アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(252)藤原辰史「給食の歴史」

岩波新書の赤、藤原辰史「給食の歴史」(2018年)の表紙カバー裏解説文は次のようになっている。

「学校で毎日のように口にしてきた給食。楽しかった人も、苦痛の時間だった人もいるはず。子どもの味覚に対する権力行使ともいえる側面と、未来へ命をつなぎ新しい教育を模索する側面。給食は、明暗が交錯する『舞台』である。貧困、災害、運動、教育、世界という五つの視角から知られざる歴史に迫り、今後の可能性を探る」

本書は全6章よりなる。冒頭に「まえがき」、続く第1章の序論をおき、第2章以降いよいよ「給食の歴史」の本編記述に入る。本論の各章概要について著者の藤原辰史その人に説明してもらうと、

「給食史の簡単な推移を確認しておきたい。大きく分けて、萌芽期、占領期、発展期、行革期の四期である。萌芽期(第2章)は、一九世紀後半から敗戦までの『禍の時代』。関東大震災が東京府の給食制度誕生のきっかけとなり、一九三0年代の東北凶作から戦災まで、国庫支出の給食による子どもの救済が行なわれる。占領期(第3章)は、敗戦後から一九五二年まで、『ララ』という慈善団体による脱脂粉乳とコッペパンの『贈与の時代』。一九四六年の文部・厚生・農林三省次官の通達によって、散発的だった給食が全国展開の国家プロジェクトに変貌を遂げる。発展期(第4章)は、占領後から一九七0年代まで、占領からの『脱皮の時代』、依然として外国からの食糧輸入に依拠しつつも、一九五四年の学校給食法を中心に日本独自の展開を模索する時代である。行革期(第5章)は、一九七0年代、とくに一九七三年の石油危機から現在に至るまでの時代。低成長時代に突入し、行革、すなわち行政改革による公的部門の合理化が進む『新自由主義の時代』である。中曽根康弘政権下の第二次臨時行政調査会(臨調)がその頂点に位置づけられる。給食センター化が進み、学校栄養職員、調理員、教師、親などの陳情や抵抗運動が活発化する時代である。以上、日本の給食史の検証を踏まえたうえで、第6章では、来るべき時代の給食のあり方を探っていきたい」(「まえがき・給食という舞台」)

本書は全6章の構成であるが、表紙カバー裏解説文にある「貧困、災害、運動、教育、世界という五つの視角」は、第2章の「萌芽期」での関東大震災と東北凶作と戦災が「災害」と「貧困」に、第3章の「占領期」にての省庁による給食全国展開の国家プロジェクトが「運動」に当たり、第4章の「発展期」における学校給食法の独自展開が「教育」に、第5章の「行革期」での石油危機からグローバル経済浸透に伴う新自由主義の台頭が「世界」にそれぞれ該当している。岩波新書「給食の歴史」は日本の給食史の検証を通して近代日本の政治社会史を概観するものだ。本書を読んで、私としては「なるほど、そうかもね」と時に納得したり、「まぁ、いろいろあるわな」と軽く流したりということになる。

本新書の肝(きも)は、本来は教育史や政治史や社会史にて、特に教育史における各時代の教育法規や教育審議会答申や就学年次編成やカリュキュラム構成、その他、労働運動史や国際関係史や食糧生産流通問題や社会の事件簿を介して従来は幅広く明らかにされてきた近代日本社会の事柄を「給食の歴史」という学校生活の狭い一領域に無理に落とし込んで詳細に論じる点にあり、本来は給食など学術テーマには到底なり得ない日常トピックに対し、「たかが給食、されど給食」にて日本の「給食の歴史」を学識立てて、あえてわざと真剣に熱心に考察しようとしてみせる、いわゆる「冗談まじめ」ないしは「まじめ冗談」の奇妙な読み味がその骨頂のように思える。

「冗談まじめ」ないしは「まじめ冗談」の奇妙な読み味というのは、先に引用した表紙カバー裏解説文での、確かにあらゆる人的関係にて政治的な権力関係が内在することを私も否定しないが、それにしても相当に被害者意識が強い感傷的で大袈裟(おおげさ)な述べ方のように思える、「(学校給食は)子どもの味覚に対する権力行使ともいえる」云々の文章であったり、例えば本論にて第3章の学校給食の「占領期」における「黒船再来」と称される「マッカーサーの降臨」に関する以下のような著者の語りだ。

