アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(73)長沼毅 井田茂「地球外生命」

岩波新書の赤、長沼毅・井田茂 「地球外生命」(2014年)の概要は以下だ。

「銀河系の多くの星のまわりで惑星系が見つかっている。地球に似た惑星は、ごくふつうの存在らしい。それでは、この宇宙にはわれわれ以外にも生命が存在するだろうか?地球生命の仕組みとその限界をもとに、太陽系天体や他の惑星系に生命が誕生する可能性を考えてみよう。生命科学と惑星科学を総動員し、未来の科学を描く」(表紙カバー裏解説)

「地球外生命」と聞いて、どのような生物を想像するだろうか。SF映画でいえば、スコットの「エイリアン」(1979年)のような強酸液体を吐き出し他生物に寄生して襲う凶悪な異星生命体か。スピルバーグの「未知との遭遇」(1977年)での身体と精神を持った人間個体に近いグレイ型宇宙人か。はたまたタルコフスキーの「惑星ソラリス」(1972年)における「ソラリスの海」のような高度な知性を有する個体存在ではない自然物有機体の知的生命体であるのか。

地球は太陽の光を受け、液体の水が存在する「ハビタブル(生命を宿し得る)惑星」である。そうした地球のような「ハビタブル天体」があるなら、そこに生命が存在する可能性は十分にある。本書によれば、生物学者には人類を始めとする地球生命の存在そのものが奇跡の産物であり、他の惑星ではほとんど起こりうるものではないとする、地球外生命の存在を疑う「懐疑派」が多いという。逆に天文学者や物理学者には、物理法則と同様に生命も普遍性を持ち宇宙のどこにでも存在しうる、条件さえ揃(そろ)えば地球外生命は発生するという「確信派」が多いという。

岩波新書「地球外生命」は、長沼毅と井田茂の共著である。長沼は生物学者で微生物生態学専攻のため、地球外生命の存在に関し「懐疑派」であり、他方で井田は天文物理学者で惑星系形成論専攻のため、地球外生命の存在可能性を考える「確信派」である。本書執筆の著者らの専攻の相違により、地球外生命の存在可能性について「懐疑と確信」の互いに相反する立場にあって、しかし協力して共著である所がまずは面白いと思う。

地球外生命が住む他の惑星を探す試みは、半世紀にわたり失敗を続けてきた。それには何よりも、太陽系以外の系外惑星の最初の発見が1995年であり、それまで私達は惑星系といえば太陽系しか知らなかったという理由による。太陽系以外の系外惑星が発見された比較的近年の1995年以降、系外惑星の観測が急速に進み、地球と同じように温度条件がちょうど良くて海(液体の水)をたたえることができる生命を宿し得るハビタブル惑星は、この銀河系で100億以上あるとする見積りが信憑性を帯びてきたという。

そうした議論の前提に基づいて現在では、系外ハビタブル惑星に住んでいる生命をどうやって観測的に検出するかという段階であるらしい。「観測的に検出」の一つに地球外の知的生命体と交信の試みがある。今まで長く続けられてきたが、交信を得られず現在のところ空振りに終わっている。例えば、地球外の知的生命と交信する試みとして「アクティブ(能動的)SETⅠ」というプロジェクトがある。地球外の知的生命からのシグナル受信を待ち受けるだけではなく、地球から電波メッセージを能動的に送る。そのターゲットの一つに地球から22光年のところに位置する「グリーゼ667CC」という系外惑星があって、その系外惑星の平衡温度は地球とほぼ同じでハビタブル惑星の有力候補であり、その惑星へ向けてのメッセージを地球から発信し、もし向こうに知的生命体が存在して、すぐに返事を返したら最短で44年で地球に到達するという。

しかしながら未だ返信が無いのは、地球と惑星環境が似ている生命を宿すハビタブル惑星であったとしとも、生命は存在するが知的生命体であるとは限らない(生命が知的生物になる確率は非常に低く希(まれ)で例外的である)、知的生物が他の星に対して通信を行えるまでの技術文明を有していない、他惑星の文明社会(返信文明)の持続時間が地球人類が存在の文明時間と重なっていない、地球外の知的生命体が必ずしも友好的とは限らず、あえて外惑星とコミニュケーションをとらない慎重な文明である可能性などが考えられるという。

そもそも太陽系天体や他の惑星系に生命が誕生する可能性はあるのだろうか。岩波新書「地球外生命」の副題は「われわれは孤独か」である。われわれ人類は宇宙の歴史の中で例外的な知的生命体であり、地球外生命は存在せず「われわれ(地球生命)は孤独」なのか。太陽系天体に関し、著者らは「結論から言ってしまいますが、太陽系内には地球の大型生物のような生物が存在することは期待薄です」という。太陽系内で地球の他に生命が存在する可能性が従来あるといわれた星、火星や木星の衛星・エウロパやガニメデ、土星の衛星・エンケラドスやタイタンへの考察を通して。

