アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(250)田中浩「ホッブズ」

イギリスの哲学者・政治学者であり、経験論と唯物論に基づき社会契約論(より正確には統治契約論)を展開して「リヴァイアサン」(1651年)を著したトマス・ホッブズ(1588─1679年)は、ピューリタン革命の時代に活動した。

父親が牧師であったホッブズは英国国教会に信仰厚く、オクスフォード大学にて神学(スコラ哲学)を修めた人であったが、後に数学(幾何学)を学び、政治的には絶対王政支持の絶対主義者であったのに、その唯物論的傾向からイギリス本国では保守派の王党派の人達から無神論者とにらまれ、身の危険を感じて大陸に亡命し、後に革命後に本国に帰国してみると今度はクロムウェルら革命遂行の議会派の人達から、かつての王党派と憎まれる。イギリス革命時に保守と革新の両陣営の同時代人から激しく恨みを買う。今にして思えばホッブズは、ある意味ちぐはぐで誠に気の毒な人であった。

そうした不運で生涯に渡り困難を抱えたホッブズは、独身で貴族の家庭教師を勤めながら思索と執筆を重ね、91歳の天寿を全うした。91歳といえば現代でもなかなかの長寿であるが、17世紀の当時において90代はさらに希(まれ)にみる長寿であったに違いない。そういったホッブズに関する評伝が、岩波新書の赤、田中浩「ホッブズ・リヴァイアサンの哲学者」(2016年)である。

岩波新書、田中浩「ホッブズ」の概要は以下だ。

「『万人の万人にたいする闘争』に終止符を打つために主権の確立を提唱したホッブズは、絶対君主の擁護者なのか。それとも、人間中心の政治共同体を構想した民主主義論者なのか。近代国家論の基礎を築いたにもかかわらず、ホッブズほど毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい哲学者はいない。第一人者がホッブズの多面的な思想と生涯を描いた決定版評伝」(表紙カバー裏解説)

本新書の奥付(おくづけ)を見ると、著者の田中浩は「1926年、佐賀県生まれ」とある。本書上梓時、著者の田中浩は90歳なのであった。90歳の田中浩が91歳のホッブズの生涯を著述するというのが、岩波新書「ホッブズ」は読んで誠に感慨深く格別に味がある。というのも家人や親族ら私の身の回りの人達を見ていると分かるが、人は年を取って来ると精密に物事を考えたり文章を執筆したりするのが面倒になって、やらなくなってしまう。そうした意味でも岩波新書「ホッブズ」を90歳にて書き上げた著者の田中浩に、私はひたすら頭が下がる尊敬の思いだ。

ただ田中浩「ホッブズ」は、あまり出来が良くない。ホッブズの概要や西洋哲学史と政治史全般をある程度、知っている者には多少の物足りなさが正直、残る。だが、ここでは本書の問題点について詳細に述べない。せいぜい軽く言って以下の2つの問題を最低限とりあえず指摘しておく。

(1)ホッブズに対し、彼が絶対王政擁護的な「社会契約論」(正確には統治契約)を展開したために「絶対君主の擁護者」とされる従来の厳しい否定的評価をひっくり返したいがゆえ、逆に不自然なまでに無理矢理にホッブズの名誉回復に努める肯定的な筆致になっており、「毀損」か、さもなくば「称賛」の平板なホッブズ評価記述になってしまっている。ホッブズに対する評価は、時間軸からの時代的画期と時代の限界性とを勘案して「前時代の思想からのつながりでホッブズにて××の画期はあったが、同時に××の時代的制約もあり、その限界性の課題はホッブズ以降の次の時代の思想家たちに引き継がれた」云々の複眼的評価が本来は適切である。

(2)ホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」の克服「平和」を現代社会の反戦「平和」に重ね合わせ、間違えて解釈している。「ホッブズ理論の遺産」として現代政治における国連主義の「世界平和」や日本の戦後民主主義の理念である「永続革命としての民主主義」まで、当のホッブズからしてみれば自身が主張した覚えのない事柄にまで話を広げ、「近代政治思想史上におけるホッブズの意義」として勝手に読み込んでしまっている。ホッブズや後のロックにて「社会契約論」や「自然権」の理論創出は、革命促進の理論的支柱のみならず、過度な革命進行による社会の荒廃、無秩序(アナーキー)を回避する動機から案出された秩序調和的な側面も持つものであったが(ホッブズもロックも急進的な革命の原理が人々の平穏な生活を脅かすことに恐怖と嫌悪を抱いており、ホッブズもロックもある時期には反革命の立場で王政復古を歓迎していた)、そうしたホッブズの城内「平和」論の現状維持的「平和」の保守性を見落としている。

ところで、大学OBのお年寄りと現役大学生の若者が話す際、高齢者だから記憶違いや言い間違えがしばしばあると、その度毎に若い学生がいちいち間違い指摘し、わざわざ何度も訂正して、同席した私が非常にハラハラした経験が以前にあった。後々残るような公的記録の座談や対論でなく私的でフランクな雑談会話にて、正確でない間違い発言で当人の名誉が大々的に損なわれる恐れはないのだから、年長者の記憶違い勘違いを逐一執拗に指摘し訂正する必要はない。ところが、若い大学生は物事を学んで知ったばかりで余裕がなく機転が利かず、目先の細かな正しさに拘泥(こうでい)するから。若い学生はそこそこ知識はあって確かに「賢い」かもしれないが、経験の少ない融通の利かない生真面目な「馬鹿」だから(笑)。

お年寄りが間違えても、年長の相手のことを思って今さらその人に無駄に恥をかかせることなく、目先の正誤性にこだわらずに間違いを内心知って「そのことに気づいていない」フリをして、そのままやり過ごせ。間違いをいちいち相手に指摘せず、自分が自身の頭の中で分かってさえいればよい。そうした思いが私には昔から一貫してある。

物事の細かな正誤性に固執するより、その場での相手のメンツやプライドの他者の人格を優先すべき判断状況は往々にしてよくある。90歳の高齢で岩波新書「ホッブズ」を執筆した田中浩に対しても、同様の思いがする。