アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(278)内田義彦「社会認識の歩み」

岩波新書の青、内田義彦「社会認識の歩み」(1971年)はマキャヴェリ、ホッブズ、スミス、ルソーら先人たちの「社会認識」のあり様を読み解くことを通して、社会科学における「社会認識の歩み」を歴史的に概観しようとするものだ。その際、著者の内田義彦は「社会認識の歩み」の歴史的概観を成すに当たり、次のような「三つの軸」の基本方針を設定する。

「一、社会科学の歴史上の結節点、結節点を、一人一人の人間のなかで社会科学的認識が成長してくる結節点、結節点と対応させて考える。二、社会科学的認識の深まりを、社会を成して存在する個体の自覚の深まりと対応させて考える。三、一及び二で見た意味での社会科学的認識の成長の結節点、結節点にこれまた対応させながら、本の読み方自体、譬喩(ひゆ)的にいえば、点、線、面というふうに、先ず断片を断片として読むことから始めて、その都度力点を意識的に変え、古典が現代のわれわれに語りかける諸相を漸次立体的に読みとる実験を進めてゆく」

「社会科学の歴史上の結節点」とか「社会科学的認識の深まり」云々と一読難しそうなことを書いているが、より平易に言えば以下のようなことだ。

マキャヴェリからホッブズ、スミスとルソーへ至るまでの各人の「社会認識」(社会そのものやその社会を構成する人間に対する理解のあり様)には当然、現代の私達が決して読み逃してはならない本質的な重要ポイントと、逆に軽く読み流しても構わない非本質的な枝葉の部分の濃淡がある。その中から各人における、前者の重要な部分だけを「結節点」として見極め選択して随時読み重ねていく。ところで、そもそも「結節点」とは、文字通り物事と物事との接続の「結び目」の変わり目の意味であるから、例えばイタリア・ルネサンスのマキャヴェリからイギリスの絶対主義下のホッブズにて、後の時代のホッブズは前の時代のマキャヴェリから「社会認識」のあり様で何を「社会科学の遺産」として引き継ぎ、かつ何を革新して批判的に乗り越えたのか。前の時代の「社会認識」との相違を「結節点」を通して、その都度、押さえ意識的に読もうとする試みである。

もちろん、マキャヴェリら各人の「社会認識」は、その人の資質や嗜好、当人が置かれた時代の社会環境や政治状況に制約されている。しかしながら、そうして「点」としてある各人の「社会認識」を時代順に結びつけ「結節点」のつなぎ目から、それぞれ各人の「社会認識」の継承と乗り越えの深まりの変化を一貫して追跡していくことで、各人の「社会認識」はいわば「点」から「線」になり、やがては「面」になって、総体として普遍的な歴史的変化(進歩)の「社会認識の歩み」の概観になるということだ。

マキャヴェリからホッブズを経てスミスとルソーへ、各人の「社会認識」の深化の結節点を押さえた先人たちの「社会認識の歩み」の読み解きは、より具体的にいえば以下のようになる。それは「第Ⅱ部・社会認識の歩み」に詳述されている。本書の「第Ⅱ部・社会認識の歩み」は全3章よりなる。

まず「第1章・運命へのチャレンジ」で、これまで「伝統や慣習」として無自覚に行われてきた政治に、マキャヴェリにて為政者における「運命へのチャレンジ」という主に君主が決断し、時にリスクも引き受ける人間主体の決断の契機を「近代政治の萌芽」として見出す。そうして次に「第2章・国家の製作」で、マキャヴェリをして「運命への賭け」を成す主体が出てくると、その「賭け」成就のために恣意的で自分本位な主観的希望を時に捨て、損益の負けがすぐに重なる不確かな賭博ではなくて出来るだけリスク回避して「賭け」そのものの成功率を上げるような物事を客観的に分析し見定めようとする、より厳密な人間主体の作為が出てくる。そこからマキャヴェリの政治理論を継承したホッブズにて、政治権力の国家を先天的に自然なものではなくて、人間が合目的のために客観的かつ人為的に製作する契約国家観としての「国家の製作」の理論が生じてくる。

