アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(1)ウェルズ「世界史概観」

私が学生の時は経済的に苦しくて書籍をあまり買えなくて、お金はないけれど、その代わり時間だけはたくさんあったので、よく古書店をハシゴで数件回ってワンコインかツーコインで買える缶コーヒー1本相当の古書の岩波新書ばかりをいつも狙って購入していた。昔から読んでいたから岩波新書は現在でも好きでよく読む。そういえば学生でなくなった今でも、経済的な苦しさは昔の学生時代とあまり変わらず。だから今でも気がつくと私は、だいたい廉価(れんか)な岩波新書を購入して読んでいるのか(笑)。そういったわけで、今回から始まる新しいブログ「岩波新書の書評」である。

ウェルズ「世界史概観」(1939年)は岩波新書の後に青版になって、岩波新書創刊時からある新書だ。岩波新書の創刊は1938年であり、すでに日中戦争が始まって日本はもう軍国主義で大陸膨張路線の歯止めが効かなくなって、もはや後戻りもできず。拡大し続ける戦線は泥沼で長期化の様相の頃、そうした1938年の苦難の時代に創刊した岩波新書の最初期のラインナップであるウェルズの「世界史概観」は上下二冊で1939年に配本された。

後に「世界史概観」冒頭に付された「訳者まえがき」を読むと、「この本を昭和十四年に岩波新書として出すということが、当時すでに強化されていた軍国主義にたいする抵抗の意義をもっていたのであり、そのこと自体が『文化の擁護』であった」。しかしながら「厳しくなった言論弾圧のもとで、このような民主的で思想的で国際的な史観の本を出すことは非常に危険でもあったから、これは文化の歴史の本であるといういわば一種のカムフラージュとして、原題の『世界史概観』でなく『世界文化史概観』という名にわざわざ改変し岩波新書から出した」といった戦時下、出版当時の事情を訳者が書いている。大変で困難な時代だった。そのまま原題タイトルの「世界史概観」で出したら言論弾圧で書物が出版できない時代であったのだ。

「世界史概観」の内容に関し、最初に驚くのは「世界史」を「概観」するに当たり「生物のはじまり」たる「魚類時代」や「爬虫類時代」の章立てに見られるような、地球上にてまず単細胞な原始生物が発生し、それから魚類に進化して、さらに温暖化で大陸が出来て爬虫類が最強の時代となったというように、あえて非常に古い生物進化の射程からウェルズは長々と世界の歴史をわざわざ書き起こしている所だ。一般に「世界史概観」の世界史記述ならば、どんなに古くてもせいぜい「猿人、原人、旧人、新人」の人類の出現から書き始めて、さっさと古代オリエントの文明の話に筆を進める。「魚類時代」や「爬虫類時代」などウェルズは、昔の「時代」から書きすぎる。「魚類」の進化や「爬虫類」の恐竜の隆盛は世界史の歴史学ではなくて、もはや自然科学の生物学の範疇(はんちゅう)である。なぜウェルズが、このように人類が出現以前の生物の発生と進化から書き始めるのかといえば、例えばウェルズはSF作家でもあるから「SF」(サイエンス・フィクション)の「サイエンス」の科学へのこだわりから、あえて生物進化の過程から書き出すとか、「サイエンス」の科学主義の理性主義の立場からする従来型の神話から始まる歴史記述に対する批判として科学の生物学の記述をまず入れるといったことが考えられる。

しかし、ウェルズが人類発生以前の地球の歴史の生物進化の過程から、わざわざ書き起こすのは「現代の地球上の人間の文明を相対化したい。特に民族や階級や国家について、せいぜいそれらは地球が生成して生物が生まれて、やっと人類が出現し進化していく長い長い生物学的な歴史の過程に比べたらある特定民族の繁栄や、はたまた特定国家の隆盛は本当に小さな一時的な人間の歴史の事柄でしかない」、そういうような「民族・階級・国家の相対化」をウェルズは「世界史概観」にてやりたかったからだと私は思う。つまりは「人類は一つ」の理念を「世界史概観」から引き出したかった。事実、ウェルズの「世界史概観」は1922年のイギリス本国出版で、第一次世界大戦とその戦後処理における列強各国の愚劣さに業を煮やしたウェルズが、「人類の普遍の観念体系なくして世界平和は不可能」との見地に立ち、人間の営みを全体の一つに総括する意図で生物学の「生命の科学」や経済学の「現代世界の文明の展望」と共にまとめた三大啓蒙書のうちの史学の著作「世界史概観」であると聞いている。そのため「人類の普遍の観念体系」から近代の帝国主義の時代に関する記述でも、ヨーロッパのアジア・アフリカ侵略に関し、ウェルズは自国イギリスの帝国主義的侵略な振る舞いを自己批判する比較的冷静でフェアな脱ヨーロッパ中心主義の歴史記述をしている。

