アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(71)石田保昭「インドで暮らす」

インドについての私の印象は、近年に観た映画「スラムドッグ・ミリオネア」(2008年)でのそれだ。本作はインドのスラム街で育った少年の自伝的話であるが、常に街中にあふれる大勢の人々、駅のターミナルや客車での高密度の乗客、宗教対立からある宗派の集まりにて突如、他宗派から襲撃を受ける日常的暴力、広大なごみ捨て場でごみ拾いをしたり、路上に寝て物乞いをするストリート・チルドレンの孤児達が現代インドの印象として私には強く残った。

岩波新書の青、石田保昭「インドに暮らす」(1963年)は、1958年5月から1961年5月までインドのニューデリーで外国語学校の日本語講師としてインドに「暮ら」した著者の記録、いわば「インド生活記」である。本書を一読しての印象は「とりあえずインドの気候は暑い。インドは灼熱だ」ということだ。私は実際に一度もインドに行ったことはないけれど(笑)、きっとインドは暑いに違いない。本書を読むとインドの暑さが体感できる。本新書を通して紙面から「人間の思考力を奪うほど」のインドの過酷な暑さが伝わってくるのだ。

海外や秘境での旅行記や滞在録や冒険譚の、一般の人が日常的に経験しえない異文化との遭遇や人間の極限状況体験の記録文学にて、私達が読むべきものは少なくとも二つあるように思う。

一つは、その場に行った者だけしか体感できない経験的な、その場所の空気や雰囲気といったようなものがあり、明確に言葉にして文章に出来ないが、しかし確かに感覚的に人間が感応できるもの、それを記録文学にしてその場所に行ったことのない読み手に伝える書き手の技術技量だ。気候的な灼熱の暑さだったり、人間の体力生命を奪うほど極寒の寒さや空腹だったり、街の人々の活気や喧騒(けんそう)、はたまた街角の荘厳静寂な雰囲気であったり。本書「インドで暮らす」の中で著者は「インドは暑い」などとは直接的に書いてはいない。しかし著者のいかにもな(おそらくは)故意の、がちゃがちゃした煩雑(はんざつ)な書きぶりを始めとする、その他の修辞からして、インドの灼熱の暑さや街の喧騒活気が何気に伝わるのだ。こういう言外の街の空気や雰囲気は、直接的に言葉にして詳しく説明しても嘘くさく白々しくなってしまう。直接的に語らず、それとなく何気に説得力をもって読者に伝える書き方の技術(テクニック)というのは必ずやあるはずで、「インドで暮らす」の著者は、それが出来ている。この辺りの無意識の書き方が本書は優れている。

「インドで暮らす」に限らず、この手の旅行記や滞在録や冒険譚、例えば岩波新書でいうなら堀田善衛「インドで考えたこと」(1957年)、西堀栄三郎「南極越冬記」(1958年)、深田久弥「ヒマラヤ登攀史(とうはんし)」(1969年)は、いずれもその場に行った者だけしか体感できない経験的なその場所の雰囲気といったようなもの、明確に言葉にして文章に出来ないが、しかし確かに感覚的に人間が感応できるものを記録文学にして、その場所に行ったことのない読み手に伝える書き方の技術に優れている。

岩波新書「インドで暮らす」の著者の書き方が優れているのは、本文のみならず本書の目次タイトルからして分かる。本書は全八章から構成されている。各章タイトルを書き出すと以下である。

「Ⅰ・アジアの兄弟との共感をもとめる。Ⅱ・インドは私を圧倒する。Ⅲ・いつわりの世界と率直さの世界がまざりあっている。Ⅳ・インドにも日本にもヴェールはかかっている。Ⅴ・この子供たちをどうするのだ。Ⅵ・若い魂は悶える、悶える、悶える。Ⅶ・インド・ヒューマニズムは不滅である。Ⅷ・せいいっぱい生きる人の流れはつきない」