それから「第3章・歴史の発掘」において、ホッブズの契約国家論から生じたそもそもの国家成立以前の「自然状態」の理論的想定から、より実証的に歴史の時代を遡行(そこう)して、物事の成立由来の源泉や生成変化を厳格に見定めようとする今日的な、いわゆる「歴史的思考」が初めて成立する。ホッブズにおける国家成立以前の「自然状態」の素朴な歴史的思考をさらに精巧にして発展させた、資本主義勃興期のイギリスのスミスにおいて、人間個人の内に憐憫(れんびん・「あわれみ」の意味)や共感の情が見出され、人間同士の分業と協業とに基づく社会経済の歴史的発展の理論が形成される。同様にフランス革命前のフランスのルソーにおいて、ホッブズから継承した歴史的遡行の思考は、例えば「人間不平等起源」の人間疎外の原因を時代的に遡(さかのぼ)り突き止める「文明批判」の社会理論となり、私有財産の多寡(たか)を主とする人間不平等の弊害を克服する形での、かつてのホッブズの統治契約に基づく国家観を越える、より民主的な社会契約論の国家像の提示に至る、というわけである。

以上が本書「第Ⅱ部・社会認識の歩み」の大まかな要約であるが、誠に周到で隙(すき)のない事前によく練(ね)られた「社会認識の歩み」の説明記述といえる。事実、本新書には「読者へ─この本は、かなり伏線がはりめぐらしてあるので、精読したい方は、このあたりで『はじめに』からいま一度読みなおして下さったほうが、あるいはいいかと思います」という中途での注意書きがあり、初読の際に驚く。それだけ著者により幾重にも重層的に精密に「かなり伏線がはりめぐら」されている、よくよく考えて執筆された書籍であるということだ。

本書を読む人は大抵、途中か読後に気づくのだが、マキャヴェリからホッブズ、スミスとルソーへ至るまでの各人の「社会認識」の中での読み逃してはならない本質的な重要ポイントと、逆に軽く読み流しても構わない非本質的な枝葉の部分との濃淡を見切り、重要な部分だけを「結節点」として見極め選択して随時読み重ねていき、その際に「結節点」における前後の接続具合をその都度、内容深化の過程として押さえ意識的に連続して読もうとする「社会認識の歩み」の総体的理解の試みは、社会科学への理解のみならず、そのまま一般的な読書論の読書技術の指南教授でもある。

私達はどのような本を読む場合にも、紙面にある一字一句の字面をそのまま映像カメラのように機械的に均等に読んで内容理解しているわけではない。書物に書かれてある膨大な文章群からポイント濃淡を見極め重要な部分を主に見切り、そこに前後との相違や内容深化の展開を読み取って文脈要旨として総体的に理解するという作業を日常的な読書にて、たとえ無意識であれ、日々遂行している。本書での「社会認識の歩み」の理解が、そのまま一般的な読書論の技術指導にも実はなっているのだ。ここが本書に事前に張りめぐらされた「かなり(の)伏線」の内の主要なものの一つである。

本新書は1971年に岩波市民講座で行われた「社会認識の歩み」という同名講義に後日、加筆・訂正して一冊の書籍にまとめたものである。岩波新書の青「社会認識の歩み」の著者・内田義彦は経済学者であり、自身は「経済理論史家」を自認するほどの人であった。そのため経済理論の歴史的形成に関する内田義彦の残した仕事はどれも素晴らしい。特にアダム・スミスに対する内田の読みの解説は非常に優れている。同時代の戦後の日本の経済学者、大塚久雄や高島善哉のスミスの読みを精密さと大胆さにおいて内田義彦は越えている。

内田義彦の岩波新書での執筆は「資本論の世界」(1966年)と「社会認識の歩み」(1971年)と「読書と社会科学」(1985年)があり、奇(く)しくも内田の「岩波三部作」のような体裁になっている。その他、内田義彦の著作として「経済学の生誕」(1953年)や「経済学史講義」(1961年)がある。いずれも大変に読みごたえのある名著であり良書だ。