アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(277)山本太郎「抗生物質と人間」

岩波新書の赤、山本太郎「抗生物質と人間」(2017年)の論旨は極めて明快だ。著者の山本太郎は医師であり、本書執筆時は長崎大学熱帯医学研究所教授である。

そもそも抗生物質とは、「特に微生物によって作られる、他の細胞の発育または機能を阻害する物質の総称」(「生物学辞典」第五版、岩波書店、2013年)である。抗生物質には天然由来のものもあるが、「他の細胞の発育または機能を阻害する」場合、病原細菌だけでなく、宿主細胞(ウイルスあるいは別のタイプの微生物によって感染を受けた細胞)も含まれる。そこで出来る限り、宿主細胞を傷害することなく病原細菌だけに作用するように(これを「選択毒性」という)開発され実用化されたものが医療現場で使用される、一般に言う「抗生物質」である。ところが、この抗生物質を過剰に使用し続けると薬剤耐性がついて抗生物質が効かなくなってしまう。また、抗生物質は病気を引き起こしている病原性の細菌以外の細菌も時に死滅させてしまうため、身体内にある複雑かつ精密な微生物の生態系が撹乱(かくらん)され、他の感染症や免疫性疾患を引き起こし人体の健康や生命の維持に深刻な危機を及ぼす場合もある。

こうした抗生物質の過剰投与による、(1)抗菌薬耐性菌の問題と(2)体内の生態系の撹乱による他の感染症や免疫性疾患に罹患しやすくなる弊害。結果、時に人体の健康や生命の維持に重大な危機を及ぼす「抗生物質と人間」の問題について、著者は本書の中で現代の医療現場での「抗生物質の過剰使用の問題」として再三に渡り強く主張し警告する。例えば以下のように。

「繰り返す。抗生物質の使用がいけないわけではない。抗生物質が生命に対していかに劇的な効果を示すか私たちはこれまでにも見てきた。その過剰使用が問題なのである。抗生物質の過剰使用は、耐性菌を生み出すだけでなく、使用者を他の感染症や免疫性疾患に罹患させやすくする。抗生物質耐性細菌の存在と合わせて、これを『抗生物質の冬』と呼ぶ専門家もいる。…ポスト抗生物質時代における新たな関係を築き上げるために、私たちは、もう一度、抗生物質との関係を見直す必要がある。答えは、明らかである。抗生物質の使用を必要最低限にまで減らせばよい」(138ページ)

かつて感染症の脅威から人々を守るために抗生物質は開発され、病原性細菌を死滅させる抗生物質は万能の「魔法の薬」のように信頼された「抗生物質時代」があったとされるが、抗生物質の過剰投与による抗菌薬耐性菌問題(抗生物質の使いすぎで薬剤耐性ができて逆に抗生物質が効かなくなってしまう事態)により、抗生物質の過剰使用が戒(いまし)められる「ポスト抗生物質時代」にやがては至るということだ。

この意味において、本新書の巻頭「プロローグ」にある「抗生物質がなくて亡くなった祖父母、抗生物質耐性菌のために亡くなった祖母」なる著者の近親の者のエピソードは読んで誠に印象深い。昔は抗結核薬の抗生物質(ストレプトマイシンら)がなくて結核は「不治の病」とされ、結核で亡くなる人は多かった。著者の父方の祖父母も1940年代に結核で「抗生物質がなくて亡くなった」。しかし、抗生物質が開発されると、結核で亡くなる人はいなくなったが、今度は抗生物質の過剰使用による薬剤耐性により薬が効かなくなり結果、亡くなる人が増加してくる。すなわち、著者の母方の祖母は1980年代に「抗生物質耐性菌のために亡くなった」。著者がいうように、私たち人類が抗生物質を手にしてから、わずかに70年余りが経過したに過ぎない。にもかかわらず、抗生物質の過剰投与による薬剤耐性菌により逆に今日では多くの人が死亡しているのだ。皮肉にも、まさに「私たちは、抗生物質を開発した以前の時代に逆戻りしようとしている」。

前述の薬剤耐性菌の問題に加えて、抗生物質は病気を引き起こしている病原性細菌以外の細菌も時に死滅させてしまうため、腸内に常在している細菌とそれらにより緊密に構成されている生体バランスを乱し結果、免疫系の異常亢進(つまりはアレルギー)や全身性の慢性炎症を引き起こす。本書での著者によれば、肥満や喘息や食物アレルギーや花粉症やアトピー性皮膚炎や糖尿病の「現代の疫病」流行の背景に常在細菌の撹乱の問題があるという。本書にて指摘されているように、確かに昔は花粉症のアレルギーで苦しむ人はいなかった。だが、今では多くの人が花粉症の症状を訴えて苦しむ。そうした花粉症の症状が出てくるのは「行きすぎた近代医学の弊害」、抗生物質を始めとする薬剤の乱用の末に生ずる体内バランス撹乱の問題があるとされる。

私は風邪になってから、休めないからとか、風邪による発熱や咳や吐き気の不快症状を長く辛抱したくないために、医者にかかり手っ取り早く「先生、注射を打つか、抗生物質を出して下さい」と安易に頼んでしまいたくなる誘惑につい駆られる。しかしながら岩波新書の赤、山本太郎「抗生物質と人間」を一読し、抗生物質の過剰投与による抗菌薬耐性菌の問題と体内の生態系の撹乱による他の感染症や免疫性疾患に罹患しやすくなるリスクの弊害を知るにつけ、著者が本書にて繰り返し強く主張し警告する「抗生物質の過剰使用の問題」を痛感し反省する。「抗生物質を始めとする薬剤の安易な使用ならびに使いすぎはいけない」と自身の健康問題に引きつけ深く噛(か)みしめる次第である。

また抗生物質の過剰使用の問題から、抽象的に一般化させた社会の真理や人生の教訓たる「コモンズの悲劇」(多数者による乱用で資源が枯渇してしまう事例の説明。ここからヘーゲルの「自由とは必然性の認識」の文言を引用して、「気ままにふるまう意志は自由意志ではなく恣意に過ぎず、本来的な意志の自由は必然性(自然法則やルール)を洞察してこれに従いながら、意志にかなったものへの現実(自然と社会)の変化・発展を促すことにある」とする考え。つまりは目先の利益・効用にのみ捕らわれた恣意的な過剰使用の戒め)のような著者による記述も非常に面白く、大変に興味深い。

「拡大する薬剤耐性菌、増加する生活習慣病。その背後には抗生物質の過剰使用がある。抗生物質の服用によって撹乱され失われていくヒト常在菌叢(マイクロバイオーム)。万能の薬はいまや効力を失うだけでなく、私たちは『ポスト抗生物質時代』に突入しつつある。最新の科学的知見をもとに、その逆説の意味を問う」(表紙カバー裏解説)