「厚木飛行場に着き、コーンパイプを口にくわえサングラズをかけタラップを降りたマッカーサーは、『青い目の大君』あるいは自身の言葉を借りれば『歴史上いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことがない』ほどの権力者として、敗戦に打ちひしがれた飢餓列島に君臨することになる。そして、ほぼすべての小学校を網羅することになる戦後給食制度も、日本国憲法、農地改革、婦人参政権、財閥解体、沖縄の分離、日米安全保障条約と同様に占領が生んだ『子どもたち』であった」(「第3章・黒船再来」76・77ページ)

敗戦後の占領期にてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサーの指示により、日本国憲法も農地改革も婦人参政権も戦後の全国的な給食制度も施行されたことは事実で相違ないけれど、本書テーマである学校給食制度と日本国憲法や農地改革や婦人参政権とを「同様に占領が生んだ『子どもたち』」として、同価値の同次元にて語るのは明らかにおかしい。ゆえに、この文章は冗談として少しだけ面白い(笑)。カテゴリー分類にて「学校給食」は、せいぜい言って「教育改革」の範疇(はんちゅう)に属するさらに下位の要素であって、それを「日本国憲法」や「農地改革」らの上位カテゴリーと同列で論じるのは概念相互の上下の包含関係を正確に押さえていない。このように「学校給食」と「日本国憲法」とをカテゴリーの上下を無視して無理矢理に同列に論じてしまうのは、本来は近代日本教育史や政治史や社会史にて幅広く明らかにされてきた近代日本社会の事柄を、本当は「給食の歴史」のテーマにして考察する必然性はないにもかかわらず、あえて「給食の歴史」という学校生活の狭い一領域に強引に落とし込み、わざと迂遠に真剣に考察しようとしてみせる著者の無理が元々あるからに他ならない。

岩波新書の赤、藤原辰史「給食の歴史」は専門学術的な「学」として幼稚すぎる。本書に対し書評にて高評価を下せる読者とは、どういった人達であろうか。大人になっても学生時代の学校給食の思い出を懐かしんで熱心に語れる人。学校給食に関する事細かな蘊蓄(うんちく)がもともと好きな人。学校給食の現場に携わり職業従事している(いた)人。本書にて「給食の歴史」推移を通して語られる、被災や貧困をテコに民衆を囲い込もうとする天皇制国家の社会主義的施策の戦前から、教育現場の公的部門にも市場原理の新自由主義(ネオリベラリズム)が浸透する現代に至るまでの近代日本の教育史や社会史の概要をあまり知らず、本新書を読んで初めて知った人。そして「たかが給食、されど給食」の日本の「給食の歴史」をあえてわざと真剣に熱心に考察する、いわゆる「冗談まじめ」ないしは「まじめ冗談」を許容できて楽しめる人だと思える。

著者の藤原辰史は専門が農業史であり、この人には岩波新書「給食の歴史」以外にも「稲の大東亜共栄圏」(2012年)や「ナチスのキッチン」(2012年)の「食」を介した政治社会的考察の著作がある。

藤原辰史は農業史が専門の人で、食や農業についての実態調査や歴史史料に基づいた社会学的考察をなす人である。岩波新書「給食の歴史」他、氏の著作を連続して読んで「給食から戦後日本」とか「有機農業からナチス・ドイツ」など、比較的どうでもよい日常の細かな事象(給食とか有機農業など)から歴史的に大きな事柄(戦後日本やナチス・ドイツら)を無理矢理に強引に論じる毎度の手法が、いわゆる「冗談まじめ」ないしは「まじめ冗談」の、この人の味であると私は思う。

岩波新書の赤、藤原辰史「給食の歴史」など、私には一読して専門学術的な「学」として幼稚すぎる。藤原辰史は最初から読者に笑いを取りに行っているわけではなく、ただ当人は極めて真面目に書いているのに結果、冗談っぽい社会学研究に自然となってしまう、この人の資質や個性から来る「冗談まじめ」なのか、逆に真面目に研究するフリをして本当はひそかに読者からの笑いを確信犯的に取りに行っている「まじめ冗談」なのか、私にはよく分からないが。