アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(35)丸山茂徳 磯崎行雄「生命と地球の歴史」

岩波新書の赤、丸山茂徳・磯崎行雄「生命と地球の歴史」(1998年)は、おそらくは高校理科の「地学」の教科内容に該当するのではないか。私は高校時代、理科の科目は化学と物理を選択していて地学を本格的に学んだことがなかったので、本書の内容が大変に新鮮で非常に楽しんで読めた。

「巨大隕石の落下が相つぎ、大気、核、マントル、海洋がつくられていった初期地球。中央海嶺上で熱水から栄養をもらって誕生した生命。変動する地球と生命とは、密接な関係をもちながら現在まで歴史を刻んできた。プルーム、プレートの両テクトニクスと古生物学などの学際的な最新研究が描き出す、地球46億年、生命40億年の新たな変遷像」(表紙カバー裏解説)

ところで、精神史や思想史におけるトピックの一つに「自己超越」の発想というものがある。人間は卑小で有限で独我な実存であり、人間の生は常に小さく限定されており独善的で実にはかない。その時に自己を超越する普遍的なものへ、あえて主体的にリンクする。そして自己を超越した普遍的なものと自身との対峙を経て、その超越からの跳(は)ね返りを通して再度より深められた自己の存在意味、自身の意味の根源を見出そうとする。そういった発想思考の操作を「自己超越」と呼ぶ。この自己超越の手続きを通して人間が自身の存在の意味を問い自身の根源について考える時、人間は自己の限界を超えて自身の存在の意味を問い求める内的自由を知らず知らずの内に手にしている。

「自己超越」における「超越」とは個別な自己を超える普遍的なもの、自己の存在を凌駕(りょうが)し軽々と超え圧倒する絶対的なもの、例えば一神教における絶対神であったり、無常で絶えず流れ行く宇宙の時間の普遍的真理であったり、普遍的規範の合理的ヒューマニズムであったり、心を尽くして集中没入する目の前の絶対的修養行為であったりする。そういった現存在の自己を軽々と「超越」するような普遍的・絶対的・圧倒的なものを主体的・自覚的に、あえて自分の前に持ってきて「自己」と対峙させる。すると、その瞬間に有限で執着な小さい現存在の自己(小我!)が対象化されて、例えば「今抱えている自分の悩みは何とちっぽけなものなのだろう」「目先の損得勘定で自身が利するためだけに振る舞う自分は何と醜(みにく)いのだろう」など、超越からの跳ね返りを通じて現在の有限卑小な自身を相対化できる。そして、そのことを通し己の実存の本来あるべき意味を知り、自己認識が深められ限界を超えて自分の存在のあり方が変わる。非我、無心、平静さ、我執の超克、苦しみの解脱、自然随意の境地へ達する。結果、思考も表情も発言も行動も変わる。

こうした自己超越の事例として昔から定番でよく挙げられるのは、例えば「旧約聖書」のヨブ記に見られる非情な絶対神のキリスト教、宇宙的真理の法(ダルマ)を悟り覚醒した仏陀のインド仏教、弥陀の誓願不思議を知ることで己が「悪人」(人間悪)の自覚に至る親鸞の浄土真宗、「正法眼蔵」と「只管打坐」の厳しい行為の型にはめて行為への没入にて自己の「小我」を断つ道元の曹洞宗、人間は絶対的神の被造物で神を不可知であるがゆえ世俗内「禁欲」で勤勉な主体の合理性が生まれるカルヴァンの「予定説」、普遍的な自然法と人権規範尊重を志向するヒューマニズム思潮・西洋の近代思想一般、禅の手法を手がかりに人間エゴイズムを凝視し結果、静かに取り去る夏目漱石の「則天去私」の境地がある。

私が住んでいる地域の近郊に派手に観光地化されていない、いつも観光客がまばらな鍾乳洞(大分県臼杵市の風連鍾乳洞)があり、その鍾乳洞が実に美しく素晴らしい。定期的にその鍾乳洞へ私はよく出かける。悩みがある時や精神的に疲労困憊(ひろうこんぱい)しイライラしている時に、その鍾乳洞に入り奥まで行って壁面を無心に眺めていると、「この鍾乳洞は何千万年、いや何億年もかけて誰からも知られることなく、地球の成立から自然の浸食作用を重ね静かに長い時間を経て生成され今日に至るのだな。それに比べて私の人間としての生の短さ、自身が今抱えている悩みのくだらなさ、自分のこだわり、執着の我執。ああしたい・こうなりたいの目先の損得勘定、自身の欲望充足に奔走して振り回される自我の小ささ・滑稽(こっけい)さ」が痛感させられる。絶対的な美しさで圧倒的な時間軸の中に静かにある鍾乳洞の超越的自然に対峙していると、現存在の自己が相対化されて今までの小さな自分が全て洗い流されるような、そんな心持ちになる。これ、すなわち「自己超越」の発想である。

岩波新書の赤「生命と地球の歴史」を読んだ際にも、長い時間を経て生成された「地球46億年と生命40億年の壮大な歴史」の解説記述に圧倒されて、自己超越の感触が湧(わ)き上がる。毎回、そうした読後感に私は襲われる。