本書を通し一貫して強く感じられるウェルズの「世界史に賭ける」心意気の意気込みが半端でない。ウェルズ自身、実際に二度の世界大戦を経験し、しかも国際連盟の失敗と二回目の国際連合の設立に同時代人として立ち会っており、ウェルズと同時代人、例えば「危機の二十年」(1939年)を書いたカーの一連の著作も併(あわ)せて読むと明瞭だが、二度の世界大戦の時代をリアルタイムで生きた当時の、いわゆる「知識人」たちの今後の「世界史の行方」に対する危機意識が相当に深刻である。

第一次世界大戦後の国際連盟にて集団安全保障体制の戦争抑止にまんまと失敗し、第二次世界大戦を経て再度、国際連合を立ち上げる。今度「三度目の愚」で第三次の世界大戦が勃発したら、「もはや人類に未来はない」ほどの痛烈な悔恨と反省の危機意識である。ウェルズは1947年に亡くなるが、チャーチルと対談しスターリンと会見してルーズベルトと対話する世界を飛び回って人類の平和に尽力したウェルズにて、第二次大戦後の米ソ冷戦の状況の中、再び三度目の世界大戦が勃発すれば、次は確実に全面的に核兵器も使用されて「今度こそ人類は破滅を迎える」ほどの危機意識であったに相違ない。現実の世界の歴史の「世界史」では、米ソ冷戦下にて核兵器使用を伴う武力行使や第三次世界大戦には至らなかったが、また将来的に第三次世界大戦が勃発したり、今後全面的な核戦争に突入するなど、そうしたことがあるとは到底私には思えないが、しかしそれはウェルズが期待したような、人類が過去二回の世界大戦の惨事から学習し、理性的になり叡智を持って「人類の世界平和」に決意を持って踏み出したということでは決してない。単に国際紛争や戦闘を局地で地域的に限定したり、大国が背後に付いて第三国に戦争をやらせる、いわゆる「代理戦争」の形で特定の大国だけが戦闘被害を受けない、しかし一部の国や地域は確実に戦火の被害を被(こうむ)る巧妙な戦争コントロールの技術を一部の強国が会得しただけのことでしかない。第二次大戦以降、カタストロフ(破局的)な第三次世界大戦や全面的核戦争が全くなくて、とりあえず漠然と「世界平和」が守り通されている印象があるけれども、もし「第二次世界大戦後から現在までの世界史は比較的穏(おだ)やかで安定しており平和だ」と思ってしまうなら、それは紛(まぎ)れもない錯覚だ。ただ単に戦闘の形態が変化して戦争の規模や地域がコントロールでき局地的に限定的に集約され、時に巧妙に隠されて継続して戦争がやられているだけのことでしかない。

だからウェルズの「世界史概観」を読む場合、「現在、人類は発狂しており、精神的自制ほどわれわれに急を要するものはない」と強く言い切るウェルズの筆による第68章「国際連盟の失敗」と第69章「第二次世界大戦」、そして最終章である第70章「『人類』についての現在の見通し」がまさに本新書の読み所であるといえる。

現実の世界とこれからの人類の行く末を本気で理性的に心配する「人類の普遍の観念体系なくして世界平和は不可能」と言い切る、ウェルズの「世界史に賭ける」心意気の意気込みが半端でない。最近の私達のような「学生時代に世界史を習ったけれど内容を忘れたからもう一度、世界史の概説書を読んで勉強し直そう」などという変に薄められて無難な「教養としての世界史」とは明らかに異なるウェルズの「世界史」である。リアルでシリアスで実用的な、世界大戦後の当時の世界の危機に向き合って対応した「本気の世界史」だ。