ならば、太陽系以外の系外惑星についてはどうか。近年の発見における系外惑星の数の多さと生命を宿し得る環境条件を備えたハビタブル天体の多彩さからして、地球以外の地球外生命の存在可能性は大いに高まったと本論では結論している。この意味で、研究者の間では物理法則と同様に生命も普遍性を持ち宇宙のどこにでも存在しうる、条件さえ揃(そろ)えば地球外生命は発生するという「確信派」の主張の方が「懐疑派」よりも優勢であるといえる。だが他方で、ただし地球外生命存在の可能性は高まった(「生命は地球だけではなかった」)といっても、地球外生命のほとんどが原始的な生命活動を営む微生物(バクテリアやアーキアやアメーバ)や植物の可能性もあり、地球人類のような知的生命体は、そう簡単には発生しない。地球外生命が人間のようなある程度の高度な知的生命ではない、バクテリアやアメーバの微生物形態の原始的生命であるということは、物理や化学の延長として条件さえ整えば生命はどこにでも発生することを単に証明しているだけで、人類が地球外知的生命の他者を発見する哲学的驚きにはならない。この意味において、人間を始めとする地球生命の存在以外で、他の惑星では人間ほどの知的生命の発生はほとんど起こりえないとする、地球外生命の存在を疑う「懐疑派」の立場の方が「確信派」より優勢であるともいえる。

私の読後の感想からして、太陽系外のハビタブル惑星にて地球外生命の存在可能性はほぼ疑いなくあるだろうが、それら生命の多くがバクテリアやアメーバの微生物や原生植物であり、知的生命体存在の可能性は果てしなく低いのだから、人類を始めとする地球生命以外で、他の惑星では生命はほとんど存在しないという地球外生命の存在を疑う「懐疑派」の立場を選択する方が現実的ではないか。

私達が普段考えている地球外生命の「懐疑」の立場を覆(くつがえ)すには、冒頭のSF映画の事例でいえば、例えば「エイリアン」のような地球外生命の凶暴生物の襲撃を地球人類が突如として受けるとか、例えば「未知との遭遇」のような地球外生命個体の精神的感応(テレパシー)に呼び寄せられ、未確認飛行物体(UFO)を目撃しその内部にて地球人類が宇宙人と「遭遇」するなど、地球外生命であり、かつ知的生命体である個体の他者と実際に出会わなければ「地球外生命は確かに存在する」の「確信」には至らないからだ。バクテリアやアメーバ・レベルの他の惑星に生息する原始的な微生物も確かに「地球外生命」ではあるが、そうした知的生命ではない生命体の存在を確認できたり、仮にそれらと出会ったとしても、それらは地球の我々人類に対して実質的に「地球外生命」として存在したことにはならない。この意味において、現時点では「われわれ(地球生命)は孤独」といえる。

本書は全5章からなる。最終章の「第5章・系外惑星に知的生命は存在するか」での結論を導くために、「第1章・地球生命の限界」と「第2章・地球生命はどのように生まれ進化したか」と「第3章・地球の生成条件が少し変わっていたら」にて、書き出しから前半までを「地球生命」の「限界」や「進化」や「生成条件」について生命科学と惑星科学の両方から広く紙面を費やし解説する論じ方の構成が非常に優れている。地球より遥(はる)か遠方の「地球外生命」の謎や可能性に迫るには、まず直近の地球生命の仕組みや進化や生成条件を考察し、その考察を踏まえその上で太陽系天体や他の惑星系に生命が誕生する可能性を検討する議論の順序が理にかなっている。そして、系外惑星系の「地球外生命」の存在可能性を考えるに当たり、まずは太陽系内の地球生命の仕組みや限界の存在を考えるというのは、「他者を本質的に理解するには、常に他者は自分を介して反映し認識され存在するのだから、他者について考えることは実は他ならぬ自分について考えること」という他者の対象理解が実は自己への内省理解にまず向かう哲学真理の妥当手続きを、生物学や天体物理学専攻の著者らはそういった哲学的認識の仕組みまで考えていないとは思うが(笑)、うまい具合に踏んでおり、そこが岩波新書の赤「地球外生命」の良さだと私には思えた。

つまりは本新書の最良さとは、遥か遠い地球外生命に関する考察のように一見思えて、実のところ、地球生命が生成し進化して今日の繁栄に至るまでの奇跡の過程を説く、人間を始めとする直近の地球生命の存在そのものが奇跡の産物に他ならないことを読み手に強烈に知らしめる点にあるのでは、と私には思えるほどだ。