これらタイトル群は一見何気に普通に書かれているように見えるが、実は事前に十分に練(ね)られ、よく考えられている。例えば、第六章にあたる「若い魂は悶える、悶える、悶える」における「悶(もだ)える」の三回繰り返しなど、非常によく出来ている。三度重複してここまで執拗に書かれると、いかにも「若い魂」が「悶え」て仕方のない感じの思いが伝わる。同様に第八章にあたる「せいいっぱい生きる人の流れはつきない」は、平仮名と漢字の一文中の割合バランスが絶妙な表記の視覚的良さに加えて、「せいいっぱい」や「つきない」を漢字でなくて、わざと平仮名記述にしている所が「せいいっぱい」なインドに生きる人々の懸命さや、決して「つきない」とめどもなく湧(わ)き出てくる「生きる人の流れ」の無尽蔵な様が文字から伝わる。ここは「精一杯」や「尽きない」と漢字で表記してしまっては、おそらく駄目になる。著者による絶妙な塩梅(あんばい)といえる。こうした各章タイトルの絶妙さや、著者が行った場所の無意識の空気や雰囲気を読み手に伝える巧妙な書き方は、同時代の優れた旅行記、小田実「何でも見てやろう」(1961年)の記録文の叙述スタイルとどこか似ている。

海外や秘境での旅行記や滞在録や冒険譚の、一般の人が日常的に経験しえない異文化との遭遇や人間の極限状況体験の記録文学にて私達が読むべきもう一つのものは、著者にしか経験できない貴重なエピソードであり、これは先の、その場所の空気や雰囲気など間接的にそれとなく伝える言外の物とは相違して、明確に言葉で語り読者に説明し尽くす記録文学の内容要旨である。これには文章技術よりも、どれだけ面白いネタの話が得られたか、旅や冒険を実際に経験した書き手その人の運もある。人々の耳目を集める、一般人が知り得ないより波乱万丈な紀行体験が出来れば、それに越したことはない。

石田保昭「インドで暮らす」が優れているのは、実際に著者がインドのニューデリーで日本語講師として三年間暮らし現地にて生活しているので、だだ一時的に通過するだけの旅行記や短期間だけの滞在録とは違い「旅気分」の浮き足立った所がなく、インドに関してインドの社会やそこに暮らすインドの人々に対する共感も失望も、生活上の喜びも辛いことも含めて全体に隠すことなく冷静に書かれている所だと思える。

個々の具体的エピソードについては本新書を実際に手に取り読んでもらうしかないが、インドは人口が多く、新興の資本主義の流入にて貧富の格差が激しく、その上昔からのカーストの身分序列やザミンダール制の残滓(ざんし)の封建制の前近代的制度もある。著者が現地にて出会うインドの人々は正直で真面目で善良な人達もいるが、他方で狡猾(こうかつ)で、やり手で不遜(ふそん)な人達も多い。前者に該当するのは、極度に貧しい人々か比較的貧しい中産自営の人々である。後者に属するのは、官吏や資本家や富農の社会的地位も高く裕福な人々である。

本書によれば、インドでは高級官吏の汚職、過酷な労働雇用の収奪は実に多い。露店の商談にて著者は騙(だま)されたり、寮の食堂でもメニューを誤魔化されたり(「朝の食事に卵がついていないだろう?ねだんは卵つきのねだんをとるつもりなんだぞ」)、外国語学校の事務員に「君の持っている日本の時計を売ってくれ。駄目なら日本の家族から送らせろ」の、ぞんざいに頼む失礼な輩(やから)もいる。外国語学校の生徒でも著者の英語が上手でないと、わざわざ訂正しにきて日本人の著者をあからさまに見下すような生徒もいる。著者はそうした日常的ストレスも受ける。

インドへの旅や短期滞在にて旅行者が勝手に感じる、発展途上の第三国にて自然と共存して生きるエコロジカルな生活、物質的には貧しくても文明や資本主義に未だ害されていない現地の人々の素朴さ純真さ、先進国の人々が失ってしまった精神的な豊かさなど、現実のインドにはない。旅をして短期で通り過ぎる者には非日常として、そうしたインドの風貌も時にあるのかもしれないが、現地にて長く日常的に生活する者にはそういったキレイごとはないのである。

「インドに来てから毎日おこる現象は私の感覚と理解をまったくこえていた。どう説明をつければよいのか、私は迷うのだった。変な話ばかりさせられる校長、事務員の無責任、商人のごまかし、多くの生徒のずうずうしさ、ことごとく、なぜこれほどまですさまじいのか、という疑問をおこさせるものだった。そこにもってきて貧困があった。やせこけてぼろをまとった人びとが私のまわりにうごめいていた。あんなにやせているのは食物さえろくに食べていないからだろう。毎朝私の部屋をはきにくる掃除人、道ばたで見る労働者、食事をはこんでくる召使など、貧困はさけようもなくひたひたと私のまわりをとりかこんでいた。なぜこれほどまでに貧しいのか、と私はくりかえし考えるのだった」(「インドは私を圧倒する」)

また著者自身が非常に政治的である。著者がインド現地にて生活したのは1950年代末から60年代初頭であり、本書上梓は1963年である。前述の小田実「何でも見てやろう」や堀田善衛「インドで考えたこと」を始めとして、この時代1950年代から60年代前半の海外旅行記や外国滞在記は、単なる私的な旅の内面記録ではなくて、日本の国内政治にて元々戦後民主主義や労働運動や市民運動を志向していた日本の若者が、日本を飛び出し外国に行って現地の若者や労働者らと交流し、民主化運動や市民運動の国家の枠(わく)を越えた地球規模のインターナショナルな連帯を築く、そういった活動に没頭するものが多い。「インドで暮らす」の中でも著者は現地の共産主義者らと交流している。

そしてインド全般に対する著者の締めくくりは、貧困や不都合や困難があってインドに「圧倒」されたとしても、最後はインドに対する肯定・共感の「まったく平凡な結論」で終わる。

「私がここで言いたいことは、『インドの人びとも、われわれとおなじ人間なのだ』ということ、つまり『インドにも生きようと努力している人びとがいるのだ』ということである。まったく平凡な結論ではあるが、日本人がアジアなりアフリカなりに接するばあい、一番必要なことはこのことである、と私は思う」(「あとがき」)

ところで私が学生だった1990年代、大学の友人らは確かによく外国へ旅に出ていた。普段からアルバイトで旅費を稼ぎ、夏期休暇になると東南アジアやオーストラリアへリュックを背負って長期滞在で格安旅行をするバックパッカーになる友人が多くいた。そうした「若者が旅へ出る理由」の一つに沢木耕太郎「深夜特急」全三巻(1986─92年)や五木寛之「青年は荒野をめざす」(1967年)の影響が確実にあった。1990年代によく読まれていた若者の旅の書籍は沢木「深夜特急」と五木「青年は荒野をめざす」であり、もはや小田「何でも見てやろう」や堀田「インドで考えたこと」は、あまり読まれなくなっていた。小田や堀田の著作は政治色が強く、海外の見知らぬ若者たちとの反戦平和や民主化のための共闘、市民的連帯への志向があったが、沢木や五木の旅の書物には私的内面の自由を求める若者の旅への憧れがあった。

沢木耕太郎「深夜特急」は、大学卒業して就職活動し銀行に内定したのに、せっかく決まった会社勤めを初日で辞めた沢木が乗り合いバスにてユーラシア大陸を横断できるか友人らとの賭けに始まる一人旅の話であるし、五木寛之「青年は荒野をめざす」も、大学進学をあきらめたトランペット奏者の青年がジャズと酒と女性を経験しながらヨーロッパを抜けてアメリカを目指す旅の話だ。両作品とも政治主義を介さない相当に私的な動機の旅で、いわば「個人の内面の自由」を希求するような旅である。事実、私の周りの友人も海外へ長期の旅に出る人達は、沢木耕太郎や五木寛之のような心持ちの人が多かったような気がする。そして、そうした友人達は帰国してから、なぜか私的で個人的な旅の話を人前で自慢気に手柄話のように頻繁に語りたがるのだ。まるで人前で何度も自身の私的な旅の話を無節操にやたら語りたがる沢木耕太郎のように(笑)。

岩波新書の青、石田保昭「インドで暮らす」を現在読むと、沢木耕太郎「深夜特急」との相違が痛切に感じられて「若者が海外へ旅に出る理由」に関し、非政治的な私流の個人主義ではなくて、異常なまでに熱烈な政治主義である所が逆に新鮮さを感じさせて私は共感もできる。本新書の読後には「インドの灼熱な暑さ」への感慨と共に著者の政治主義に対する率直な好印象が残る。