アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(72)梅棹忠夫「知的生産の技術」

最近では書店に行くと自己啓発本(勉強法、記憶術、発想法、集中法、読書術、速読法、ノート術、情報管理術、時間管理術、文章作成術、モチベーションの維持・強化の方法など)の勢いが誠にすさまじく、そのジャンルの書籍が売場本棚の一角を大きく占めるまでになっている。岩波新書の青、梅棹忠夫(うめさお・ただお)「知的生産の技術」(1969年)は、そうした自己啓発本の走りの古典ともいうべき本である。本書初版は1969年だ。

「学校では知識は教えるけれど知識の獲得のしかたはあまり教えてくれない。メモのとり方、カードの利用法、原稿の書き方など基本的技術の訓練不足が研究能力の低下をもたらすと考える著者は、長年にわたる模索の体験と共同討論の中から確信をえて、創造的な知的生産を行なうための実践的技術についての提案を試みる」(表紙カバー裏解説)

解説文書き出しの「学校では知識は教えるけれど知識の獲得のしかたはあまり教えてくれない」は、「はじめに」における著者の主張を踏まえている。著者いわく「学校はおしえすぎる」、しかしながら「やりかたはおしえない」。確かにそうだ。特に小中高までの日本の学校教育では具体的な科目教科の内容を非常に熱心に教えてくれる(「学校はおしえすぎる」)。だが、勉強の方法たる勉強法は実の所あまり教えてくれない(「やりかたはおしえない」)。私の感慨からして、「勉強内容そのものよりも勉強方法を教えてくれたら」と私も学生時代に思うことが多々あった。勉強法を教えてもらい、どのような科目やレヴェルにも対応できる基本的で普遍的な勉強の方法論(メソッド)を体得したら、いちいち教師に対面教授してもらわなくても学生は独学で勝手にどこまでも学習できるからだ。

そうした「いちいち教師に対面教授してもらわなくても学生は独学で勝手に、どこまでも学習する」ことを学生に求めるのは、日本の教育制度では大学教育からである。大学ではそれまでの小中高校とは異なり、教師は学生に手取り足取り丁寧に教えてくれない。大学生は小中高生と違って各自、自分が選択設定した研究テーマに向けて自主的に研究することが求められる。なるほど、「創造的な知的生産を行なうための基本的実践的技術についての提案を試みる」という梅棹忠夫「知的生産の技術」が、大学新入生への推薦図書として昔から定番であるのも納得だ。

本書は「はじめに」と「おわりに」をはさんで全部で11の章から構成されており、それら各章タイトルを見れば著者が本書にて提案する「知的生産の技術」の実践内容は、ほぼ分かる。

「1・発見の手帳、2・ノートからカードへ、3・カードとそのつかいかた、4・きりぬきと規格化、5・整理と事務、6・読書、7・ペンからタイプライターへ、8・手紙、9・日記と記録、10・原稿、11・文章」

以上のような各章からなる著者による「知的生産技術」の具体的提案と、なぜその技術が有用であるか読み手に説得力をもって伝えるための説明記述の二つの要素から実は、この書籍はなっている。当然、読むべきは前者の「知的生産の技術」の提案であって、後者の理由説明は軽く流して効率的に読むのが本書に処する「知的生産」な読み方であろう。著者がいう「知的生産」とは「人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産に向けられているような場合」であり、「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら(情報)を、ひとにわかるかたちで提出すること」である。本書は、そうした「知的生産」を生み出す実践「技術」についての具体的提案の書である。そして、それら「知的生産技術」の提案のうち、特に読まれるべき本書の出色(しゅっしょく)は第1章から5章までのメモやカードの活用術だと思える。

著者は「発見の手帳」の原理ということを言う。「発見の手帳」原理とは、読んだ書籍の内容や自身が考えていることを実際に文字にし書き出して文章化することで、知識や思考の客観化を経て新たに確認したり「発見」できるものがある、という趣旨だ。そのため著者は小まめに文章化してメモすること、つまりはノート作成を「知的生産の技術」の要(かなめ)として最初に奨励する。そのようにして作成しておいたノートは「発見」の効用以外に、後のレポート制作や原稿執筆の際に構想メモとしても役立つ。

