アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(452)柳父章「翻訳語成立事情」

外国や他地域から異文化の制度、技術、宗教、学問らを輸入摂取する際に、もともと自国の文化にそれに対応した言葉がないために新しく新語を造語したり、これまでにあった自国の言葉に別の意味・用法を加えて改変する必要が生じる、いわゆる「翻訳問題」というのが昔からあった。

しかし、この「翻訳問題」は実のところ、そうした言葉対応の翻訳の次元の問題にのみ、とどまるものではない。もともと翻訳語に対応する言語がないのだから、異文化を摂取する側の人々は、その精神や概念まで本当の意味で正しく理解できているかは果てしなく怪(あや)しい。異文化受容の際に、もともとある受容主体側の文化により、輸入の異国文化に対する理解の誤解や変容をきたす「思想受容の際の変容の問題」もあった。このことから翻訳輸入の言語次元の「翻訳問題」は、異文化理解次元の「思想受容の際の変容の問題」と密接につながっている。ゆえに「翻訳問題」を論ずる際には、「思想受容の際の変容の問題」にまで本質的に掘り下げて論及しなければ不十分といえる。

こういった「翻訳問題」および「思想受容の際の変容の問題」は、日本の歴史において昔から頻繁に現れる現象問題であった。例えば古代日本の仏教受容、近世日本での儒学の発展、近代日本にての近代化や立憲主義の思想の摂取ら、中国や西洋からの日本国内への宗教、学問、思想制度の輸入摂取に際し「翻訳問題」および「思想受容の際の変容の問題」は常にあったのだ。それぞれについて、古代日本が受容し当時の日本の人々が理解した仏教と、日本に伝来する以前のインド・中国の仏教との相違を精査してみるとよい。確かに、古代の日本に伝来して以後長く日本に根付いた仏教は、伝来受容の過程でもともとの日本の文化や日本の風土や慣習らにより大きく変容せられて、元の大陸のインド・中国の仏教とは明らかに似て非なる「日本の仏教」になってしまっているのであった。同様に、古代と宋代の中国・朝鮮の儒教と、日本の近世の江戸時代に様々な学派に分岐し発展した「日本の儒教」、朱子学を始めとする各学派の儒教理解とその教義の展開を比較考察してみれば、儒教も中国・朝鮮の大陸から日本に伝わる過程で日本人の思考の型に合うように大きく改変され理解されていることが分かる。

はたまた明治維新前後の近代化や立憲主義の各種のヨーロッパの近代思想も、日本に輸入後には「近代化」の意味解釈や「立憲主義とは何か」の制度理解は、いかにもな日本的理解の日本人的把握であって元の西洋の伝統的な近代とは明らかに異なっているのである。「日本の近代化」の過程にて、西洋の近代思想は日本的偏向(バイアス)の変容を受けて確実にその内容は変わっていた。これら事例からも日本の歴史において異文化の制度、技術、宗教、学問らの輸入摂取に伴う「翻訳問題」および「思想受容の際の変容の問題」が頻繁にあったことを私達は容易に理解しうる。

柳父章(やなぶ・あきら)は翻訳家であり、比較文化の研究者である。柳父は前から異文化の制度、技術、宗教、学問らを輸入摂取する際に不可避的に生じる「翻訳問題」を取り上げ論じてきた人であった。柳父章の場合、翻訳の問題は、日本の近代、明治維新前後に西洋の近代思想を輸入摂取する際の問題として主に考察され記述された。例えば、西洋近代の人権思想である「ライト」や「ソサイエティ」や「ナチュラル」や「リバティ」ないしは「フリー」に該当する言葉やそもそもの思想概念が明治以前の日本にはなかった。そのため幕末から維新期にかけて当時の日本の啓蒙思想家や学者や政治家らが、それに対応する新たな日本語を造語するわけである。それぞれに「ライト」は「権利」、「ソサイエティ」は「社会」、「ナチュラル」は「自然」、「リバティ」ないしは「フリー」は「自由」と翻訳し以後日本語表記するというように。

それら近代日本の「翻訳問題」をテーマにした一連の書籍を柳父章は前からよく出していた。「翻訳の思想・自然とnature」(1977年)や「ゴッドと上帝」(1986年、後に「ゴッドは神か上帝か」2001年にタイトル変更して復刊)などである。

岩波新書の黄、柳父章「翻訳語成立事情」(1982年)も、そうした日本の近代化に伴う明治維新前後の翻訳語の決定経緯と裏事情、まさに「翻訳語成立(の)事情」について、各言葉ごとにそれぞれ詳しく紹介している。本新書で取り上げられている翻訳語は「社会、個人、近代、美、恋愛、存在、自然、権利、自由、彼・彼女」の全10語である。

これらの中でも「自由」と「社会」の翻訳語が特に重要だと私には思える。

国家ら政治権力の圧力に抗して人民の権利保障を唱える個人の自由の権利概念は、もともと日本の歴史文化になかった。その個人の自由の権利概念を翻訳して輸入する際に、幕末維新期の近代日本では、ヨーロッパ思想の正当な自由の権利は、放埒(ほうらつ・「気ままに振るまうこと」)や放縦(ほうじゅう・「規律や節度がなく、わがままなこと」)の意味で従来、主に使われていた「自由」の日本語に翻訳変換され、内容まで「自由とはやりたい放題やること、勝手気ままに振るまうこと」の負の意味で当初の日本の人々に「思想受容の際の変容の問題」を介して主に理解されたのであった。この点について、明治期の自由民権運動にて、民権運動を進める運動主体側の、例えば板垣退助や中江兆民や植木枝盛、逆に民権運動を抑える明治政府側の伊藤博文や大久保利通ら、彼らが自由民権運動における「自由」とはどういった意味と認識理解していたか、各人ごとに追跡し調べまとめてみるとよい。そこには確かに近代日本の「思想受容の際の変容の問題」の深刻さがあるのである。

同様に「社会」に関しても、もともと日本の歴史文化には、国家(政治権力)とは異なり、時に政治権力の圧政の暴走を外部から押さえる成熟した市民社会はなかった。日本の歴史において市民社会は皆無であった。いつの時代でも政治権力の国家だけであった。ゆえにイギリスの名誉革命やフランス革命のような市民革命の歴史は日本史にはなかった。従来、歴史家が「日本には国家はあるが社会はない」と苦々しく指摘する所以(ゆえん)である。確かに明治維新前後の日本には、西洋のソサイエティに該当する市民社会など何ら成立していなかったのだ。そこで市民社会のソサイエティは「社会」と後に翻訳され日本語になったが、現実の日本にあったのは、国家(政治権力)と異なって時に政治権力の圧政の暴走を外部から押さえる成熟した市民社会であるよりは、国家に親和的であり政治権力支配の末端として、日常の生活場面の隅々に至るまで各人が皆を自発的に相互監視し集団主義の同調圧力で個人を国家に縛りつける「世間」であった。「世間様に顔向けができない」「非国民」といった言い回しや言葉が古くから根強くある日本文化の歴史の問題として、以上のことの実感的理解は容易だ。ここにも翻訳摂取の際に、ヨーロッパ近代の市民社会の概念である「社会」がともすれば大勢にて伝統日本的な「世間」に変容され理解されしまう、近代日本における「思想受容の際の変容の問題」の深さがあった。

私たちは、この「翻訳問題」ならびに「思想受容の際の変容の問題」の日本の歴史を問題史的に見つめ厳しく再考すべきであろう。