アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(74)宮田光雄「非武装国民抵抗の思想」

宮田光雄(1928年─)という人はドイツ政治思想史専攻の政治学者であり、またキリスト者でもあって、そのことはエルンスト・カッシーラー(ユダヤ系のドイツの哲学者)とカール・バルト(スイスのキリスト教神学者)に関する氏の訳出や研究に見事に裏打ちされている。それら宮田光雄の一連の仕事は現在でも無心に読まれるべきものがある。

宮田光雄に関し私が面白いと思うのは、宮田の名は(おそらく)世間一般にそこまで広く知られてはいないが、宮田が展開させた思想(思考)は戦後の日本社会にて、宮田の名以上に広く知れ渡り認知されているということだ。すなわち、宮田光雄の思想は「反ファシズム」と「良心的兵役拒否」の二つに集約できる。そして前者の「反ファシズム」が、宮田が主に戦後にナチスのファシズム批判を展開させるドイツ政治思想史専攻であったことから、また後者の「良心的兵役拒否」は宮田自身がキリスト者であり、国家権力による強制動員に対抗する「良心」の内的信仰を貫いたことから、これまた見事に説明できるのである。宮田光雄は自身の中での思想生成の出自に忠実な誠に一貫した、実にぶれない政治学者であった。

さらに言えば、日本の戦後民主主義推進の立場から第二次世界大後の日本とドイツの戦争責任処理のあり方を対比させて論じ、徹底的に自国の戦争責任追及と謝罪・賠償を近隣諸国ならびに他民族になしたドイツをなかば称賛し、それとは異なる日本を批判する対立思考にて、日本の戦争責任の反省の無さ(自国の責任反省と近隣諸国ならびに他民族への謝罪・賠償の不十分さ)を追及してみせたのが宮田の政治学の本領であったし、同様に日本の戦後民主主義を進めるにあたり、反戦平和の思想の理論的支柱として国家(政治権力)に侵食されることのない個人の内面的自由の確保としての「思想・良心の自由」を一貫して強く主張したのもまた、宮田の政治思想研究の骨頂であった。そうした日本とドイツとの対照による戦争責任追及の取り組みたる「反ファシズム」の主張と、国家に捕捉収奪されることのない個人の精神的自由の自律性としての「良心的兵役拒否」の思想を、宮田光雄の名はともかくとして戦後の私達はよく知っている。

岩波新書の青、宮田光雄「非武装国民抵抗の思想」(1971年)は、非武装平和を可能にする客観的条件についての分析提言の書である。それら非武装平和思想の分析提言は比較的相互に独立した各章から、本新書は全五章よりなる。

「第一章・われわれは今どこにいるか」は、本書出版の1971年時点での、ニクソン政権下での国防構想を示したアメリカの「国防白書」や、前年の1970年に初めて出された日本の「防衛白書」の読み込みを通しての報告となっている。1970年代に入り、日本の新たな軍備増強や日米軍事同盟の堅持と更なる強化に危機感を募(つの)らせる論調の現状分析である。「第二章・核の迷信からの脱却」は、核抑止論を文字通り「核の迷信」として批判し尽くすものであり、戦略的核武装や核抑止理論の無効性・非現実さを指摘する既存の核批判の議論の要点がコンパクトに押さえられている。

「第三章・非武装国民抵抗の構想」は本新書のタイトルと、ほぼ同じである。ゆえに本書を貫く非武装平和思想の基調をなす論考といえる。「紛争の状況を有効に解決する唯一の手段は軍事力であるか?」の疑義を呈して、ナチスによるポーランド侵攻などの歴史的事例を参照しながら、他国の日本への直接侵略に対し非暴力や不服従といった抵抗形態の可能性・有効性を新しい「市民的防衛」のあり方として模索する。だが、現代日本の他国による武力占領の侵略ケースへの具体的対応としての「市民的不服従」を宮田は強く説きはするが、本書執筆時の1970年代に日本を侵略占領する可能性がある国はどこなのか、明確に述べていない。曖昧(あいまい)に一貫してボカしている。当時の冷戦下の東アジアにて、日米同盟を結んでいる日本への侵攻可能性があるのは共産圏の旧ソ連か中国しかないが、大国たるソ連や中国の軍事的脅威をあえて直接的に述べずに巧妙に隠して書いているフシがあり、「米国や自国の帝国主義的振る舞いには断然厳しいが旧ソ連や中国のそれには比較的甘い」、朝日新聞社的論調と岩波書店的文章の、いわゆる「朝日岩波文化」の戦後日本の左派的知識人の弱みを本書にて宮田光雄も共有しているといえる。現在読み返してみて、その辺りは半畳の入れ所か。

「第四章・平和のための教育」は国家間での戦争行為に至る以前の戦争回避のための外交努力の大切さや、日本の場合は、特に戦前に国家による上からの好戦的戦争賛美の軍国主義的教育の国民注入(教化)の反省を踏まえて、下からの市民のための平和教育と正当な歴史教育の重要性を説く内容となっている。

「第五章・良心的兵役拒否の思想」は著者にとってライフワークともいえる、これまでにも、これ以後も一貫した著者による反戦平和思想の体現であり、「反ファシズム」の抵抗立場を貫き、かつキリスト者でもある宮田光雄による強い主張だ。もともと「良心的兵役拒否」は、自らの宗教的信仰に基づいて国家権力や国教会からの弾圧迫害にさらされても、戦争参加を拒否して自らが信ずる所の「良心」を貫く力の実証である。しかし、本書にて宮田は「良心的兵役拒否」を宗教的理由からだけでなく、倫理的な人道の観点や政治的な理性主義の立場からも根拠づけようとしている。ただし「良心的兵役拒否」に関する記述は本新書の中の一つの章のみであり、考察と記述が少ない。そのため宮田光雄の他著ないしは同じ岩波新書、阿部知二「良心的兵役拒否の思想」(1969年)を別途参照することが望まれる。