アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(251)遠山茂樹「明治維新と現代」

1968年は明治維新の1868年からちょうど節目の百年目に当たり、この時期に明治維新ないし日本近代百年の歴史を再検討しようという機運が世論にて高まっていた。

ところが、当時の自民党保守政権の佐藤内閣にて挙行された「明治百年記念式典」は、明治維新の高評価と日本の近代史全般の肯定賞賛に終始するものであり、近代日本における天皇制国家の絶対主義的支配や近隣アジア諸国に対する戦争責任への反省総括が不十分であったため、国家主導の自画自賛な明治百年記念式典は多くの国民と知識人からの批判にさらされたのだった。1968年といえば私は生まれておらず、維新百年目の節目に当たり明治維新ないし日本近代の歴史的評価をめぐる当時の世論を二分する世相を実際に知らないが、後に1968年時の書籍を読み返してみると、この維新評価と近代日本総括のトピックが日本近代史専攻の維新史研究者のみならず、日本史研究以外の専門外の知識人をも幅広く巻き込んだ一大国民的議論であったことが分かる。

例えば当時の岩波新書、増田四郎「ヨーロッパとは何か」(1967年)の中で西洋史専攻の増田でさえ、以下のように書いて政府主催の明治百年記念行事に対し批判の疑問を呈しているのであった。

「最近わが国では明治百年だと騒がれているが、一体なにをお祝いするのか。いろいろな祝い方はあるのであろうが、…なるほど形の上では近代化が行なわれたけれども、社会生活をより合理的にしていこうという社会哲学とでもいうか、あるいは政治哲学というか、そうした面ではすこしも近代化されていないことを思うべきだと考える。…よく幕末や明治初期の偉いといわれる政治家や思想家などの私生活を見ても、国のことについては一生懸命やるけれども、…良識ある市民として恥じぬだけの生き方をしたか、あるいは一般民衆を軽視するようなふるまいはなかったかという段になると、かなり疑問のある人が多い」(「日本の近代化とヨーロッパ」)

これは、日本近代史専門外のヨーロッパ史専攻の増田四郎による「明治百年の反省」についての簡潔な短い記述ではあるけれど、明治維新と日本の近代化の肯定賞賛に終始する国家主導の自画自賛な維新百年記念キャンペーンに対する極めて真っ当で的確な批判の文章だ。明治以来の日本の近代化を「外的な近代化」と「内的な近代化」とに分けて、前者の外的な都市化や工業化や資本主義化の社会合理化の「近代」は積極的に摂取するが、国の指導者が一般民衆を軽視する愚民観を保持したままでいるような、後者の内的な個人主義や民主主義や人権思想の内面思想の「近代」は不十分な受容に終わり、その「内面的な近代化」たる個人主義や民主化思想の不足ゆえに日本の「近代」は、やがて天皇制ファシズムの全体主義にのみ込まれてしまったとする戦後歴史学の典型的な日本「近代」批判の言説に、増田四郎のこの文章は連なっている。

さらに具体的に言って、こうした増田四郎の「明治百年の反省」記述は、当時の官制維新百年式典を支えていた日本近代の賞賛史観に対する、以下のような痛烈批判に実に重なっていた。

政府による明治維新評価と日本の近代総括にて、富国強兵路線に連なる明治国家の「上からの」近代化、つまりは工業化の達成や統一国家形成下における教育の普及の面を異常に持ち上げて高く評価する。また明治の指導者の役割を過大に評価し過ぎる。加えてその反面、国家主義と帝国主義への問題認識が弱い。国内の天皇制ファシズム体制下における国民弾圧・軍事動員の問題や、国外での近隣アジア諸国に対する戦時暴力、植民地的支配の戦争責任の問題が見事に看過されている。維新百年を迎えるに当たり、日本の国家にとって都合の悪いことは悉(ことごと)く排除され、日本の近代礼賛を主とした維新百年祝賀行事になってしまっている。

さて岩波新書の青、遠山茂樹「明治維新と現代」(1968年)の帯には次のような文が記載されてある。

「最近また、明治維新をめぐる議論がさかんである。しかし、それが現代にとっていかなる意味をもつかという問題意識をもたない議論が多い。明治維新がになった課題は、けっして解決ずみの過去のものではない。本書は、戦後における諸研究の成果の上にたって、従来の論争点を整理しつつ、幕末日本の歴史的発展段階、当時の国際的状況、封建制崩壊にはたした人民の役割、明治政府による諸改革の意味などを再検討し、明治維新の現代的意義について新たな問題提起を行おうとする」

本新書が明治維新からちょうど百年目の1968年の出版であり、「最近また、明治維新をめぐる議論がさかんである。しかし、それが現代にとっていかなる意味をもつかという問題意識をもたない議論が多い」と帯解説文にあることから、著者の遠山茂樹が当時の国家主導の自画自賛な明治百年記念運動に対し相当に批判的で、本書が政府見解とは別個の「明治維新の現代的意義について新たな問題提起を行おうとする」主旨の内容であることは容易に察しがつく。岩波新書「明治維新と現代」は、官制明治百年記念式典に見られる明治維新評価と日本の近代総括に対する批判的な対抗言説なのであった。事実、「明治百年記念準備会議での佐藤首相の挨拶や委員の発言にあらわれた明治維新観および日本近代史観」に対しての遠山茂樹の批判的言及も、岩波新書「明治維新と現代」にはある。

そして、明治維新と日本の近代史に対する評価基軸の方法論のあり方は、冒頭「はじめに」にて遠山により周到にまとめられている。続く本論では、戦前からの維新史研究を振り返る「Ⅰ・戦前の明治維新史研究」の概要や、「Ⅱ・世界資本主義の強制」の当時の日本が置かれた国際環境の分析、維新前夜の一般民衆を洞察した「Ⅲ・封建制崩壊における人民の役割」考察や、尊王論の出自から近代天皇制への確立を見定める「Ⅳ・志士の思想と行動」、廃藩置県を始めとする明治新政府の諸改革を概説した「Ⅴ・統一国家形成の特質」や、自由民権運動の激化と衰退、日清戦争を経ての「Ⅵ・帝国主義成立の前提」まで全六章に渡り述べて、現代における正当な明治維新評価のために先行研究の学術成果と詳細史料と維新史概論を読者に供するものとなっている。

私が学生の頃から岩波新書の遠山茂樹「明治維新と現代」は維新史研究をやる者にとって必読の古典の位置付けであり、「本書を読まずして明治維新について語る者は素人のモグリ」のような空気があった。大学の日本史講義に出席して、近代の明治維新研究に関する限り、石井孝「明治維新の舞台裏」(1960年)と遠山茂樹「明治維新と現代」(1968年)と芝原拓自「世界史のなかの明治維新」(1977年)の三冊の岩波新書は必ず読んでおけ!の指導を受けたことを、私は今でも懐かしく思い出す。