確かに、ノートに文章化してまとめることは「発見の手帳」原理として理にかなっているといえる。本書では「発見の手帳」原理の正当性として、レオナルド・ダ・ヴィンチや本居宣長や京都大学同窓の友人らの事例を挙げて、実際に手帳に書き出してみることの効用を説いている。その他の例でも、例えばマルクスは自学の際には文献を読み、ひたすらノートに書き抜き、まとめる方法をとっていたことは有名だ。ノート作成の「発見の手帳」原理が、独学における「知的生産の技術」の一つの大きな柱であることは明白と言えそうだ。

誠に僭越(せんえつ)ながら「知識生産」とは日々、縁遠い凡人の私でさえ(苦笑)、本を読む際は必ず要旨やポイントをノートにまとめるし、グラフ・図式化したり、良い文章があれば、そのまま書き抜き全て書き写して、それとなく分析し時に参考にしたりする。考えがまとまらない時や文章作成にてうまく構想できない時は、とりあえず今考えていることを全て書き出して自身の思考を視覚化し客観化させると、欠落の穴や議論の全体像や順序が見えて次に考えるべきこと・書くべきことが分かり、停滞していた作業が前に進むことは実際よくある。私の日頃の実感からしても「発見の手帳」原理には深く共感できる。

岩波新書「知的生産の技術」にて著者は「発見の手帳」原理からノート作成を奨励し、しかしノートはページが固定しており、内容追加の書き込みやページの順序変更、書き留めた内容の分類整理のために各事項ごとに複数のノートを用意するのは大変でノートは不便という理由から、内容追加やページ挿し込みや順序変更が自由なルーズリーフを、そして最終的にはルーズリーフよりも使い勝手のよいカード(いわゆる「京大式カード」)の作成利用を奨めている。すなわち「ノートからカードへ」、それから「カードとそのつかいかた」となり、そののち複数のカードを規格統一し項目別にファイル保管して(「きりぬきと規格化」)、レポート制作や原稿執筆の必要な時には便宜、素早く該当カードを検索し内容確認できるようなシステム作り(「整理と事務」)の概要まで述べている。

著者のいうように最終的にカードを使うかどうかは、やはり「当人にとっての便利さ」の感覚的なものがあって、私は結局いつもノートを使っている。カードにすると、そもそもカードはノートよりも紙片が小さいので文字や図表を多く、しかも大きく書き込めないストレスが溜(た)まるし、「一枚一項目」のみの記載は内容が薄くカード枚数が膨大になり管理が大変だし、カードはすぐにバラバラになるため逆に不便だし、いちいち各カードを着脱して移動させたりする作業の手間が負担に感じられる不満があるからだ。この辺り個人の感覚的なものであって、「ノートのままで行くか、ルーズリーフに変えるか、さらにはカードにするか」は人によって好みの選択が別れる所だと正直、思うのだが。

岩波新書の青、梅棹忠夫「知的生産の技術」を読むと、いつも私はコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」を思い出す。著者が主に本書の前半にて提案している「発見の手帳」から「整理と事務」までの「知的生産の技術」は、実はシャーロック・ホームズのそれと全く同じだ。ホームズは毎日、新聞記事を切り抜いてスクラップを作る。同様にAからZまで人物・事件の項目別にカードを作成し、アルファベット順に整序しファイル保管して、便宜それらカードの旧情報を訂正したり新情報を書き加えたりで上書き保存を施し情報管理している。そして該当事件の際には便宜、スクラップやカードを検索参照し探偵推理に役立てているし、また後日ワトソンがホームズの冒険譚を執筆する際にも、それらファイルを活用している。まさにシャーロック・ホームズの「知的生産の技術」である。

梅棹忠夫「知的生産の技術」は初版が1969年であり、かたやシャーロック・ホームズの初登場は1887年の世紀末ロンドンである。同じカード利用による情報管理の「知的生産の技術」でもホームズの方が梅棹よりも100年強早い。恐るべし「知の巨人」シャーロック・ホームズ、もといホームズを創作し、この世に出したのは著者のコナン・ドイルだから、恐るべし「知の巨人」コナン・ドイルと言うべきか。