ。