アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(370)「図書」編集部「書斎の王様」

書斎論は読書論やノート作成術や時間管理術ら、いわゆる「知的生産技術」の分野に属するものだ。普段より仕事場として使う書斎は勉強・仕事の能率にも大きな影響を与え、そのため自身の書斎をいかに設定しデザインするかを主眼とするのが書斎論である。

岩波新書の黄「書斎の王様」(1985年)は、そうした書斎論を集めた新書である。本書は岩波書店の月刊誌「図書」に連載されたもので、自身の知的活動の拠点となる書斎のスタイルや書斎へのこだわりについての各分野の識者17人からの17本の寄稿よりなる。

私は普段から自身の書斎作りの興味が希薄で、書斎そのものへのこだわりがないため「書斎というもの」に関して、そこまで熱意もなく漠然と考えていたが、本書を読むと書斎には(1)読書や執筆作業をするための座席や机の配置、照明や採光やインテリアらの好ましい快適なあり様、(2)書籍やノートや資料ら、蔵書の望ましい合理的かつ万全な配置保管のあり方の二つに特に重点を置いて、17人の識者がいずれも共通して書いていることに気付く。

(1)の「読書や執筆作業をするための座席と机の配置、照明や採光やインテリアらの好ましい快適なあり様」については、本書を読む限り「書斎そのものにこだわらない派」と「自分の活動拠点となるべき書斎にこだわり工夫を凝(こ)らし理想的な書斎を作り上げていく派」のさらに二つの派があることが分かる。

前者の「書斎そのものにこだわらない派」については、例えば、自宅の決まった書斎では落ち着かず、むしろ出先の喫茶店の方が執筆の仕事がはかどるし、読書も電車やトイレや寝床のどこでも出来るとする小田島雄志「書斎憧憬史」。はたまた私にとって筆が進む最適の書斎は、夜間の仕事終わりの家族が寝静まった後の居間のちゃぶ台だったとする、永瀬清子「女なのに書く場合」がある。自宅の決まった書斎で毎回仕事はしない「書斎そのものにこだわらない派」の中では、椎名誠「素晴らしいガタゴト机」での小刻みに揺れる移動中の電車は「ガタゴト机」で、さながら「移動書斎」のようであり、立派な特定の書斎を持たずとも旅先で移動しながら原稿を執筆したり本を読んだり日記をつけたりできるの話は、アウトドアの自然派で旅好きな「いかにも椎名誠な」書斎論の文章で読んで私は笑ってしまう。本書にある、南極をめざして長期間チリ海軍の軍艦に搭乗し終日、波で揺られ浸水したりしながら狭い個人の簡易ベッド空間で日々、読書をしたり航海日誌の細かな記述したりしていたという椎名誠の「移動書斎」に関するエピソードは、一般人にはなかなか経験できない「いかにも椎名誠らしい」と思える椎名誠的書斎論である。

他方、後者の「自分の活動拠点となるべき書斎にこだわり工夫を凝らして理想的な書斎を作り上げていく派」では、「書斎の合理主義」を貫き、集中して効率的な仕事が出来るよう室内のさまざまな配置にまで全て合理の理を尽くした「書斎改革」を断行した大江志乃夫「書斎の合理主義」。さらには本格的な書斎作りのために家の建築設計の一から根本的に考えて作り込み、また快適な作業環境構築のために机の天板の厚みにまでミリ単位でのこだわりを見せる立花隆「わが要塞」の文章を読んでいると、自分にとっての理想の書斎作りの妥協のなさの真剣さに、のめり込んでハマるのも面白いと私には思えた。

(2)の「書籍やノートや資料ら、蔵書の望ましい合理的かつ万全な配置保管のあり方」は、知的生産の基本道具はやはり紙の書籍や自作のノートや自前のスクラップの資料なのであって、参照したい時にすぐに取り出して即に参照できる使い勝手のよい効率的な収納に加え、大切な書籍に日焼け・破損なく、非常時(火事や浸水や地震ら)いざというときも、それら蔵書がしっかりと保管できているような書斎ならびに書庫のあり方に関する考察である。この点については、自身がこれまで読んだ所有の思い出の本を語った下村寅太郎「蔵書始末」、「私の書斎と書庫とは、いかにして書物の効率的利用をはかるかということと、いかにして生活の芸術性を保つかということ」と断ずる、書斎・書庫のあり方の片方の重きに「書物の効率的利用をはかるかということ」を置く吉野俊彦「書斎・我が城」の寄稿が私は非常に共感でき、参考になった。

書斎について、冒頭に「私は普段から自身の書斎作りへの興味が希薄で、書斎そのもののこだわりがない」と書いたように、私はどちらかといえば「書斎そのものにこだわらない派」である。さすがに椎名誠のように、終日揺れ続ける浸水せまる軍艦内ベッドの狭い個人スペースで作業できるまでのタフさは私にはないけれど(笑)、私は自宅の自室の自分の使いなれた机の定位置で読書をしたり勉強をすることもあるし、同様にベッドの中でも本を読むし、外出先の喫茶店や駅の待合室や旅先の移動中の列車・船の座席でも抵抗なく割かし、どこでも自分のペースで読書をし、その他の作業にも没頭できる。

逆に「自分のこだわりのいつもの書斎でないと落ち着かず集中して読書や勉強や執筆仕事ができない」というのは正直、人として困ると思う。「いつもの気に入った自分の書斎でなければ…」というのでは、彼は「書斎の王様」ではなくて、「書斎(のなかの裸)の王様」である(笑)。私が常々思うのは、「決まった書斎など必要ない。人は、いついかなる最悪な状況のどんな場所であっても即に自分のペースで没頭作業できなければいけない」ということである。最悪、自分の親の死に面し親の葬儀の合間であっても裏の控室にて平常心で本を読み物を書き、集中して勉強仕事ができなければいけない。何か事を成し遂げるためには、それくらいの日頃よりの覚悟と気概が必要である。であるならば「自分にとっての理想の書斎なるもの」にそこまで腐心してはいけないのでは、とも思う。

岩波新書「書斎の王様」に掲載の全17氏の文章のうち、書斎論を含む読書論ら知的生産の技術論を常日頃から頻繁に書いている椎名誠「素晴らしいガタゴト机」と立花隆「我が要塞」の二人の寄稿は読んで特に面白く、両人ともにこの手の書斎論の文章を非常に書き慣れているの好印象が残る。その他、今回の書評ではその内容に詳しく触れなかったが、星野芳郎「職住分離型書斎の経済的背景」と吉野俊彦「書斎・我が城」には、書斎・書庫観で自分と通じる所が多くあり強く共感できて大変参考になった。

あと日本近現代史専攻の歴史学者であり、なかでも軍事史に優れた業績を残した私の同郷の先輩でもある大江志乃夫に私は「同郷の人間」の一読者として昔から親密を抱き、大江の著作を愛読してきたので、氏の近影掲載もある大江志乃夫「書斎の合理主義」は読んで私には深く心に残る。

「書斎には一つの固定したイメージがあるが、実は驚くほど多様な世界がそこにある。落着いた本格派もあればメカとワープロの近代派もある。リビングのテーブル、飛行機,地下鉄、喫茶店だって立派な書斎だ。本書にはこの多彩な空間が登場し、諸分野17氏が、これといかに関わってきたかの苦心と秘策を明かす。あなたも今日から書斎の王様」(表紙カバー裏解説)